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ラーマ5世/チュラロンコーン

19世紀後半のタイ、ラタナコーシン朝の王。タイの近代国家の建設にあたり、大王と言われる。

 タイ(シャム)のラタナコーシン朝第5代の王(在位1868~1910)。王子名がチュラロンコーン。ヨーロッパの近代国家の制度を導入、近代化に努め、イギリスとフランスの対立を利用して、独立を維持した国王として、現在も国民に敬愛されている。

近代化の推進 チャクリ改革

 国王として親政を行い、法律の制定、教育制度や交通、郵便制度などの近代化を実現した。それらの改革はチャクリ改革と言われ、内閣制度の導入、地方行政組織の整備と国家の一元的統治機構、徴税請負制度の廃止と一元的な税制の実施、近代的法制の整備、徴兵制、学校の整備など多面的な政治改革であった。これらの改革によってタイの近代化がもたらされたと評価され、彼は「大王」といわれ、タイの最大で最高の学府、チュラロンコン大学にその名をとどめている。
 タイの経済的統一の上で必要な鉄道の建設もラーマ5世のもとで進んだ。鉄道建設はイギリス、フランスが中国へのルートを開くためタイ領内での敷設を申請したが、ラーマ5世は両国ではなく、ドイツ人に鉄道事業を託した。そのためドイツ人技師が多数雇用されたが、一部の建設工事を入札で請け負ったイギリス企業との対立が生じ、鉄道開通は遅れ、ようやく1897年、バンコク~アユタヤ間が開通した。その後もタイでは中国の鉄道ように外国資本にやらせるのではなく官営鉄道のみで路線網を拡充したために時間がかかった。<柿崎一郎『物語タイの歴史』2007 中公新書 p.128-132>
 しかし、彼が王政を行っていた19世紀後半という時期(日本の明治時代にあたる)は、ヨーロッパ列強が植民地拡大から帝国主義に移ろうとしていた時期で、タイにとっても最も困難な時期であった。イギリスはビルマとマレー半島から迫り、フランスはベトナム・ラオス・カンボジア(後のフランス領インドシナ)からタイの勢力圏をねらっていた。ラーマ5世はイギリスとフランスの対立を利用しながら巧みに独立を維持することに成功したが、反面、領土的(厳密には勢力圏)には多くの譲歩をせざるを得なかった。

勢力圏の縮小

 フランスは、カンボジアを保護国化し、さらにメコンを遡ってラオス進出をめざして、ラオスの宗主国であったタイに対して、その宗主権の放棄(割譲)を要求してきた。ラーマ5世がそれを拒否すると、たまたま起こったフランス人官僚殺害に対する抗議という名目で1893年7月13日、チャオプラヤ川河口のパークナームに軍艦を派遣、河口のタイ側の砲台と交戦し、バンコク港を封鎖するという挙に出た。このパークナーム事件では、ラーマ5世はイギリスの支援を期待したが、イギリスはフランスとの直接対決を避けて動かなかったので、やむなくフランスの要求を容れ、同1893年10月3日に、賠償金の支払い、メコン左岸のラオス全域の宗主権などの放棄に同意した。

英仏による「緩衝国」宣言

 1896年、イギリスとフランスは、タイのチャオプラヤ川流域を両国の緩衝地域とすることで合意し、英仏宣言をだした。これはビルマを植民地としたイギリスと、ベトナム・カンボジア・ラオスを押さえたフランスが、タイを前にしてにらみ合う形をそのままにして、直接対決を避けた協定であった。それにはラーマ5世の外交努力もあったが、イギリスとフランスはアフリカでもにらみ合う中で衝突を回避しており、帝国主義国家による都合の良い勢力圏分割の一つだったといえる。イギリス、フランス両国は1904年英仏協商でも、タイを独立国と認めながら、チャオプラヤ川を堺に西をイギリス、東をフランスの勢力圏とする協定を締結している。

Episode ラーマ5世と明治天皇

 ラーマ5世の在位した1868年から1910年という年代をみて、気がついただろうか。そう、彼の在位期間は明治元年から明治43年に当たり、明治天皇とほとんど同じなのである。またいずれもこの時期の両国とも欧米の圧力を受けて開国しながら植民地化の危機を脱し、国家・社会の近代化を進め、条約改正に努力したことも、共通している。そんなこともあって、タイと日本の皇室は親近感を感じているらしい。しかし、明治の日本が富国強兵から軍国主義に傾斜していくことになり、その後の歩みはかなり違うものとなった。またタイの王室も日本の天皇制も戦前に立憲君主政となったが、第二次世界大戦という変動によってその前後に大きく性格を変更した。国家元首として存続しているタイ王室と、象徴天皇という存在になった日本の皇室とでは、今や大きな違いがある。
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柿崎一郎
『物語タイの歴史』
2007 中公新書