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ルール地方/ルール占領

ドイツ西北部のライン河畔、大炭鉱地帯。1923年、フランスとベルギーがドイツの賠償金不払いを理由に出兵して占領した。翌1924年、ドーズ案が受け入れれたことによって撤退した。

 ルール地方はドイツ西北部のライン河畔にあり、ヨーロッパ最大の大炭鉱であるルール炭田を中心とした工業地帯。中心都市はデュッセルドルフ、エッセンなど、現在でもヨーロッパ最大の工業地域である。
 1923年1月、フランスのポアンカレ内閣は、ドイツ共和国ヴェルサイユ条約で義務とされた賠償金支払いを履行していないとして、ベルギーとともに軍隊をルール地方に進駐させた。巨額の賠償金をドイツが支払えずにいることは賠償問題として、戦後の国際問題となっていたが、このフランス・ベルギーの実力行使は、再び戦争の危機の到来を思わせる緊張を生じさせた。

フランスの主張

 第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議でのフランス代表クレマンソーのねらいは、賠償金を課すことによって敗戦国ドイツを徹底的に再起不能にしておくことにあった。その狙い通りヴェルサイユ条約でドイツに賠償金が課せられ、その後、戦勝国の賠償委員会でフランスは賠償金総額の52%を受けとること、1921年4月に総額が1320億金マルクと決定した。5月5日、もし履行しなければフランスはドイツに再び軍事行動を開始し、ルール地方を占領するという最後通帳をつきつけた。ドイツ国内ではその過剰な請求に不満が噴出したが、政府は履行政策を表明し、分割支払いに応じることとなった。
 戦後のフランス首相ポアンカレは、もし賠償金が支払われない倍は、「生産的担保」と称して鉄・石炭の産地であるルール地方(ドイツの鉄・石炭の8割を産出していた)を占領し、フランスが直接管理することを表明していた。ドイツがフランスのルール占領を認めるならば、賠償金の支払い猶予に応じてもよい、というのだった。イギリスはドイツ経済が破壊されることはヨーロッパ全体の利益にならないと考え、賠償金にたいしては比較的寛容であった。しかし両国ともドイツからの賠償金を、アメリカからの戦債の返還に充てなければならない事情は共通していた。

フランス・ベルギーのルール占領

 戦勝国賠償委員会は1923年1月、ドイツが当該年の賠償としての石炭の引き渡しを怠ったと決議、それを受けてフランスでは1月11日、ポワンカレは議会でルール占領を声明し、下院がそれを承認、同日ベルギーとともに軍隊を派遣し、ルール地方に出兵、エッセンを占領した。つづいてドルトムント、マンハイム、ダルムシュタットなどを占領、フランス軍は占領地域を交通遮断して、抵抗するものを逮捕または追放した。フランスはルール占領の根拠をドイツのヴェルサイユ条約違反としたが、領土的野心があったことも明白だった。<齋藤孝『戦間期国際政治史』岩波現代文庫 旧版 p.71,>

消極的抵抗とインフレ

 それに対してドイツの労働者は生産を停止するサボタージュなどの消極的抵抗を行い、ドイツ政府も生産を停止した労働者を支援して賃金が支払った。そのため、ドイツでは生産力が急激に低下してインフレーションと財政難が進行し、大きな困難に陥った。ドイツのインフレーションは、戦争の費用を公債でまかなっていたため、戦後間もない1922年8月のドイツ=マルクの崩落からすでに始まっていた。それがこのルール占領とそれに対する消極的抵抗のために生産がストップしたことによって、インフレ率は天文学的数字(マルク紙幣は1913年に比べて1兆分の1まで低落した)に達するというドイツ経済の崩壊につながったのである。

シュトレーゼマンの履行政策

 同1923年8月に成立した連立内閣の首相となったシュトレーゼマンは、社会民主党の協力を得て、「消極的抵抗」の中止を宣言し、財政再建と国際協調を表明した。賠償問題では賠償を支払う姿勢をとる「履行政策」に復帰し、問題の解決を模索しはじめた。また国際世論もフランス・ベルギーを非難して平和的な問題の解決が叫ばれるようになった。さらにシュトレーゼマンはレンテンマルクの発行に踏み切り、インフレの解消に努めた。
 しかしドイツ国内では履行政策に反対し、フランスに対する報復を主張する強硬派も勢いを増した。当時ミュンヘンは共和国政府に反対する右派が地方権力を握っていたが、その右派勢力の一つであったヒトラーの率いるナチ党は、1923年11月にミュンヘン一揆を起こし、ベルリンへ行進して政府を打倒しようとしたが、失敗した。

賠償問題解決へ

 そのような中で、翌1924年、アメリカの銀行家ドーズが提唱したドーズ案が関係各国に受け入れられて成立し、賠償金支払方法の緩和が決まったので、フランス・ベルギーもルールから撤退し、一応問題は解決した。大戦後のいわゆるドイツ賠償金問題の対立の中で起こったことであったが、ドイツ国民のフランスに対する憎しみを強める結果となった。

欧州統合の出発点 ルール

 第二次世界大戦後の1950年5月9日には、フランスのシューマン外相がこのルール地方とザール地方の石炭と鉄鋼業の共同管理を提唱、同年6月ドイツが合意してヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足し、ヨーロッパの統合の第一歩となった。
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