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シュトレーゼマン

第一次世界大戦後のドイツ・ヴァイマル共和国の国民自由党出身の政治家。1923年、首相となり、インフレを克服して賠償問題での履行政策をとり、さらに20年代の国際協調外交を推進した。

 1918年、自ら穏健右派政党であるドイツ国家人民党に改組し、その指導者となった。第一次世界大戦後のドイツに成立したドイツ共和国ヴァイマル共和国)では、その主力となった社会民主党とは距離を置きながら、協力する姿勢であった。当時、ドイツは第一次世界大戦での敗戦国として、ヴェルサイユ条約による過酷な条件の履行を迫られ、ドイツ賠償問題の解決が大きな課題だった。
 1923年1月、フランス軍とベルギー軍がドイツの賠償金不払いを口実にルール占領を強行すると、社会民主党政府は「消極的抵抗」を打ち出し、労働者のゼネストを支援した。そのため生産はストップし、ドイツは急激なインフレーションに見舞われた。ドイツのインフレはその前年の8月に、大戦中の戦費調達のために発行していた公債が無価値となったために、ドイツ=マルクの崩壊が始まっており、それがこのゼネストで拍車をかけられることとなり、インフレ率は天文学的数字にのぼった。

履行政策への転換

 そのような危機に1923年8月13日、シュトレーゼマンは連立内閣を組織して対応に当たることになり、社会民主党の協力を得て「消極的抵抗」を中止して生産を再開、同時に賠償を支払うという「履行政策」に転換して、イギリス・アメリカなどの国際社会の支持を受け、フランス・ベルギーに対する国際的批判をむけるようにした。

インフレの克服

 シュトレーゼマンは1923年10月16日にはインフレーション対策として、懸案であった通貨改革を断行し、不換紙幣のレンテンマルクを、1兆旧マルクを1レンテンマルクとして発行し、インフレの進行を抑え、通貨を安定させようとした。レンテンマルクの発行は成功し、インフレは奇跡的収束に向かった。このレンテンマルクは、翌年、ライヒスマルクに移行した。
 国内ではシュトレーゼマンの履行政策に反対する右派が反発し、ミュンヘンの右派の一地方勢力であったナチ党を率いるヒトラーは、ヴァイマール共和国政府、議会政治、ヴェルサイユ体制の打破を叫んでベルリンに進撃しようとミュンヘン一揆を起こしたが、これは国防軍や官僚の支持がなく、失敗した。

ドーズ案の受諾

 右派の蜂起は鎮圧したものの、そのような事態になったことの責任を取ったシュトレーゼマンは首相を辞任した。その後は外相として国際協調外交を推進した。シュトレーゼマンの「履行政策」は国際社会で歓迎され、1924年8月にはドーズ案が提示され、その受諾を決定、賠償問題解決の道筋がつき、フランスとベルギーもルールから撤退した。同時にアメリカ資本によるドイツ経済の復興へと向かうこととなり、1925年からの相対的安定期を迎える。

国際協調外交

 1925年には大統領に右派のヒンデンブルクが当選し、シュトレーゼマンはその下で外相として活動した。この時期はドイツ経済の安定を背景に、ドイツも国際協調路線をとり、シュトレーゼマンはその中心的な存在として国際的にも高く評価された。まず、1925年12月1日、西ヨーロッパの集団安全保障を実現させるロカルノ条約に調印し、アルザス=ロレーヌを永久に放棄することを声明した。それによって翌年、ドイツの国際連盟加盟が承認され、実現した。シュトレーゼマンは1926年度のノーベル平和賞をフランスのブリアンとともに受賞している。
 しかしシュトレーゼマンは、1929年10月、世界恐慌が起こった直後に死去し、1930年代の急速なナチス=ドイツの台頭、国際協調外交の崩壊を見ることなく世を去った。
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