ファシズム
イタリアなど帝国主義の後進地域に生まれた全体主義国家。ドイツのナチス、日本の軍国主義なども該当する。1930年代に侵略行為を展開し、第二次世界大戦の要因をつくった。1945年、敗戦とともに主要なファシズム国家は消滅した。
ファシズムとは、20世紀前半の帝国主義時代に現れた国家体制の一類型で、独裁権力のもとで議会制民主主義が否定され、強力な軍事警察力によって国民の権利や自由が抑圧される国家体制を言う。全体主義ともいわれるが、第一次世界大戦後に生まれたイタリア=ファシズムに見られる特徴は、反ブルジョワ、反資本主義を掲げた革新性を装うこと、議会政治での政党間の争いを克服すると称して、カリスマ的な指導者が大衆宣伝を行って選挙という民主主義を装うこと、などである。
ファシズムは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、ワシントン体制という国際社会の矛盾を突く形で生まれ、世界恐慌という資本主義の矛盾という中で育った。イタリアで、ムッソリーニが結成したファシスト党が1922年に権力をにぎったのを最初として、他に典型例としてはドイツのヒトラーのナチ党=国家(国民)社会主義労働者党によるナチス=ドイツがある。また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置き、天皇信仰をテコに国民を動員した1930~40年代前半の日本型ファシズム(天皇制)国家もある。
ファシズムを狭い意味でイタリアのファシスト党の独裁政権に限定した場合は、ドイツのナチズム、日本の軍国主義との違いが論じられるが、世界史の大きな理解ではドイツ、日本もファシズム国家と規定した方が良いと思われる。
ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の社会革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優越を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、特にユダヤ人を排除した。各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用しようという姿勢を変え、容認し、提携するようになった。それがファシズムが権力を握った理由である。それがもっとも顕著に表れたのが、ドイツのヒトラーの主張であり、それを実現したのが、ナチス=ドイツであった。 → その性格については、総統国家を参照。
なお、注意しなければいけないのはファシズムはドイツ、イタリア、日本の三国に特有の現象ではない、ということである。いわゆる先進的とされるイギリスやフランスにもファシズム運動は出現している。アメリカにも極端な愛国主義(ショーヴィニズム)や白人優越主義を唱える団体も存在した。これらはいずれも大衆的な広がりにはならず、国家権力を奪うほどにはならなかったが、大衆の支持がファシズムに傾く危険性はどの国にもあったと言える。
第二次世界大戦は枢軸国対連合国という二陣営の戦争として始まったが、枢軸国がファシズム国家であり、また当初手を結んでいたナチス=ドイツとスターリン独裁下のソ連の間に独ソ戦が開始されてから、連合国側の戦争の大義は、資本主義諸国と社会主義国ソ連が協力してファシズムと闘い、自由と民主主義を守る戦いであるということに収斂していった。そして1945年8月までにファシズム国家が相次いで敗北したことで終わり、戦後世界はファシズム国家の出現を国際的に防止する国際的なしくみとして「連合国」を発展させて国際連合を組織し、世界恐慌の発生を防止する国際的な経済協力組織や通貨ルールを作ることになると同時に、米ソ対立の冷戦という新たな対立軸へと転換する。
それらとは別に、同じ時期に独裁国家も現れた。スペインのフランコ政権、隣国ポルトガルのサラザール政権(及びその後継のカエターノ政権)は、いずれも1930年代末までに独裁体制を作り上げ、大戦後にも政権を維持している。スペインにはフランコ以前の1920年代にプリモ=デ=リベラ政権が独裁政治を行っていた。これらのケースでは独裁政治が行われていたが、強固なイデオロギーの標榜よりも個人のカリスマ性を前面に押し出し、厳密な国家統制も行わていなかった。独裁政治によって人権や自由が奪われた点ではファシズムと似ているが、厳密にはその概念には当てはまらず、それら「権威主義」体制と規定されている。彼らは世界大戦でもファシズム国家とは一線を画して中立政策をとり、ファシズム国家と共に倒れることもなく、戦後までその権力を維持した。1910~20年代のハンガリーのホルティ、ポーランドのピウスツキも独裁政権であったが、これらもファシズムには近いが、議会制度が否定されていないことなどから、区別して権威主義体制とされている。
