陳独秀
中国の文学革命の指導者で、1915年に『新青年』を刊行した。マルクス主義に傾倒し、1921年に中国共産党初代委員長となった。第一次国共合作を推進したが1927年の上海クーデタで壊滅したため共産党指導部から除外された。その後トロツキスト派として活動し、29年には党内対立から除名された。
陈独秀于1921年10月4日被上海法租界巡捕逮捕后拍摄的半身像(Wikimedia Commons)
『新青年』の創刊と文学革命
彼は1915年の『新青年』の創刊号(『青年雑誌』)に論文「敬んで青年に告ぐ」を寄稿し、来るべき新中国の精神として「デモクラシーとサイエンス」をかかげ、青年の自立を促し、儒教こそは2000年来の専制政治を支えた決別すべき思想であるとしてきびしく批判した。1917年、北京大学の学長蔡元培は、陳独秀を説得してその文学部長として招き、以後は北京大学が文学革命の中心地となった。資料 「青年に告ぐ」
(引用)私が思うには、「年若くして老成する」は、中国人が人を誉める言葉である。「年を取っても衰えるな Keep young while growing old.」は、英米人がお互いに励まし合う言葉である。これも東西民族の発想が異なり、現象が違うことの一端であろうか。青年は初春のように、朝日のように、花々が萌え出るように、研ぎたての刃の鋭さのように、人生の最も貴重な時期である。社会における青年は、人体における新鮮で活発な細胞のようでもある。新陳代謝は、陳腐老巧なものを絶え間なく自然淘汰の道へ向かわせ、新鮮活発なものへ空間的な位置と時間的な生命を与える。人体は新陳代謝の道に従えば健康になり、陳腐老朽なものが細胞人体に充満すれば、人体は死ぬ。社会は新陳代謝の道に従えば隆盛になり、陳腐老朽した人びとが社会に充満すれば社会は滅ぶ。ここで陳独秀が陳腐老朽としたのは儒教思想であり、新鮮活発としたのが「デモクラシーとサイエンス」であった。
これに従って述べると、我が国の社会は隆盛しているだろうか。それとも亡びようとしているのだろうか。私が言うには忍びないものがる。……私の見るところでは、年齢は青年でも身体は老人である者が五割であり、年齢や身体は青年でも脳神経は老人である者は九割である。髪は黒く顔はつややかで、腰もまっすぐで胸も広い、まぎれもない青年でも、その頭の中の考えや抱負を尋ねてみると、陳腐であり老朽な者と同じ穴の狢(むじな)にほかならない。……この現象に従えば、人身は必ず死に、社会は必ず亡ぶ。この病を救いたければ、嘆息は救いにはならず、敏感に自覚し勇敢に奮闘する青年が人間固有の知能を発揮し、人間の種々の思想の中で、どれが新鮮活発で現代の生存競争に適しているか、あるいはどれが陳腐老朽で脳裏に留めておくべきでないかを選択し、鋭利な刃物で鉄を断ち、快刀で乱麻を断つように、決して妥協したり躊躇したりせず、自らを救い他人を救えば、社会は清く穏やかな日を迎えることができるかもしれない。青年よ、この任を自ら担うだろうか。その是非を明らかにし、選択の参考に供することとしよう。(後略)<『世界史史料10』歴史学研究会編 岩波書店 p.35>
中国共産党の創設
1919年の五・四運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海でコミンテルンと連絡を取りながら準備を進め、1921年7月に中国共産党を創設し、その初代委員長(総書記)となった。第1次国共合作 その後、初期の中国共産党の指導者として、第1次国共合作を進めた。それはコミンテルンの指導が、当時まだ共産党は発足直後で党員も少なく、独自の軍事力も持たない状況であったので、当面、孫文らの提唱する三民主義に協力し、帝国主義との戦いをともに進めるという判断であった。この段階ではブルジョワ民主主義とも妥協し、労働組合運動の指導を通じて勢力を伸ばすことを目指し、コミンテルンから派遣されたロシア人政治顧問ボロディンに協力した。
上海クーデタで敗北
しかし、国民党右派で広東国民政府の軍事力を押さえた蔣介石は、北伐を開始するとともに秘かに民族資本家や外国資本の要請を受け、徐々に共産党排除の姿勢を強め、1927年4月12日には上海クーデタによって共産党排除に踏み切った。それより先、陳独秀の指導する中国共産党は上海でゼネストに起ち上がり軍閥権力を倒し、北伐軍を迎えようとしていたが、この蔣介石の変化を見抜くことが出来ず、大きな犠牲が生じた。国共合作の崩壊 そのとき国共合作を継続していた武漢政府は蔣介石を除名するなど、上海クーデタを非難したが、国民党右派は蔣介石に同調、左右両派の対立が激しくなった。しかしコミンテルン(実質的にはスターリン)の指示は国共合作を維持しながら共産党は独自武装して主導権を握れ、ということであった。それを知った武漢政府主席汪兆銘は共産党との決別を決意、7月15日に国共合作の解消を宣言した。共産党員は国民党左派、ロシア人顧問などとともに武漢を退去しなければならなかった。
こうして上海で大きな打撃を被っただけでなく、武漢で国共合作が破綻し、共産党はその後も各地で蜂起して態勢を回復しようとしたがいずれも失敗した。陳独秀はこの間、コミンテルンの指示に忠実に国民党との協力を模索したがことごとく裏目に出て、その責任を取らされることとなった。彼は「右翼日和見主義者」として幹部の地位を追われたが、わかりやすく言えば蔣介石の変身を見破ることが出来ず、国共合作に見切りを付けて独自の武力闘争の強化をはかることを怠った、ということであろうが、それはコミンテルンの誤りでもあった。
トロツキーに同調し、除名となる
その後中国共産党は、都市での武力蜂起方針(スターリンの指示で李立三が進めた)をとると、陳独秀はそれに反対し、トロツキーに共鳴してソヴィエト(労働者・農民・兵士の権力機構)の建設を主張した。しかし、ソ連でスターリン派がトロツキー派を排除したのに合わせて、陳独秀もトロツキストとして1929年に除名された。1931年5月には陳独秀はトロツキスト組織を統一し、上海で中国共産主義者同盟を結成し活動を継続したが、1932年10月、国民党による一斉検挙によって逮捕され、組織は壊滅した。<横山宏章『中華民国』中公新書 p.93 p.117 p.121 p.144 p.216 p.208>その後、中国共産党の主導権は、1927年10月に湖南・江西で農村を基盤として井崗山に拠点を作ることに成功した毛沢東に移っていく。