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女性解放運動

封建社会の強固な男性支配に対して、女性を解放し、社会的地位を向上させることをめざした運動。市民革命に伴う人権思想の中から生まれ、近代社会でも残存した家父長制手的な家族のあり方からの解放、経済的自立、政治的には女性参政権を求める運動は19世紀に活発になった。20世紀に大きく前進し、女性参政権は第二次世界大戦後に多くの国で認められた。しかし、現代においても女性差別の完全な消滅は世界的な課題となっており、フェミニズム運動として続いている。

 人類の長い歴史の中で、女性は長く男性上位のもとにおかれ、家族制度、経済制度、そして政治制度の面で著しく権利を奪われ、不平等な状態が続いていた。女性は、文明社会の形成に伴って生産労働、戦闘能力、統治能力などが必要とされるようになった段階で、そのいずれの面でも男性に劣るものとされ、出産、育児、家庭の維持といった側面への専従が普遍化、常識化していった。そのような男女の性差に基づく分業的な男女観は、封建社会を否定しその克服を目指した18世紀のヨーロッパ市民社会の啓蒙思想の中でもすぐには脱却できなかった。

啓蒙思想の中の女性観

 啓蒙思想の代表的な思想家ルソーは、『人間不平等起源論』で現実に存在する不平等は歴史的、社会的に作られてものに過ぎないと見抜き、また『社会契約論』で人権を持つ個々の自立した主体が契約によって社会を構成しており、国家も平等で自由な市民の契約によって成り立っている、と主張した。このように、人間は自由で平等な存在でありその権利は譲り渡すことの出来ない個人に由来すると説いたルソーであったが、彼のいう「人間」には女性は含まれていなかった。ルソーにとって女性は、男性によって保護される存在であり、男性を助けて家庭を守るのが務めであると考えていた。その女性観は彼が教育について語った『エミール』の中に強く反映している。同時代の啓蒙思想家の多くはこのルソーの思想の枠から出ることはなく、またその思想によって導かれたフランス革命においても女性解放は結果として顧みられなかった。<水田珠枝『女性解放思想の歩み』1973 岩波新書>

フランス革命での女性

 フランス革命では女性の活躍が多かった。革命思想が熱く語られ、実行に移される上で主要な場となったのは、女性が開くサロンの場であった。また革命を決定的に押し進めることになった1789年10月のヴェルサイユ行進は市民の中の女性たちが立ち上がったものであった。その時、民衆の先頭に立っていたいたテロアーニュ・ド・メリクールは、1792年の第二革命とも言われる8月10日事件でもサンキュロットの先頭に立って戦った。またオランプ=ド=グージュ人権宣言が男性の権利だけを述べていることに異議を申し立て、「女性の権利宣言」を発表した。ジロンド派のメンバーとしてサロンを主宰したマノン=ロランも重要な存在であった。また女優クレール・ラコンブは洗濯女など下層の女性労働者を「革命共和婦人協会」に組織して国民公会に押しかけるので“過激派”といわれ、ブルジョワ共和派のジロンド派とは激しく戦ったが、権力をにぎったロベスピエールらジャコバン派からも疎ましい存在と見られるようになり、その活動は、1793年10月に国民公会で女性政治結社禁止法が可決されたことで非合法とされてしまった。
 こうして革命が進行する中で共和政国家を樹立したジャコバン派政権では、彼女たちは相容れられなくなり、メリクールは逮捕されて発狂し、オランプ=ド=グージュとマノン=ロランは反革命としてギロチンにかけられ、クレール・ラコンブも革命の舞台から消えていった。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(上・下)1973 岩波新書>
オランプ=ド=グージュ 近年、フランス革命の最中の1791年9月、『女性の人権宣言』を発表したオランプ=ド=グージュが注目されている。その宣言は『人権宣言』の「人」を「女性」と置き換えて書き直し、参政権を含む女性の権利を明確に主張した。彼女は政治的な立場が王政と妥協的なジロンド派に近いという理由でロベスピエール独裁政権によって処刑されてしまったが、女性解放を初めて主張した世界史上の意義は高く評価されるようになった。
コンドルセ フランス革命の中では、ジロンド派コンドルセのように女性の権利を男性と平等と見る例外もあった。彼は『人間精神進歩の歴史』を書き、女性の権利を認めることが進歩の証しであると説いたが、そこでいう女性とは、あくまで有産階級で教養があることが前提とされていた。彼もまた、啓蒙思想段階の家庭観である男性が外で仕事をし、女性は家事と育児で男性を支えるという役割分担論から抜け出すことはできず、その壁を破ることはできなかった。その彼も、ジャコバン派によって処刑されている。
 フランス革命の過程で1792年に初めて実施された男性普通選挙も、その後の革命の後退に伴い、1795年憲法では財産による制限選挙に戻り、ましてや女性選挙権は実現しなかった。

