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ミュンヘン一揆

フランスなどのルール占領の危機に、極右勢力をミュンヘンで決起させ、ベルリンに進撃してヴァイマル共和国政府を倒そうとしたヒトラーの実行したクーデター。期待された国防軍の協力がなく失敗し、ヒトラーは捕らえられた。この失敗後、ヒトラーは議会に進出して政権を取る方向に向かう。

 1923年1月、フランスとベルギーがドイツの賠償金不払いを口実にルール占領を強行すると、ドイツ共和国ヴァイマル共和国)は武力抵抗をせず、消極的抵抗策をとった。労働者のゼネストによって生産はストップし、ドイツは急激なインフレが進行し、国民生活は大きな打撃を受けた。そのような状況の中で、ミュンヘンで右翼活動を展開していたヒトラーは共和国政府に対する批判を強めていた。当時、バイエルンの都ミュンヘンは右翼活動が活発でバイエルン政府のカール首相も右派の指導者であり、ベルリンに進撃し共和国政府を倒すことを考えていた。ヒトラーは主導権を握ろうと、当時ミュンヘンにいた第一次世界大戦のドイツ軍の大立て者ルーデンドルフ将軍に近づき、その協力を得て、1923年11月8日夜、クーデターを決行した。ベルリンに行進して権力を握るというアイデアは、前年のイタリアでムッソリーニがローマ進軍を成功させ、ファシズム政権を成立させたことを真似たものであった。

ヒトラー、クーデターに失敗

(引用)カール独裁政権(ミュンヘン政府)からはつき離されて服従を強いられ、部下の大衆からは突き上げられたヒトラーたちは、1923年11月8日の夜、一揆を起こした。カールたちを一揆に巻き込んで、一緒にベルリン進軍をさせようというわけである。ぐずぐずしていてはカールに圧倒されて自分らの負けになるというあせりもあったが、また一方では極右系民間国防団体の実力を過信した結果の行動でもあった。市民たちは一揆に対して同情的であったにもかかわらず、バイエルン官僚と軍部と警察に反対されて一揆は失敗し、翌11月9日鎮定された。ヒトラーは、一旦は南バイエルンのシュタッフェル湖畔ウフィングにあるハンフシュテングル家の別荘にのがれたが、11月11日に捕らえられた。<村瀬興雄『アドルフ=ヒトラー』1977 中公新書 p.220>

ヒトラーの路線転換

 クーデター失敗後、ナチスはドイツでの活動を禁止され、翌24年2~3月、ミュンヘンで裁判が開かれた。4月1日に判決が下され、ヒトラーは5年の禁固刑に処せられたが、実際には12月20日までミュンヘン西方のランツベルク要塞で、面会も文通も、同志との会合、会食も自由という形だけのものであった。この間、ヒトラーは『わが闘争』の第一部を口述筆記し、ナチズム運動を方向付ける時期とした。ヒトラーはこの失敗から学び、偶然に左右される一揆という手段ではなく、選挙という正当な手続きで議会に多数を占め、権力を握るという路線に転換し、そのためには宣伝と行動によって大衆の心をつかむことをめざすようになった。
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書籍案内

村瀬興雄
『アドルフ=ヒトラー』
1977 中公新書