政党内閣(日本)
日本における政党内閣は大正デモクラシーといわれた時期の1918年の原敬政友会内閣から始まる。昭和に入ると軍国主義が強まり、1932年の軍部クーデター五・一五事件で犬養毅内閣が暴力に寄り倒されて戦前の政党政治は終わりを告げた。
日本における本格的な政党内閣(議会の中で多数を占める政党が内閣を組織する議会制民主主義)は、米騒動のあとの1918年(大正7年)に成立した原敬を首班とする立憲政友会内閣である。その後、第一次世界大戦後の日本経済の成長に合わせて大正デモクラシーといわれる民主主義の成長に伴い、1924年加藤高明護憲三派連立内閣を経て、憲政会(立憲民政党)と立憲政友会の二大保守政党が交互に政権を担当する「政党政治」の時期を出現させた。しかし、1923年の関東大震災に始まる日本経済の状況悪化が進む中、財閥・政党政治・議会政治を否定する動きが強くなっていった。1925年には普通選挙運動が実り。男性普通選挙が実現し、日本の議会政治と政党政治も一定の段階に達しといえる。その一方、同年には治安維持法が制定され、労働運動や社会主義運動への抑圧は続くこととなった。
戦前の政党政治の終わり
1929年から始まった世界恐慌は日本にも影響を及ぼし、特に農村の貧困が深刻になって、満州など大陸進出を目指す軍部の発言が強まるとともに、政党政治の腐敗を批判し、軍の統制のもとで国家改造を目指す論調も出てきた。その動きは1931年の満州事変後にさらに強まり、1932(昭和7)年、五・一五事件が起こった。事件は海軍青年将校を中心とした右翼が、時の政友会犬養毅内閣が満州国樹立に消極的であることを口実に、軍部政権と国家改造を掲げて政府要人を襲撃、犬養首相などを殺害したものである。このとき政友会本部も襲撃され、政党の腐敗もその攻撃理由とされた。代わった斉藤実内閣は挙国一致を掲げて軍・官僚出身に政党出身者も加えて組閣され、もはや政党内閣ではなくなった。犬養内閣は戦前の政党政治の最後の内閣であり、軍の政府への直接的関与は軍部大臣現役武官制(陸軍大臣・海軍大臣を現役の軍人から出す制度。これによって軍が不満な場合は大臣を出さないことで内閣の命運を軍がにぎることが出来た)をテコにますます強まり、1936年の二・二六事件で決定的となり、最終的にはすべての政党は解党し、1940年に大政翼賛会に統合されて消滅、翌1941年に日本は太平洋戦争へと突入する。政党政治の消滅への道と戦争への道が同じ方向を向いていたことに十分注意しよう。