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儒学・儒教

古代中国、春秋末期の孔子を祖として発展した儒学の教え。中国の政治理念・思想・文化の基調となり、周辺のアジア諸国にも強い影響を与えた。

 中国における儒学・儒教の成立から、その展開・変質の流れを概観すると、次のようにまとめることができる。 → 東アジア儒教文化圏が形成

1.源流

 儒教は、中国固有の宗教で、春秋時代の前6世紀中頃、諸子百家のひとつである儒家の一人、孔子によって創始された。孔子以前から「原始儒教思想」ともいうべき長い段階があり、主として祖先崇拝などのシャマニズム的、儀礼的な信仰として続いていたが、孔子はそれを宗教性のある思想に作り上げた。「孔子以前、原儒の時代があった。それはシャマニズムを基礎としており、孝という考えかたがあったのを、孔子が登場、生命論として自覚して統合してゆくなかで、儒教が成立してゆく。」<加地伸行『儒教とは何か』中公新書 1990 p.77>

2.成立 孔子・孟子・荀子

 春秋時代の孔子によって、儒学の根幹的な理念が作り上げられた。孔子は「仁」という言葉で表す人間同士の相互信頼を軸に、魯国の歴史を『春秋』という書に著して、徳に基づいた政治のあり方を理想とした。諸国を遊説して廻り、多くの弟子が従うようになり、その言行録『論語』は人としての生き方、社会のあり方を教えて強い影響を与えた。そのような孔子の思想に対しては、より積極的な博愛精神による行動をとく墨家や、人為的・形式的な道徳論を批判する道家の論説があり、百家争鳴の中で儒学思想も深められていった。
 孔子の教えは、戦国時代になって孟子荀子によって儒学として深化し、同時に多様化していった。孟子が「性善説」に立って徳による君主の政治を説いたのに対し、荀子は「性悪説」に立って法による統治が現実的であると説いた。荀子の思想からは法家が生まれ、韓非李斯が現れて始皇帝に強い影響を与えた。法家思想による国家統治をめざす始皇帝時代には焚書・坑儒が行われ、儒学も人を惑わすとして弾圧された。

3.展開 漢代の官学化と民衆化

 秦が短期間で滅んだあとに中国を支配したは、秦の法家偏重から転換し、儒学を政治に採り入れるようになった。特に、武帝の時に儒者の董仲舒の献策により五経が定められて五経博士が置かれ、儒学は官学とされ、中国の統一王朝の理念としてなったことが重要である。
 ただ、儒家が政界に進出し、官僚として国家支配に関わるようになると、抽象的な仁や礼の理念だけでは皇帝政治を支えるのには不十分であると考えられるようになり、そこに儒家の思想に鄒衍に始まる陰陽家陰陽五行説の思想を加味し、政策の正否を占うという讖緯説が行われるようになった。これは、儒学の経書の解釈を経糸(たていと)とし、自然現象から予言される陰陽五行思想を緯糸(よこいと)とすることによって正しく未来を予測できると考えるものであった。漢末にはこの讖緯説が流行し、を建国した王莽や、それを倒した後漢光武帝などは強くその影響を受け、権力の正当性を説明しようとした。
 なお、この頃の儒教のもう一つの側面は、後の朱子学などの時代とは違って厳格な理念を追求するものではなく、祖先崇拝などの民族的な風習と結びついており、冠婚葬祭などの共同体儀礼として民衆生活に深く定着していったことがあげられる。また、知識人の中では後漢の鄭玄が大成した、もっぱら古典の文献研究を主とした訓詁学を主流としていた。魏晋南北朝になると、儒教の形式化などを批判する道家の思想と結びついた不老不死などの現世利益をもとめる道教も並行して盛んであったし、外来の仏教もたびたびの廃仏にもかかわらずに広がり、儒教は停滞した。中国では朝廷から民間に至るまで、この儒教と道教と仏教が、時に対立し、時に影響し合いながら展開していく。

