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タイ立憲革命

1932年6月にラタナコーシン朝のタイで起こった、立憲政治を実現させた革命。人民党政権はその後分裂、混乱が続いたが、ピブンが政権を握り、国民統合を目指して1939年に国号をシャムからタイに変更した。

 タイ(シャム)における立憲君主制への移行の動きは、ラタナコーシン朝ラーマ5世の時、一部官僚の意見書として提出された(1885年)ことから始まったが、王が立憲政治を否定したため実現せず、絶対王政が続き、むしろ強められた。その後も立憲政治の実現を目ざす動きはあったが、抑えられてきた。
 しかし、タイは領土を縮小させながら植民地化の危機は脱したものの、20世紀に入り絶対王政では激変する世界に対応しきれないことは明らかになっていった。また、第一次世界大戦では連合国側に参戦することで国際的立場を強め、不平等条約の改正などを実現させたが、国内の絶対王政は、世界の近代国家との交渉に不利であるとの認識がヨーロッパに留学したエリートたちの間に広がっていった。

人民党の結成

 1927年にパリに留学中の若い知識人である官僚のプリーディーと軍人のピブンら七名は、秘密結社として人民党を結成した。人民党設立の目的として掲げたのは立憲革命による政治体制の立憲君主政への改編であり、改革によって達成すべき目標として、独立の維持、国民の安全保障、経済活動の保障、国民の平等、自由権の付与、教育の拡大の六原則を定めた。
世界恐慌の波及 1929年の世界恐慌が発生すると、世界市場での一次産品の価格は軒並み下落し、コメの輸出に依存していたタイに深刻な影響を与え、輸出総額は1931年には恐慌前の半分に落ちこんだ。そのため農民は困窮化し、購買力が低下、国内の工業生産、商業も急激に悪化した。財政状況も悪化したため王政当局は公務員の解雇や減給で危機を乗り切ろうとしたが、当然官吏の担い手である都市中産階級の政府批判が強まることとなり、問題の本質が絶対王政の国家体制の不備にあることが強く意識されるようになった。プラチャーティポック国王(ラーマ7世)は議会制の導入など立憲君主政への転換を図ったが、この欽定憲法も最高顧問会議で反対され、公布されなかった。また財政難は軍にも及び、軍人も削減されたことから、軍の内部にも絶対王政に反対する勢力が現れた。

クーデタの実行

 人民党は絶対王政の打倒を実現しようと、軍に協力を要請、軍人のパホンらとクーデタ計画を練り、1932年6月24日にクーデタを決行、有力王族の一人を人質に、保養地に滞在中の国王ラーマ7世に立憲政体の実現を迫った。バンコクではパホンが人民党宣言を読み上げて絶対王政を厳しく糾弾した。国王は抵抗の姿勢を示したが、かねてから立憲体制への移行が不可避であると考えていたこともあって保守派の反対を抑えて、要求を入れ、ここにタイ立憲革命は無血で成功し、27日にはプリーディが起草した臨時憲法に国王が署名した。
立憲革命の意義 臨時憲法が制定されたことで、タイは絶対王政から立憲君主政に移行した。世襲のラタナコーシン朝の国王は元首として残るものの、その統治権力は制限され、憲法に基づいて、議会を通じて国民の意志が政治に反映されるシステムが成立した。しかし、国民を主権者とする共和制ではなく、依然として国王は主権者として君臨する。国民の側にもまだ民主主義の実際的な運用経験は不十分で、国王の存在を不可欠と意識され、現実的な政体として立憲君主政となったと考えられる。実際、立憲君主政への移行に伴い、議会政治が始まるが、その内実は政党政治の未成熟のためか、多党の乱立や腐敗が続き、議会が正常に作動しないことからたびたび軍がクーデタを行い、その後の対立を国王が調停するという事態が繰り返される。そのため、国王の存在があたかも議会政治の混乱を正常化させる機能を果たすという、「タイ式民主主義」とも言われる独特の政治風土が続くこととなる。

人民党の内部分裂

 1932年の立憲革命クーデタによって成立した内閣の首相には法律家で穏健なマノーパコンが就任したが、早くも成立直後から路線の違いから内紛が始まった。プリーディーは社会主義的な計画経済を立案したが、首相はそれを共産主義に傾斜しすぎるとして反対、プリーディーは追放されてしまった。さらに軍内部で実力を持つようになった人民党のピブンは、1933年、マノーパコン首相をクーデタで倒し、軍人のパホンを首相の座につけた。このように立憲革命後の内閣はわずか1年で倒れ、このクーデタがこれ以降の立憲制の時代に繰り返される軍部クーデタの最初となった。
 一方、国王側でも王の一族が立憲革命に反発して反乱を起こして鎮圧されるなど、不安定な状況が続き、ラーマ7世は1935年3月、政府との対立に疲れ、自ら退位し、その甥が9歳で即位、ラーマ8世となった。新王はそのまま留学先のスイスにとどまっていたので、人民党政権は内紛にもかかわらず権力を維持することができた。

ピブンの政権掌握

 人民党のリーダーの一人ピブンは、当面は首相の座にはつかず、軍内部での影響力を強めることに集中していたが、パホン内閣が議会と対立して総辞職したことによって1938年12月、総選挙後の議会でついに首相に任命された。この段階では正式国号はまだシャムであったが、ピブン政権はナショナリズムの高揚を図る方針の下で、1939年10月3日に国号をからタイに変更した。
 おりから第二次世界大戦の勃発という事態を迎え、ピブン政権は日本とも接近して時勢に乗ろうとする。こうしてタイ立憲革命によって生み出されたピブン政権のタイは、国名をタイに変更するとともに、大タイ主義という国家主義的姿勢を強めていくこととなる。
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