ナポレオン法典の規定

 フランス革命の人権思想を継承し、立法化したとされる1804年3月公布のナポレオン法典であるが、女性の権利は革命前の家父長制時代と変わることはなかった。むしろ、妻は夫の後見に服するという家父長制の諸規定が確立し、妻は夫の同意がなければ裁判への出頭、固有財産の譲渡、債務の負担などの行為ができないと規定され、財産権では夫婦の共有財産の管理権は否認された。また離婚については革命中の1792年9月の離婚法では法定離婚や当事者の合意による協議離婚が認められたけれどもナポレオン法典でそれらは否定され、夫は妻の不貞を理由に離婚することができたが、妻は夫が相手の女性を夫婦共同の住居に引き入れないかぎり離婚の訴えはできないとされた。また刑法では妻の姦通は懲役になり得たのに対して、夫の姦通は相手を夫婦共同の住居に引き入れない限り罰せられない、とされた。さらに言えば、刑法では夫が自宅で妻の姦通を目撃した場合は妻を殺害しても処罰されないが、妻が夫を殺害した場合は処罰され、夫が姦通した妻を禁錮・重労働に科すこともできた。これらの規定は、1938年の法改正まで基本的には続き、フランスで民法上の男女平等が完成するのは1975年の改正を待たなければならない。<辻村みよ子・金城清子『女性の権利の歴史』岩波市民講座人間の歴史を考える⑧ 1992 岩波書店 p.46>

イギリスの人権思想

 イギリスでは13世紀のマグナ=カルタに始まり、ピューリタン革命の中で1689年の権利の章典に結実した人権思想の歴史がある。それらは中世的な枠組みの中にあり、近代的な人権思想と見ることはできないが、1690年のジョン=ロックの『市民政府論』は近代的人権論の最初の標識と言うことができる。18世紀に産業革命が進行するとブルジョワ社会の自由と平等の思想は普遍化したが、それは中世とは姿を変えた家父長制ともいうべき、家長が働いて富を得、妻はそれを支えるという男女分業に基づく家庭観と表裏一体だった。
 フランス革命が起きると、イギリスでは革命によって共和政になることを恐れた保守的な思想が現れた。その体表的な人物がエドモンド=バークであり、彼は1790年に『フランス革命の省察』を発表し、フランス革命の思想とその源流となったルソーの思想を批判、特にルソーの自然権思想による革命の非人道性を問題にし、行き過ぎた人権思想を牽制した。また功利主義の立場からベンサムも自然権に基づく人権の思想はフィックションに過ぎないと論じた。

ウルストンクラフトの思想

 そのようなバークの革命否定論は保守主義の原典として今も強い影響を及ぼしているが、それに対してはアメリカ独立戦争に参加したトマス=ペインが『人間の権利』を書いて反論している。もう一人、トマス=ペインとの交流によってバーク批判をおこなったのが女性のウルストンクラフトだった。ウルストンクラフトは貧しい家庭に育ち女中などで働きながら文字を覚え、肌身で感じた女性差別に対する闘いを始め、教育事業を実践しながら発言するようになり、フランス革命の自由と平等の思想に強く影響を受けていた。彼女は1792年に『女性の権利の擁護』を書いて、バークが人権を抽象論に過ぎないと主張するのに対し、人権は実際の人間に生得な、普遍的な権利でありながら、私有財産制を前提とした競争社会で歪められているのだと主張し、特に女性の権利を擁護して男性の理性の覚醒を訴えた。その書名の「擁護」vindication とは、フランス革命で掘り起こされて認められた「人権」を、バークなどの保守思想によって再び葬り去られることのないように、守り育てるという意味であった。
 ウルストンクラフトの主張はイギリスで注目されたが、急いで書かれたもので必ずしも精緻な議論を展開しているものでもなかったので、共感や同調者を集めることはできず、間もなく忘れ去られた。ウルストンクラフトの関心は当然のようにフランスに向かい、1792年末に単身渡仏する。フランス革命は国民公会で国王処刑をめぐりジロンド派とジャコバン派が激しく対立しており、ウルストンクラフトはジロンド派のマノン=ロランなどのサロンに参加しながら革命の動向を見守った。しかし、革命は彼女の期待を裏切り、権力をにぎったジャコバン派は次々と敵対者を処刑、その中には女性の権利に一定の理解を示していたジロンド派のコンドルセなどもいた。独裁権力をにぎったロベスピエールも女性の政治参加には全く理解を示さず、「女性の権利宣言」を書いたオランプ=ド=グージュ、ジャコバン派のマノン=ロランもギロチンにかけられてしまう。失意のウルストンクラフトはロンドンに戻り、評論や小説、旅行記などを発表して生計を立てるが、女性の参政権獲得などの政治的な改革の主張は影をひそめ、女性の自覚や教養を高めることを主眼とする穏健な主張に変わっていった。このように18世紀末のウルストンクラフトは、その思想と活動には限界があったが、イギリスとフランスで女性の解放と権利の獲得の運動の先鞭を付けたことは高く評価されている。<ガリーナ・セレブリャコワ/西本昭治訳『フランス革命期の女たち』(下)1973 岩波新書 p.125-173> → イギリスの女性参政権