4.発展 科挙制と訓詁学の隆盛

 代には儒学は官吏登用制度である科挙の試験科目とされたため、貴族階級の必須の教養となって国家統治の理念という地位が続いた。唐の太宗孔穎達に命じて『五経正義』を編纂させ、科挙の国定教科書とするなど、儒教の統制に努めた。また科挙に合格し官僚となった知識人の中から古文復興の運動が起こり、その指導者である韓愈は、儒教の立場から仏教を外来宗教として厳しく批判した。
 しかし唐の訓詁学の内容は漢の訓詁学を継承して形式的な理解にとどまっていたため、次第に枝葉末節にこだわる解釈だけに落ち込み、思想的な発展は見られなくなった。また科挙においても、経典を丸暗記する明経科は次第に受験者が減り、創造的な詩文の創作能力を競う進士科が人気がたかまったため、訓詁学は次第に衰え、文学(唐詩)の隆盛に向かうこととなった。

5.完成 宋学の成立

 唐末五代で貴族階級が没落した後の11世紀以降の宋から南宋にかけて、北方の遼や、東北からの金の侵攻を受けて苦境に立ちながら、漢民族の中に深く世界観や歴史論を探求する動きが現れた。それが宋学(朱子学)と言われる儒学の革新運動であり、それを支えていたのは士大夫といわれる科挙に合格して官僚となった人々であった。それは北宋の周敦頤に始まり、南宋の朱熹(朱子)によって大成された宋学(朱子学)は、訓詁の学であったそれまでの儒学に対し、真理を哲学的に探求する「性理学」としての性格が強い。ここで初めて儒教は仏教・道教と対抗できる世界観を持った体系的な宗教となったといえる。この朱子学は朝鮮と日本にも大きな影響を与え、東アジアの封建社会に共通する道徳となっていく。

6.変革 宋学から陽明学へ

 宋学(朱子学)で大義名分論華夷の別が強調されたのは、北方を遼や金に圧迫されていたという現実の危機があったからであった。南宋に於いて朱子学が発展したのは実は漢民族の危機感が背景にあったのであり、かれらの危惧はついにモンゴル人の中国支配、元の成立として現実のものとなった。そのでは科挙が停止されたため、儒教は一時衰退するが、漢民族支配を復活させた代には朱子学が皇帝専制政治を支える理念として隆盛を迎えた。永楽帝は、朱子学の理念をまとめた『性理大全』、科挙の基準となる公定注釈書として『四書大全』『五経大全』を制定した。
 しかし、明代には、このような公式的註釈にあきたらず、朱子の学説から出発しながらそれを批判的に乗り越えようとする思想が現れた。それが王陽明の思想から興った陽明学である。陽明学は宋学の性即理に対しては心即理を説き、知行合一という行動を重視し、心学といわれて、明代に流行した。しかし、朱子学は観念論の色彩を強め、陽明学自身も行き過ぎた行動主義的な傾向が出て次第に共に人心から遊離していった。

7.苦悩 考証学派

 明末には陽明学の空疎な議論や理念を欠いた行動などの行き過ぎが反省され、再び実証的な研究を重視する学風が生まれた。それはおりからの明末清初の政治的動乱をさけて、天下国家よりも実社会で有用な学問(経世実用の学)を目指すという考証学といわれる一派であり、顧炎武黄宗羲がその代表的学者である。清朝という満州人の異民族支配のもとで、朱子学の「華夷の別」などの理念を封印しなければならないという苦悩の時期であったといえる。また折からのヨーロッパからの科学的な知識とは結びつくことなく、社会変革に向かうことはなかった。

8.挫折 公羊学派

 18世紀になって外圧が激しくなり、中国社会の後進性が意識されるようになり、清朝の官僚たちが洋務運動をはじめるが、それは「中体西用」と言われたようにあくまで儒教的な価値観・道徳観を守り、西洋の技術のみを用いようというもので、自ずと限界があった。清末には考証学が本来の経世実用の学問の精神を離れ、形式化したことを批判する康有為など公羊学派が、孔子の教えを社会改革に結びつく物として戊戌の変法と言われる上からの改革の試みもあったが、すでに政治の指導理念として儒教は実効性を失い、むしろ中国民衆を束縛する封建的な理念として否定されるようになり、魯迅の文学などできびしく告発された。

