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バイエルン/バイエルン公

現在はドイツ連邦南部の一州。神聖ローマ帝国の有力な領邦の一つ。選帝侯となり、1806年からは王国となる。1871年、プロイセンを中心にドイツ統一が完成、ドイツ帝国が成立すると、それに加えられながらなおも王国として続いたが、1917年のドイツ革命のなかで王政が倒され、それ以降はドイツの一州となる。

現在のバイエルン州 GoogleMap

 バイエルン(英語表記ではバヴァリア)はドイツ南部のミュンヘンを中心とした地方。もともとゲルマン系のバイエルン人が一つの国を作っていたが、8世紀にカール大帝によって征服されフランク王国の一部となり、東フランクのザクセン家オットー1世の子のハインリヒがバイエルン公に封じられた。バイエルンのザクセン家からはハインリヒ2世が神聖ローマ皇帝(1002~24)となっている。その後はヴェルフェン家を経て、1180年からはヴィッテルスバッハ家が公位を継承した。1314年に神聖ローマ皇帝に選出されたヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世(在位1314~47)は、選帝侯によって選出された皇帝はローマ教皇の承認の必要がないと主張して、対立皇帝と争った。しかし、宗教改革期にはカトリック側の主力諸侯として戦い、三十年戦争でも活躍して、1623年に神聖ローマ帝国の選帝侯の一つとなった。

オーストリア継承戦争に関わる

 皇帝位にあるハプスブルク家とも姻戚関係を結んでいたが、1740年にハプスブルク家のカール6世が死去して、女子のマリア=テレジアが家督を相続した際、バイエルン公カールは、妻がハプスブルク家の出身(マリア=テレジアのいとこ)であったので、ハプスブルク家の相続権を主張し、また皇帝選出に名乗りを上げた。この後継問題から1740年にオーストリア継承戦争が勃発した。
 プロイセン王フリードリヒ2世、フランス王ルイ15世の支援などがあって、1742年に神聖ローマ皇帝に選出されカール7世となった。これによってハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は一時中断し、ヴィッテルスバッハ朝となった。しかし、オーストリアが態勢を立て直したことから講和が成立し、1745年にマリア=テレジアの夫のロートリンゲン公フランツ1世が皇帝となったため、カール7世は退位した。
バイエルン継承戦争 1778~79年にはここでも王位継承問題からバイエルン継承戦争が起きている。ヴィッテルスバッハ家の王位が一時切れたことでオーストリアのハプスブルク家ヨーゼフ2世がバイエルンの南半分の相続を主張し出兵したが、プロイセンのフリードリヒ2世が出兵して介入したため失敗し、オーストリアの弱体化が露わになったが、オーストリアにとってはバイエルンとの国境を画定したことが収穫であったと言える。

バイエルン王国

 バイエルンはカトリックが優勢であったことからドイツの領邦の中でも独立性が強かった。ナポレオンの侵略によってナポレオン戦争が始まると、プロイセンに対する対抗心からナポレオンに味方したので、1806年にナポレオンがライン同盟を発足させて神聖ローマ帝国が消滅すると、バイエルンは同盟に加盟するとともに、ナポレオンによって王国と認められ、バイエルン王国となった。ナポレオン没落後、ウィーン議定書によって1815年に成立したドイツ連邦に加わった。ドイツ連邦でもプロイセンと並ぶ有力諸邦として商工業の発展にも力を入れ、1835年にはバイエルン第二の都市ニュルンベルクからフュルトまで最初のドイツの鉄道が開設された。
 普仏戦争ではプロイセンを助けてフランスと戦い、1871年にドイツ帝国が成立すると、プロイセン国王がドイツ皇帝となったがバイエルン王国は国王を戴いたまま帝国に加わった(つまり帝国の中の王国となった)。
 しかし、第一次世界大戦で敗北したドイツ帝国が1918年に崩壊すると、ドイツ革命がバイエルンにも及んでヴィッテルスバッハ家の王政は廃止され、バイエルン共和国としてワイマール共和国を構成することとなった。

Episode 狂王ルートヴィヒ

 バイエルン王国の国王ルートヴィヒ2世(在位1864~86)は作曲家ワグナーを保護したことで知られるが、ロマンチックな中世の騎士道にあこがれ、ノイシュヴァンシュタイン城など、お伽噺的な城をたくさん造らせた。その在位期間はまさにプロイセン主導のドイツ統一が進んだ時期であるが、バイエルン王は為す術を知らず、普仏戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム1世を諸侯を代表してドイツ皇帝に推戴する役割を担わされた。築城費用をプロイセンから借金していた代償だった。その後もルートヴィヒの浪費癖と奇行は収まらず、1886年、侍医と共に湖で溺れて死んだ。大臣たちは国王の精神に異常があったと証言し、世に「狂王ルートヴィヒ」と言われるようになった。しかし、本当に狂っていたのか、そしてこの変死の真相は分からない。この話は、当時バイエルンに留学していた森鴎外が後に『うたかたの記』で取り上げ、日本でもよく知られている。また、イタリアの映画作家ルキノ=ヴィスコンティのドイツ三部作の一つ『ルートヴィヒ』(1972)はこの事件を題材に忠実に人と時代を再現した重厚な(オリジナル版は4時間以上)映画で、得意の失われた貴族的世界を描いた傑作の一つであろう。ルートヴィヒが造ったノイシュヴァンシュタイン城は現在でも残されており、訪れる人も多い観光スポットになっている。
 → ドイツの鉄道  ミュンヘン一揆  ミュンヘン会談  ドイツ連邦共和国  ミュンヘン・オリンピック襲撃事件
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ジャン・デ・カール/三保元訳
『狂王ルートヴィヒ―夢の王国の黄昏』
2002 中公文庫リブロ
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ルキノ・ヴィスコンティ
『ルートヴィヒ』
1972年作品 完全復元版