ドイツとイタリアでナチスとファシスト党の勝利が確定したことは、他のヨーロッパ諸国に大きな脅威を及ぼした。それに対して、コミンテルンはようやく1935年の第7回大会で「反ファシズム人民戦線」の結成を方針とし、スペイン人民戦線、フランス人民戦線が相次いで結成され、1936年に選挙で勝利して人民戦線内閣が発足した。
スペインでは人民戦線政府に対してただちに軍部が反乱を起こし、スペイン戦争が開始され、ドイツとイタリアは積極的に反乱軍を支援した。人民政府への支援はソ連が明確にしたものの、フランスの人民戦線政府は当初はスペイン政府支援を決定したにもかかわらず、政府部内の反ソ派の反対で中止した。結局スペインの人民戦線政府はイギリス・フランスの不干渉政策によって見殺しにされ敗北した。フランス人民戦線内閣はこれをきっかけに内部対立が激化し、結局崩壊した。こうして人民戦線の崩壊によって世界戦争へと突入する。
アジアにおいては、1931年の満州事変以来の日本の侵略に対し、中国共産党は1935年に八・一宣言で人民戦線の結成を国民党に呼びかけ、1936年西安事件を機に国共合作の機運が進んでいた。にもかからず日本軍は1937年に盧溝橋事件を機に全面的な日中戦争に踏み切る。それを受けて第2次国共合作が成立し、「抗日民族統一戦線」による日本ファシズムに対する民族的抵抗が展開され、中国全土を制圧することは出来ずに点をつなぐ支配にとどまっていた日本軍は苦戦に陥る。中国戦線での停滞を打開するために援蔣ルートを遮断する必要が生じ、また石油以下の資源を獲得する必要から、日本軍はインドシナなど南方に進出、それがアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの利害と衝突し、遂には太平洋戦争へと拡がっていった。
“〇〇ファースト!!” という叫びを聞くたびに胸騒ぎを覚える。日本でも標榜されている「決められる政治」ということが、多数で何事も決めていくという政治になってしまえば、少数意見の尊重や、時間をかけた合意形成と言った当たり前の民主主義の手続きが無視されかねない。ヒトラーのナチス政権も選挙によって国民の信任を受けるという「民主主義」の手続きを取っていた。
「多数決」で即決していくことがどのような結果を招いたか、世界史を学ぶことによって感じ取ることができる。ファシズムに抵抗するには一人一人が「手間のかかる合意形成、少数意見の尊重」といった「民主主義のまどろっこさ」に徹することが必要に思える。その面倒くささを放棄してしまったとき、ちょっとした軍事的衝突が一気に世界戦争につながる事態が起きる恐れを感じないわけにはいかない。
ファシズムは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制、ワシントン体制という国際社会の矛盾を突く形で生まれ、世界恐慌という資本主義の矛盾という中で育った。イタリアで、ムッソリーニが結成したファシスト党が1922年に権力をにぎったのを最初として、他に典型例としてはドイツのヒトラーのナチ党=国家(国民)社会主義労働者党によるナチス=ドイツがある。また一個の政党ではなく、軍部が権力を握り、政党を大政翼賛会として傘下に置き、天皇信仰をテコに国民を動員した1930~40年代前半の日本型ファシズム(天皇制)国家もある。
ファシズムを狭い意味でイタリアのファシスト党の独裁政権に限定した場合は、ドイツのナチズム、日本の軍国主義との違いが論じられるが、世界史の大きな理解ではドイツ、日本もファシズム国家と規定した方が良いと思われる。
ファシズムの語源
ムッソリーニの創設したファシスト党に始まるが、その言葉は古代ローマのファッショに由来する。ファッショは古代ローマの執政官(コンスル)の権威を示す一種の指揮棒のようなもので、小枝(棒)を束ねたもの。権力の象徴とされ、人民を「束ねる」意味があるところから、全体主義を意味する言葉として蘇った。そこから、ファシスト(全体主義者、国家主義者)、ファシズム(その主張)という用語が派生した。ムッソリーニはいたるところで古代ローマを賞賛し、学校ではローマの歴史を重視し、ローマ建国の日とされる4月21日は祭日となり、盛んにラテン語を引用した。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.319->ファシズム台頭の背景