9.現代の儒教批判

 辛亥革命後の1915年、文学革命が始まり、雑誌『新青年』が刊行され、そのなかで陳独秀(後の中国共産党初代委員長)は新しい時代の精神として「デモクラシーとサイエンス」をかかげ、旧来の儒教は2000年にわたる専制政治の精神的支柱に他ならないとして、青年にそれとの決別を訴えた。
 儒教批判は孫文の国民革命、続いて勃興した中国共産党の革命運動の中で推し進められ、政治理念としては儒教は完全に否定されたが、民衆生活の中には仏教は衰退したにもかかわらず、儒教は道教とともに根を下ろしている。1960年代後半から毛沢東によって押し進められた文化大革命ではあらゆる伝統や権威が否定され、孔子廟が破壊されたり受難の時期となった。毛沢東は「批林批孔」を政治スローガンとしても掲げたが、その死後、現代の中国では孔子は思想家・教育者として再評価されている。


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東アジア儒教文化圏

中国周辺の朝鮮、日本、ベトナムなどには儒教が広がり、東アジア儒教文化圏を形成した。その中でも特に朝鮮においては統治理念としての儒学に留まらず、儒教が民衆生活の規範として定着し、現代に及んでいる。

朝鮮の儒教

 朝鮮では朝鮮王朝の時代の支配的な社会階層であった両班の精神的支柱となったのが朱子学であった。
(引用)中国で生まれた儒教は、周辺の朝鮮、日本、ヴェトナムなどに長い期間をかけて広がっていった。これらの地域を東アジア儒教文化圏と呼ぶこともあるが、その中でも朝鮮はもっとも儒教の影響を強く受けた地域である。日本は儒学は受け入れられたが、儒教は受けいれなかったと言われることがある。その意味は、学問として、あるいは統治者の教養としての儒教は受容したが、日常生活を律する礼の面では儒教を受容しなかったということであろう。こうした理解には異論もあるだろうが、冠婚葬祭や日常の生活規範、あるいは家族や親族制度の面で、日本のそれは非儒教的なものが濃厚である。ヴェトナムにおける儒教の需要も日本と似ている面が多く、日常生活の面では仏教の影響が支配的であった。<宮嶋博史『両班』1995 中公新書 p.4>