アメリカの女性解放運動

 新大陸のイギリス植民地では女性の労働力とその再生産能力が不可欠であったため、女性の地位はヨーロッパよりも相対的に高かったと言えるが、17~18世紀には基本的にはヨーロッパと同じく、女性は男性家父長の支配下におかれ、奴隷とともに家長への服従を強いられていた。1776年に発せられたアメリカ独立宣言では「すべての人(man)は平等に造られ、造物主によって一定の奪うことのできない権利を与えられ、そのなかには、生命、自由および幸福の追求が含まれる」と書かれていたが、実態は黒人奴隷制インディアン、そして女性には平等な権利が与えられていなかった。それに対して、1830年代から女性の権利獲得の動きが始まるが、それは黒人奴隷解放の運動と結びついていた。
セネカ・フォールズ集会 まずイギリスのウルストンクラフトの影響を受けた西部出身のクェーカー教徒のルクレシア=モットが1837年に「奴隷制反対女性協会」の全国大会を開催した際に、女性の権利のための運動を提唱した。モットは1840年にロンドンで開催された世界奴隷制反対会議にアメリカ代表として参加し、そのときエリザベス=スタントンと知りあい、二人は女性解放運動に専念することで一致し、二人が中心となってニューヨーク州北部の工業都市セネカ・フォールズで「女性の権利獲得のための集会」を開き、1848年7月19日に「女性の権利宣言」を発表した。これは「独立宣言」になぞらえて「すべての男女は平等に造られ……」と謳い、それまでの男性による政治が、女性の選挙権を認めなかったこと、女性の発言権を認めずに制定した法律を女性に強制したこと、女性の財産権・労働賃金を剥奪したこと、結婚による男性への服従を強制したこと、離婚法が男性優位であること、女性の職業、教育への道を閉ざしてきたことなどなどを非難した。その上で12項目にわたる決議文を採択したが、その時、女性の参政権だけは否定論や労働条件の平等化を先に図るべきだという時期尚早論が出て紛糾した。それだけこの段階では女性参政権問題には困難が伴っていたことがわかる。
アメリカの女性参政権 アメリカでは南北戦争によって、1865年の憲法修正第13条発効で黒人奴隷制が廃止され、1868年の憲法修正第14条発効で黒人に市民権が付与された。そして1870年の憲法修正第15条制定で黒人投票権が保障され、これによって憲法上の黒人投票権は実現した(実際にはその後、南部各州が州法で黒人を投票から排除する仕組みをつくったので多くの黒人の政治参加は困難だったが)。しかし、女性参政権は実現しなかった。エリザベス=スタントンたちは、初めて提出した女性参政権を認める憲法修正案は、1869年に否決されてしまった。各州のレベルではそのころから女性参政権を認める州が出始めるが、連邦レベルでアメリカの女性参政権が認められるのは、第一次世界大戦後の1919年(発効は翌年)のことである。

★20世紀に入ると、欧米主要国の女性解放運動の主要な関心は、女性参政権へと移っていくので、これ以降の運動の経過はそちらをご覧下さい。
★山川出版社『世界史用語集』で「女性解放運動」を見ると、第二次世界大戦後の運動として「60年代半ば以降は、女性が主体的な生き方を実現するための社会的変革を目指す運動として再燃した」とあり、別項に「フェミニズム」もあげ、同じような説明をしている。ここでは女性解放運動が18世紀末の市民革命の時代から始まっていることを重視してそれとは別な内容とした。
★実教出版『必携世界史用語』の「女性解放」の項では1923年からのケマルパシャによるトルコ革命におけるトルコの近代化政策の一つとして取り上げている。ここではトルコの世俗主義改革の方を参照して下さい。
★第二次世界大戦後の国際的な動きとして、国際連合における女性差別撤廃条約(1979年)、日本の男女雇用機会均等法(1985年)があります。