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ラタナコーシン朝/チャクリ朝/バンコク朝

1782年に始まる、現在のタイの王朝。バンコクを都にラーマ1世が初代の王。19世紀、英仏の侵略を受けながら独立を維持し、ラーマ5世(チュラロンコン大王)の時期に近代化を進める。1932年に立憲革命で立憲君主政となり、第二次世界大戦後も継続している。

 タイ(シャム)の現在の王朝。1782年チャクリラーマ1世、在位1782~1809)がバンコクを都に開いた王朝で、チャクリ朝またはバンコク朝ともいい、現在まで続いている。14世紀から1767年まで続いたタイ人のアユタヤ朝を再興し、チャオプラヤ川>流域のタイ全土を支配した。当初は征服した周辺の農村共同体の首長たちから朝貢を受けるだけで、明確な領域国家ではなかったが、19世紀にイギリス・フランスなどの侵出にさらされながら、次第に国家形態を整備していった。

タイ文化の繁栄と領土の拡張

 ラーマ2世(在位1809~24)は、自ら戯曲や物語を創作する芸術活動をおこない、この時代がタイの伝統文化が最も輝いた時代となった。王の作品には『クンチャーン・クンペーン』などタイ人なら誰でも知っている有名な物語もあり、タイで最も有名な宮廷詩人スントーンプーもこの時期に活躍した。
 ラーマ3世(在位1824~51)も芸術と宗教の保護者でもあり、多くの寺院が建立された。また、ビルマ、ベトナムと争いながら、その勢力圏を拡げていった。1827年にラオ人のビエンチャン(かつてのランサン王国が三つに分裂したうちの一国)で起こった反乱を鎮圧し、現在のラオスの中部から南部一帯を併合した。さらにカンボジアの宗主権をめぐってベトナムと争った。1845年には停戦に合意し、カンボジアの宗主権はタイとベトナム双方にあることを確認、カンボジアは両国に朝貢することとなった。
 ただし、この時期のタイの勢力拡大は、近代的な主権国家としての領土の拡張ではなく、それぞれの地方の有力な政治勢力を服従させたか、宗主国として影響を及ぼしたに過ぎず、後の「大タイ主義」が主張するような、カンボジアやラオスはかつてタイ領であった、という根拠にはならないので注意しよう。

タイの開国

 1855年ラーマ4世の時、イギリスとの通商条約(ボウリング条約)を締結した。ラーマ4世(モンクット王、在位1851~68)は仏教の信仰に篤く、古典の知識に辻ていただけでなく、英語を話し、世界の情勢にも広い関心を持っていた。彼はヨーロッパ諸国が通商を求めたことに対し、欧米との自由貿易に門戸を開くこととなった。それは治外法権、関税自主権などの面での不平等条約であったが、避けては通れない道と判断した。開国するにあたり、ラーマ4世は外国人顧問を多数受け入れ、産業の近代化を図った。その状況は王子らの英語教師として招かれたイギリス人女性アンナが残した見聞(不正確なものが一部含まれているようだが)によって伝えられている。

ラーマ5世

 次のラーマ5世(チュラロンコン大王、在位1868~1910)は、積極的な近代化政策をとり、同時にイギリスとフランスの両勢力をうまくバランスをとりながら交渉し、タイガ東南アジアで唯一、植民地化を免れた国家となる上で重要なそんざいであったので、偉大な国王として「大王」といわれている。しかし、現実はヨーロッパ列強がまさに帝国主義の段階に入ろうとしていた時代であり、そのアジアでの競争は資源や労働力と市場の獲得をめざして武力を伴って現地人を抑圧するという様相を呈していた。タイにとっても最も困難な時期であった。
 1893年7月には、フランス軍艦がチャオプラヤ川河口のパークナームでタイ側の砲台を砲撃、バンコク港を封鎖するというパークナーム事件が起こった。これはフランスが、タイガ有しているメコン川左岸(ラオス)の宗主権の放棄を迫った一方的な軍事行動であったが、ラーマ5世が期待したイギリスは、行動を起こさなかったので、タイはフランスの要求を入れ、1893年10月3日にメコン左岸のラオス全域の宗主権などの放棄に同意した。
 イギリスとフランスは、1904年英仏協商でチャオプラヤ川を境界として東西を勢力圏とすることで妥協した。

タイ立憲革命

 しかし第一次世界大戦後になるとタイにも大きな転機が訪れた。外国との往来が増え、多くの留学生がヨーロッパに行くようになると、絶対王政的な体制に対して不満を持ち、近代的な立憲君主制にすべきであるという運動が起こり、留学帰りの軍人ピブンらによって1932年タイ立憲革命が起こされ、ラーマ7世もそれを受け入れタイは近代国家に脱却をはかった。近代化を進めたピブンは、1939年には国号をシャムからタイに変え、国民の意識変革を狙った。

開発独裁とクーデタの続発

 ピブンの指導のもとでタイは立憲王政としての形態を整えたが、戦後のタイで再び政権を握ったピブンは西欧的議会制民主主義の導入が図った。しかし、東西冷戦の深刻化に伴い、タイはアメリカの反共国際機構の一員に組み込まれ、国内でも左右の対立が起こると、軍を中心に国王の権威を高めようとする勢力も強くなった。1957年にクーデタによって実権を握ったサリット将軍は「開発」を掲げると共に、「タイ式民主主義」と称して国王の権威を絶対のものとし、政党政治を不安定で共産主義の浸透をもたらすものとして否定して政党政治と議会政治を否定した。
 その後、現代のタイに置いても、タイ軍事クーデターが相次いでいるが、そのつど、プミポン国王(ラーマ9世)が国王の権威で収拾するという、世界的に珍しい立憲王政の形態が続いたが、2016年に国王が死去し、新国王が即位したものの、その権威は低下しており、タイの立憲君主政は曲がり角に来ているとみられている。
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