朝鮮における儒教の受容

 朝鮮にける儒教の受容過程をまとめると、次のようになる。
儒教の伝来 朝鮮に儒教が伝えられたのは、古代の三国時代にさかのぼる。特に高句麗では4世紀後半に儒教教育機関として大学が設けられた。三国を統一した新羅では682年に国学が設置され、788には官吏採用試験制度である読書三品科が設けられた。高麗王朝になると958年に科挙制度が定められ、その中の明経科では儒教古典の知識が必須とされ、儒教の教育機関として中央に国子監、地方に郷学が設けられた。国子監は1304年に成均館と改められ、その跡地は開城(ケソン)の高麗博物館となっている。しかし新羅・高麗においては儒教は科挙に合格するための知識に留まり、人びとの日常生活に圧倒的な影響を及ぼしていたのは仏教であった。 → 科挙(朝鮮)
朱子学の影響 儒教が朝鮮で独自に発展する契機となったのは、14世紀に入って新しい儒教として朱子学が入ってきてからであった。朱子学を身につけた新進官僚は、それまでの仏教が国家の保護のもと、特権的な地位を利用して土地や奴婢を所有していることを批判するようになった。
朝鮮王朝と朱子学の国教化 そのころ高麗は元の支配下におかれていたが、その元に代わって漢人政権であるが1368年に成立すると、朱子学者も明と強く結びつくようになり、彼らは朝鮮においても高麗に代わる新しい国家として朝鮮王朝(李朝)を支持し、李成桂による国家建設を助けた。その結果、朝鮮王朝では朱子学は仏教に代わって国教的な地位につくことになった。
両班文化 朝鮮王朝(李朝)において朱子学が統治の基本理念とされるに至り、15世紀の世宗の時代には朱子学で理論武装した両班が王権を支え、同時に宮廷文化の担い手となって両班文化を成立させた。1446年の『訓民正音』によるハングルの創成はそれが結実したものと言える。
李退渓と李栗谷 しかし次の16世紀になると、両班は、建国以来の功臣で在京両班である勲旧派と、新興勢力で地方在住の両班である士林派という二派のが激しくなっていった。勲旧派による士林派に対する弾圧である士禍が続いたが、その厳しい政治的対立のなかから成長した士林派に与して高度の政治倫理を掲げたのが、李退渓と李栗谷の二人であった。二人が活躍した16世紀後半が朝鮮の儒学が最も高揚した時期であったといえる。二人はそれぞれ朱熹理気二元論を発展させたが、李退渓は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、李栗谷は「気」を重視する主気説を唱えた。
朱子学の二学派 二人はともに士林派に属し、朱子学の理念から勲旧派の横暴を批判してともに国の統治の具体的実践をも論じたが、李退渓は君主の修養を重視したのに対し、李栗谷は臣下の修養の重要性を説くという違いもあった。前者の学派は後の嶺南学派に、後者の系統は後の畿湖学派にそれぞれつながり、朝鮮朱子学の二大学派となっていく。 この二派は、16世紀末から始まる士林派政権内部の派閥争いである党争と結びついて深刻なものになっていった。なお、李退渓の学説は、16世紀末の壬辰・丁酉の倭乱の際に日本軍の捕虜となった姜沆(カンハン)を通じて日本にももたらされることとなる。
小中華思想 このように朝鮮王朝の16世紀までに儒教は政治理念として高度に理論化されたが、中国で明が滅び、満州人によるが成立すると、朝鮮の朱子学者は大義名分論の立場から、朝鮮こそが儒教の正統を継承しているとする小中華思想が生まれていった。しかし二大学派に連なる両班はいたずらに政争を繰り返すだけで、新しい時代への対応能力を次第に失っていった。
衛正斥邪の思想 さらに在地に基盤を置いていた在郷両班によって、儒教の祖先崇拝や礼法は民衆の日常生活の規範として教え込まれていった。17世紀以降、西欧勢力が進出してくると、儒生と言われた両班の中には朱子学を正とし、西欧のキリスト教を邪とする衛正斥邪の思想が広がった。18、19世紀には欧米列強、続いて日本の外圧が強まる中で実権を握った大院君は衛正斥邪の思想によって鎖国政策・排外政策を続けた。
儒教の民衆への定着 朝鮮王朝自体は政治的混乱が続き、権威が動揺していったが、儒教道徳は民衆生活の日常の規範として浸透し、社会秩序のイデオロギーとして定着した。こうして東アジアの儒教文化圏のなかでも、朝鮮においては、単なる儒学に留まらず、儒教が民衆生活に深く定着していった。しかしその反面、観念的な建前重視の風潮が強まり、欧米列強や日本の侵攻という事態に対して、自由な議論で立ち向かうという点では後れをとったと考えられる。 <以上主として、宮嶋博史『両班』1995 中公新書/武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利『朝鮮』地域からの世界史1 1993 朝日新聞社 による。>

Episode コップは右手で

 朝鮮では儒教の教えが日常生活のすみずみまで深く浸透している例として、宮嶋『両班』は次のような現象を挙げている。韓国では、店で買い物をした場合、店員が品物や釣り銭を渡すときには必ず右手で客に渡す。人に酒をつぐときも必ず右手で酌をし、受ける方も右手に杯やコップを持って受ける。左手で酒を注いだり注がれたりするのは、目下の人に対してならいざ知らず、目上の人に対しては絶対に避けなければならない。また目上の人の前で酒を飲むときは顔を右の方にそむけて、右手に杯を持ち、左手で杯を隠すようにして飲むのが正しい礼とされる。酒は父親に勧められれば飲むことはあるが、煙草を父親の前で喫うことは絶対にない。<宮嶋博史『両班』1995 中公新書 p.5>