印刷 | 通常画面に戻る |

ロカルノ条約/ロカルノ体制

1925年、イギリス・フランス・ドイツなどヨーロッパ7ヵ国が締結した地域的集団安全保障条約。第一次世界大戦後の懸案であったフランス・ベルギーとドイツの間の国境地帯(ラインラント)の不可侵などを定め、翌年、条約発効条件としたドイツの国際連盟加盟が実現した。この国際協調によって実現した集団安全保障体制をロカルノ体制という。しかし体制に加えられなかったソ連は反発した。1929年の世界恐慌以降、ドイツに反ロカルノ体制を掲げるナチスの勢力が台頭、1936年2月、ヒトラー政権はロカルノ条約を破棄、ラインラントに進駐、ロカルノ体制は崩壊した。

 1925年10月、イギリスフランスドイツイタリアベルギーポーランドチェコスロヴァキアの7ヶ国が参加し、スイスのロカルノで開催されたロカルノ会議において合意された地域的集団安全保障条約。10月16日にロカルノにおいて仮調印され、1925年12月1日にロンドンで正式に調印された。 → 集団安全保障
 内容は国境に関する条約と仲裁裁判に関する条約など多岐にわたっていたが、総称してロカルノ条約という。その主要部分はヴェルサイユ条約におけるラインラント非武装の規定を強化するために締結された、フランス・ベルギーとドイツ間の国境の現状維持と相互不可侵(つまり非武装を遵守すると言うこと)の約束であった。
 ロカルノ会議で合意を形成したのは、イギリスのオースティン=チェンバレンジョゼフ=チェンバレンの長子。ネヴィル=チェンバレンの異母兄)、フランスのブリアン、ドイツのシュトレーゼマンの各外相であり、三者による国際協調路線の成果と言うことができる。この合意により1925年から1929年までの「相対的安定期」を現出した。オースティン=チェンバレンは1925年度、ブリアンとシュトレーゼマンは1926年度のノーベル平和賞の受賞者となった。

ロカルノ条約の内容

 ロカルノ条約は、正式には同年12月1日にロンドンで調印され、次の条約より成っている。
  1. ドイツ-フランス国境、ドイツ-ベルギー国境の現状維持と不可侵を、フランス・ドイツ・ベルギーが認め、イギリス・イタリアがそれを保障したラインラント条約。
  2. ドイツが、フランス・ベルギー・チェコスロヴァキア・ポーランドの4ヶ国とそれぞれ結んだ仲裁裁判条約。
  3. フランスが、チェコ・ポーランドとそれぞれ結んだ相互援助条約。

ドイツの国際社会への復帰

 ロカルノ条約はドイツの国際連盟加盟を発効の条件にしていたので、翌1926年にドイツの国際連盟加盟が実現した。これによって、ヴェルサイユ条約で第一次世界大戦開戦の戦争責任がドイツにあるとされて以来、ヴェルサイユ体制のもとで国交関係を悪化させていたドイツが、国際社会に復帰することとなった。

ロカルノ体制

 ロカルノ条約によって成立した西ヨーロッパの集団安全保障による国際的安定をロカルノ体制とも言う。これは、国際連盟が十分な平和維持機能を持っていなかったヴェルサイユ体制のもとで、アジア・太平洋地域おけるワシントン体制とともに、重要な国際秩序維持のしくみであった。また、国境問題を含み、関係諸国が地域的な集団安全保障を具体的に構築した最初の試みとして重要であり、それは第一次世界大戦の原因となった集団的自衛権を掲げた各国が軍事同盟を結ぶことによって勢力均衡を図るという国際政治理念に代わる、新たな理念が具現化されたという意味があった。

問題点 ソ連の排除と反発

 本来であれば集団安全保障は国際連盟を機能させることで実現させてこそ永続的な実効性があったに違いない。実際、1924年の国際連盟第5回総会では「仲裁裁判・安全保障・軍備縮小」の三原則で国際紛争を平和的に解決するための一般的集団安全保障の構想が提案されたが、イギリス・フランスの歩調が合わず、成立しなかった。フランスは自国の軍備縮小に反対し、イギリスはヨーロッパの問題に巻き込まれることを危惧したため反対した。ドイツは1923年のフランス・ベルギーによるルール占領に危機感を抱き、再三、ラインラントに関する現状維持と相互安全保障を提案していた。そのような動きの中で、国際連盟による一般的集団安全保障に代わる特定の地域的安全保障構想が浮上した。その構想に沿って、イギリスが斡旋してフランスとドイツを仲介するという形で開催されたのがロカルノ会議であった。<斉藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.113-117>
 反面、ロカルノ条約は、ソ連を排除した。条約はドイツの西部国境に関してであり、東部国境の現状維持や安全保障は対象とされなかった。ソ連はすでに、新経済政策を進める一方、1922年にラパロ条約をドイツと結び、ドイツとの国交を持つ国であったので、このロカルノ条約の締結はフランス・イギリスなどが暗にソ連に対抗して、ドイツを引き入れる同盟関係を意図しているのではないかというソ連側の反発を生んだ。ロカルノ条約は一面から見れば、対ソ包囲網でもあった。地域的集団安全保障は、それから除外された国にとっては大きな脅威と映るものであった。

ロカルノ体制の破綻

 ドイツでは、大戦後の破壊的インフレを1924年のレンテンマルクの発行によって一応終息させ、同年にドーズ案によって賠償支払いも緩和され賠償問題が解決に向けて一歩進んだ。さらにこの1925年のロカルノ条約によって国際連盟への加盟を実現した。ヴァイマル共和国といわれた戦後ドイツは、シュトレーゼマンらの連合政権の下で国際協調路線を取り、国際社会への復帰を進め、復興の道を歩み始めた。
 しかし、賠償問題は根本的には解決されておらず、かえってアメリカへの経済的従属が強いられることとなり、ドイツの国民的不満を解消することはできなかった。特に、1929年、アメリカ発の世界恐慌がドイツに及ぶことによって、ヴェルサイユ体制・ロカルノ体制打破を掲げたヒトラーナチ党が急速に台頭、ドイツ国民の支持を集め始めた。1933年に成立したヒトラー内閣は自国のみが軍備を制限されているのは軍備平等権に反しているとして、同年10月に国際連盟を脱退し、さらに再軍備をおし進めた。
 ヒトラーは、1936年、フランスが仏ソ相互援助条約を成立させると、それをロカルノ条約違反として非難し、同条約の破棄を各国に通告した上で、1936年3月7日ラインラント進駐を強行した。それに対してイギリス・フランスは具体的な抗議行動を取ることなく容認したことから、ロカルノ体制は破綻してしまう。
 このようなヨーロッパにおけるロカルノ体制は、アジアにおけるアメリカを主軸としたワシントン体制とともに、ヴェルサイユ体制という第一次世界大戦後の国際秩序を支える体制であった。その崩壊過程は、ワシントン体制とともにヴェルサイユ体制を揺るがし、第二次世界対戦へと動いていく過程であった。