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ウルストンクラフト

18世紀末、イギリスの女性解放運動の先駆者とされる女性。フランス革命の影響を受け、自由と平等の理念の下で女性解放に取り組み、教育の実践、著作の刊行などで活躍した。

ウルストンクラフト

メアリ=ウルストンクラフト
Wikimedia Commons

 メアリ=ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft 1759-97 は、18世紀イギリス第一帝国の時代に、ロンドンの下層社会に育ち、小間使いや女中をしながら女性の無権利状態からの脱却を目指すようになり、16歳で読み書きを覚えて教師になろうと志した。アメリカ独立戦争で活躍し、イギリスに戻って王政反対の論陣を張っていたトマス=ペインを知り、ペインとともにエドマンド=バークのフランス革命否定論に反駁し、人権擁護の発言を開始した。1792年に発表した『女性の権利の擁護』は、それまでふれられることの無かった女性の権利を正面から主張したので、大きな反響を呼んだ。 → 女性解放運動

『女性の権利の擁護』

 ウルストンクラフトはどんなことを書いているのだろうか。彼女は父親や姉の夫、雇い主の主人などの男性を軽蔑し、こき下ろすだけでなく、女性にも辛辣だった。女性も無意味な競争を強いられているという。
(引用)結婚までの女たちの課題は、男に気に入られることです。結婚後は、まれな例外を除いて女たちは、本能のねちこいしつこさでおんなじ一本道を歩きます。この社会では有徳な女たちさえ、たえず感じのよい女であろうと努めているかぎり、自分の性別がなにかを、決して忘れることはありません。美しい女とさかしい男は、ひとしく、まわりのすべての人の注意をわが身にあつめることばかり考えます。……<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(下)1973 岩波新書 p.154 の孫引き>
 ウルストンクラフトのこの初期の論調は、荒削りなところもあり不十分なものではあったが、フランス革命のインパクトを受け、産業革命が進行して形成された資本主義社会の合理主義を背景として生まれた、女性解放運動の訴えであったと位置付けることができる。

フランス革命への参加と挫折

 フランス革命に強い関心を寄せたウルストンクラフトは同年、第一共和政が開始されたパリに渡って革命運動に加わり、パリでマノン=ロランのサロンなどに参加して自由と平等の理念を吸収していった。
 1793年1月に国民公会の決議により国王16世が処刑されると、イギリス首相ピットなどが第1回対仏大同盟を提唱して英仏関係が悪化したため、自由に活動できなくなったウルストンクラフトはアメリカ人イムレイと同棲、ひっそりと暮らしていたが1794年7月テルミドールのクーデタによってロベスピエールが殺され、革命は明らかに退潮し、彼女の居場所もなくなった。イムレイとの間で女の子が生まれたが、彼の心は次第にウルストンクラフトから離れていった。

帰国後の思想遍歴

 失意のウルストンクラフトはロンドンに戻ったが、イギリスではフランス革命の暴力を非難し、革命は失敗したという保守的な論調が勢いを増していた。絶望した彼女は入水自殺をはかったが失敗、ようやくサミュエル=ジョンソンの支援を受けて著述を再開、過激な政治闘争の主張は影をひそめ、女性の能力の解放をロマンチックな文章で表現するようになり、小説も執筆した。またジャーナリストとしてスカンジナビアを旅行してそのルポルタージュを発表し好評を博した。その間に当時著名な自由主義者、無政府主義者だったゴドウィンと同棲するようになり、結婚制度にとらわれない新しい家族のあり方を実践した。社会の強い非難を受けながらも続けられた二人の生活は1年しか続かず、97年9月10日、彼女は出産のために命を終えた。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(下)1973 岩波新書 p.125-173>
 ウルストンクラフトの思想の変化、その歴史的役割と限界、などについては<水田珠枝『女性解放思想の歩み』1973 岩波新書>に詳細な分析と論評があるので参照されたい。

Episode フランケンシュタインの産みの親

 ガリーナ・セレブリャコワは『フランス革命期の女たち』の最後でウルストンクラーフトを取り上げ、その末尾に次のような事を記している。
(引用)彼女(ウルストンクラーフト)のふたりの娘の運命も尋常ではない。下の娘、メアリ・ゴドウィンは、才能ある女流作家となり、大詩人シェリの妻となった。上の娘、フラーンシス・イムレイは、バイロンと親密になった。だがこの関係は悲劇的な結末をみた。バイロンの愛人への熱が冷めたとき、彼女は入水した。<ガリーナ・セレブリャコワ『上掲書』p.173>
 ウルストンクラフトの娘たちの数奇な運命とは何か、ちょっと探ってみると、下の娘メアリはシェリと結婚し、メアリ・シェリと名乗るが、その名は『フランケンシュタイン』の産みの親として有名であることが判った。夫のシェリーはロマン派の詩人として知られており、その友人にバイロンがいた。あるときバイロンはレマン湖の別荘で友人たちを招き、客たちに怪奇談を披露することを求めた。その時招かれていたメアリが思いついたのが人造人間の怪奇談だった。メアリはその着想を温め、フランケンシュタイン博士が墓場から死体をとりだし、体の部分を組み合わせて命を吹き込み人造人間を生み出したという話に膨らませ、1818年に小説として発表した。これがベストセラーとなり、20世紀になって映画化されフランケンシュタインの名は怪物(怪人?)として一人歩きするようになった。つまりメアリ・シュリの『フランケンシュタイン』はゴシック小説というジャンルの文学だったが、現代のさまざまなSFホラーの元祖となったわけだ。
 上の娘のフランシスもバイロンとの関係がる。バイロンの愛人になったわけだが、バイロンはギリシア独立戦争に加わった情熱家であったが同時に恋多きプレイボーイで次から次と人妻と付き合い、いつしかフランシスは遠ざけられてしまった。それが原因でフランシスは入水自殺したのだった。