第一次世界大戦後もさらに激しくなった列強の帝国主義の利害対立の中で、1929年に世界恐慌が起きると、ドイツやイタリア、日本のような後発的ないわゆる「持たざる国」は、イギリス・フランス・アメリカという「持てる国」を主体としたヴェルサイユ体制・ワシントン体制を打破し、世界再分割を要求するようになり、軍事力による生存圏の拡張を図ろうとする風潮が生まれた。そのファシズム指導者を国内的に支持したのは、特に世界恐慌による経済不況に苦しめられた中間層の多数派であった。ファシズムは彼らの不満を背景に、旧来の伝統的権力を否定し、国民主体の社会にするという一種の社会革命幻想を振りまき、中間層を取り込んだ。また、国民を国家と一体化するために、ことさらに民族主義(ナショナリズム)を鼓吹し、民族的な優越を強調して、反面他民族や異民族に対して激しい敵意を隠さず、特にユダヤ人を排除した。各国とも、資本家(財閥)や軍、教会などの保守勢力は当初はこのようなファシズムを危険視して警戒したが、次第に共産主義革命を抑える力として利用しようという姿勢を変え、容認し、提携するようになった。それがファシズムが権力を握った理由である。それがもっとも顕著に表れたのが、ドイツのヒトラーの主張であり、それを実現したのが、ナチス=ドイツであった。 → その性格については、総統国家を参照。
ファシズム国家の諸相
ファシズム国家のもとではナショナリズムが強調され、国家元首への敬礼や国旗・国歌への拝礼が強要され、国家利益が優先されて国民の人権や自由は奪われる。政治においては議会や政党は否定されるか、あっても一党独裁のもとで形骸化して民主主義は行われなくなる。また、学校教育や情報宣伝でも愛国心や家族愛が強調され、そこから異質なものは排除されていく。民族同一性に価値観が偏重し、少数民族や周辺の民族を排撃あるいは蔑視するようになる。なお、注意しなければいけないのはファシズムはドイツ、イタリア、日本の三国に特有の現象ではない、ということである。いわゆる先進的とされるイギリスやフランスにもファシズム運動は出現している。アメリカにも極端な愛国主義(ショーヴィニズム)や白人優越主義を唱える団体も存在した。これらはいずれも大衆的な広がりにはならず、国家権力を奪うほどにはならなかったが、大衆の支持がファシズムに傾く危険性はどの国にもあったと言える。
ファシズムと世界戦争
ファシズムのもう一つの特性は、国内で議会政治や政党政治を否定することと並んで、国際協調や多国間交渉を否定し、自国優先の外交を隠さないことであろう。その裏付けは軍事力にしかないので、集団安全保障を真っ向から否定して自国の軍備拡張を優先し、自衛権あるいは集団的自衛権を行使するといって軍事行動を辞さない。帝国主義の矛盾が表面化した世界恐慌の後、イタリア・ドイツ・日本は1930年代から侵略行為を自衛のためと正当化して軍事行動を開始、1940年代に枢軸国と称して提携した。しかし、ファシズムの軍事同盟は決して強固だったわけではない。ドイツとイタリアが枢軸関係を作り上げるまで、利害対立で駆け引きを繰り返したことは、チャップリンの映画『独裁者』で滑稽に描かれていた。日本とドイツの提携もソ連の動向によって左右されていた。第二次世界大戦は枢軸国対連合国という二陣営の戦争として始まったが、枢軸国がファシズム国家であり、また当初手を結んでいたナチス=ドイツとスターリン独裁下のソ連の間に独ソ戦が開始されてから、連合国側の戦争の大義は、資本主義諸国と社会主義国ソ連が協力してファシズムと闘い、自由と民主主義を守る戦いであるということに収斂していった。そして1945年8月までにファシズム国家が相次いで敗北したことで終わり、戦後世界はファシズム国家の出現を国際的に防止する国際的なしくみとして「連合国」を発展させて国際連合を組織し、世界恐慌の発生を防止する国際的な経済協力組織や通貨ルールを作ることになると同時に、米ソ対立の冷戦という新たな対立軸へと転換する。
ファシズムと権威主義
