新青年
1915年、陳独秀らによって発行され、文学革命の中心となった雑誌。胡適や魯迅の白話文学の発表の場となった。
『新青年』
1915年、上海で陳独秀を編集長として創刊された雑誌(創刊号は『青年雑誌』、第2号から『新青年』と改題した)。青年に古い中国の儒教思想を脱却して、西洋の文化を受容して新しい文化を創造することを呼びかけ文学革命の舞台となった。
そこに参加した若い知識人は1905年の科挙の廃止の後に新しい教育をうけた人々だった。彼らは儒教の思想を中国二千年の専制政治の精神的支柱としてとらえ、そこからの人間の解放を唱え、デモクラシーとサイエンス(民主と科学)を標榜した。また文学運動では胡適や魯迅の白話文学の発表の場となった。
1920年代になると、陳独秀はマルクス主義に傾倒し、『新青年』はもっぱらマルクスやレーニンの文献を紹介する場となり、ボリシェヴィズムに批判的であった胡適や魯迅は運動から離れた。
そこに参加した若い知識人は1905年の科挙の廃止の後に新しい教育をうけた人々だった。彼らは儒教の思想を中国二千年の専制政治の精神的支柱としてとらえ、そこからの人間の解放を唱え、デモクラシーとサイエンス(民主と科学)を標榜した。また文学運動では胡適や魯迅の白話文学の発表の場となった。
1920年代になると、陳独秀はマルクス主義に傾倒し、『新青年』はもっぱらマルクスやレーニンの文献を紹介する場となり、ボリシェヴィズムに批判的であった胡適や魯迅は運動から離れた。
デモクラシーとサイエンス
1915年、中国の文学革命の舞台となった雑誌『新青年』(創刊号は『青年雑誌』)で、陳独秀が論文「謹告青年(つつしんで青年に告ぐ)」において提示した言葉。陳独秀は、「民主」と「科学」を新しい思想として受容し、古い中国の儒教思想を克服することを主張し、それによって自立した青年が滅亡に瀕した中国を救うことができると述べた。