この典型的な三つの国家以外にも近~現代において、ファシズムによる国家統制を行った国家は存在した。ヨーロッパのファシスト国家の周辺に生まれた、大戦前のオーストリアのドルフース政権、ルーマニアのアントネスク政権、ギリシアのメタクサス政権などはファシスト政権とされている。これらはいずれもドイツ・イタリアのファシズムと共に大戦期に崩壊した。それらとは別に、同じ時期に独裁国家も現れた。スペインのフランコ政権、隣国ポルトガルのサラザール政権(及びその後継のカエターノ政権)は、いずれも1930年代末までに独裁体制を作り上げ、大戦後にも政権を維持している。スペインにはフランコ以前の1920年代にプリモ=デ=リベラ政権が独裁政治を行っていた。これらのケースでは独裁政治が行われていたが、強固なイデオロギーの標榜よりも個人のカリスマ性を前面に押し出し、厳密な国家統制も行わていなかった。独裁政治によって人権や自由が奪われた点ではファシズムと似ているが、厳密にはその概念には当てはまらず、それら「権威主義」体制と規定されている。彼らは世界大戦でもファシズム国家とは一線を画して中立政策をとり、ファシズム国家と共に倒れることもなく、戦後までその権力を維持した。1910~20年代のハンガリーのホルティ、ポーランドのピウスツキも独裁政権であったが、これらもファシズムには近いが、議会制度が否定されていないことなどから、区別して権威主義体制とされている。
ファシズムとの戦い 人民戦線の形成
ファシズムの暴力的攻撃に対して議会政治や自由主義を擁護するには、それに対抗する勢力がばらばらであっては力にならなかったことは歴史が示している。それに対抗する勢力、具体的にはブルジョワ民主主義政党、社会民主主義政党、そして共産党などが幅広く結束して、いわゆる人民戦線(民族統一戦線)を構築するしかなかったのであるが、ドイツとイタリアでは社会民主主義政党と共産党は激しく対立し、互いに相手を目前の敵としていたため、ファシズムの台頭を許したとみることができる。ドイツとイタリアでナチスとファシスト党の勝利が確定したことは、他のヨーロッパ諸国に大きな脅威を及ぼした。それに対して、コミンテルンはようやく1935年の第7回大会で「反ファシズム人民戦線」の結成を方針とし、スペイン人民戦線、フランス人民戦線が相次いで結成され、1936年に選挙で勝利して人民戦線内閣が発足した。
スペインでは人民戦線政府に対してただちに軍部が反乱を起こし、スペイン戦争が開始され、ドイツとイタリアは積極的に反乱軍を支援した。人民政府への支援はソ連が明確にしたものの、フランスの人民戦線政府は当初はスペイン政府支援を決定したにもかかわらず、政府部内の反ソ派の反対で中止した。結局スペインの人民戦線政府はイギリス・フランスの不干渉政策によって見殺しにされ敗北した。フランス人民戦線内閣はこれをきっかけに内部対立が激化し、結局崩壊した。こうして人民戦線の崩壊によって世界戦争へと突入する。
アジアにおいては、1931年の満州事変以来の日本の侵略に対し、中国共産党は1935年に八・一宣言で人民戦線の結成を国民党に呼びかけ、1936年西安事件を機に国共合作の機運が進んでいた。にもかからず日本軍は1937年に盧溝橋事件を機に全面的な日中戦争に踏み切る。それを受けて第2次国共合作が成立し、「抗日民族統一戦線」による日本ファシズムに対する民族的抵抗が展開され、中国全土を制圧することは出来ずに点をつなぐ支配にとどまっていた日本軍は苦戦に陥る。中国戦線での停滞を打開するために援蔣ルートを遮断する必要が生じ、また石油以下の資源を獲得する必要から、日本軍はインドシナなど南方に進出、それがアメリカ・イギリス・オランダ・フランスの利害と衝突し、遂には太平洋戦争へと拡がっていった。
つぶやき ファシズムの足音
第二次世界大戦後、民族独立運動の過程でのアジアやアフリカ、反米運動の過程でのラテンアメリカ、などで独裁政治が生まれているが、これらはファシズムとは言えない(高度な資本主義独占体制との結びつきはないので)。むしろ、グローバリズムのもとで出現している帝国の形成、それに対する叛乱の形態をとりながら強まっている民族的排他主義などの中に新たなファシズムの芽があるのではないかと危惧される。“〇〇ファースト!!” という叫びを聞くたびに胸騒ぎを覚える。日本でも標榜されている「決められる政治」ということが、多数で何事も決めていくという政治になってしまえば、少数意見の尊重や、時間をかけた合意形成と言った当たり前の民主主義の手続きが無視されかねない。ヒトラーのナチス政権も選挙によって国民の信任を受けるという「民主主義」の手続きを取っていた。
「多数決」で即決していくことがどのような結果を招いたか、世界史を学ぶことによって感じ取ることができる。ファシズムに抵抗するには一人一人が「手間のかかる合意形成、少数意見の尊重」といった「民主主義のまどろっこさ」に徹することが必要に思える。その面倒くささを放棄してしまったとき、ちょっとした軍事的衝突が一気に世界戦争につながる事態が起きる恐れを感じないわけにはいかない。