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フランコ

スペインの軍人で、1936年に人民戦線内閣に対する反乱(スペイン戦争)を開始し、その過程で独裁権力を握り、ドイツ、イタリアの支援を受け37年に新政府を樹立、39年春までに戦争を終結させた。第二次世界大戦では中立策をとり、戦後の47年以降は終身統領として権力を維持し、1975年に死去した。

 本名はフランシスコ=フランコ=イ=バーモンテ。スペインの陸軍参謀長だった1936年、人民戦線内閣の成立に対して非常事態宣言を要求したが、容れられず左遷され、軍部反乱が開始されるとモロッコに渡りベルベル人部隊を組織してジブラルタルからスペイン本土に侵攻、スペイン戦争の立役者となった。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアの軍事支援を受けて人民戦線政府軍と戦い、1937年10月に新政府樹立を宣言し、ついに39年3月に人民戦線政府を倒して独裁的権力を掌握した。以後ファシズム体制をつくりあげたが、第二次世界大戦では中立を維持して、戦争に加わらず、それによって戦後も独裁体制を継続を可能にした。1947年には終身統領の地位につき、いわゆるフランコ体制の独裁を続けた。彼が掲げたのは、反共産主義であり、また民主主義を否定して国民の自由な言論を抑圧し続けた。1975年のフランコの死はスペインの民主化の契機となり、スペインは1931年のスペイン革命で退位させられたスペイン=ブルボン朝の国王を復活させる王政復活という形でフランコ時代に終わりを告げた。

モロッコで頭角を現す

 フランコが軍人として頭角を現したのはモロッコにおいてだった。スペインは北モロッコのリーフ地方の首長アブデル=クリムとのリーフ戦争で、1921年のアヌアルの戦いでの大敗などのように苦戦が続いていた。苦戦するスペイン軍の中で目立った働きをしたのが、1910年にトレドの士官学校を卒業してモロッコに配属されていたフランコだった。その作戦の巧妙さと仮借ない残虐さはフランスのモロッコ征服者リヨテ元帥も褒めたほどで、軍功によって昇進し、わずか32歳で将官となり外人部隊の指揮をとった。

アストゥリアスの蜂起を鎮圧

 1931年のスペイン革命で共和国政府が成立すると軍制改革が行われ、フランコが校長をしていた士官学校は閉鎖され、彼はバレンシア諸島に追いやられた。フランコは自由主義も共産主義者もフリーメーソンに動かされていると信じて同一視し、共和国政府への反感を募らせた。アサーニャ内閣が倒れ、右派内閣が成立してファシストが復活するとフランコも将軍として中枢にもどり、1934年に左派労働者がアストゥリアスで蜂起すると、モロッコのムーア人部隊を投入することを提案して、それによって蜂起を鎮圧するのに成功した。次いでフランコは軍最高位の参謀総長に任命された。

人民戦線政府に対する反乱開始

 1936年2月、人民戦線が選挙に勝利して共産党を含む人民戦線内閣が成立すると、フランコは戒厳令を主張したが政府に拒否され、次いでアサーニャ大統領から参謀総長の地位を解任されて離島のカナリア諸島守備隊長に左遷された。任地に赴任する前、右派の将軍たちと謀議を重ね、政府打倒のクーデタ計画を練った上で任地に赴いた。1936年7月17日、軍部グーデタが宣言されると、フランコはカナリア諸島からモロッコに入り、挙兵して全土に反乱の声明文を放送した。スペインでよく見られた軍による蜂起宣言(プロヌンシアミエント)を発したのである。ただし、フランコは最初から反乱軍の中心だったわけではなく、当初はモラ将軍やラジオ将軍として知られたラジオ出演が大好きなデ=リャーノらに後れを取っていた。しかし、フランコがドイツ・イタリアの援助を得るのにパイプとなったことから反乱軍の主導権を獲得、両国から援助された船舶でモロッコの現地部隊を本土に移送することに成功して反乱軍が全土の半分を制圧するに至った。

独裁権力を獲得

 1936年10月1日に一種のクーデタで勝手に「国家元首」を名乗り、陸海空の三軍を指揮する「大元帥」となり、ヒトラーの総統(フューラー)を真似てカウディーリョ(統領)と呼ぶことを決めた。この時43歳だったフランコは、ヒトラーやムッソリーニと異なり、自力で独裁者となったのではなく、軍人としての地位を高め、推されて独裁者となった感が強く、またその国家観もプリモ=デ=リベラや隣国ポルトガルで1932年に成立したサラザール独裁政権を手本とする反共産主義国家を標榜するだけであった。

スペイン戦争

 スペイン戦争が始まると、フランコ軍はほぼ全土の西半分を制圧したが、数ヶ月で全土を支配するという当初のもくろみは、ソ連軍の支援を受けた政府軍と国際義勇兵の抵抗によって崩れた。特にマドリード攻略には手こずり、1937年3月にはグァダラハラの戦いで大敗した。そのためフランコは攻撃目標をスペイン北部のバスク地方などに転じ、ドイツ軍に要請してゲルニカなどを空爆、さらに陸上部隊で侵攻し、バスク地方を制圧した。政府軍はイギリス・フランスの不干渉政策によって不利な戦いを強いられ、ソ連の支援は人民戦線内部の亀裂の要因となって効果があらわれず、次第に追い詰められていった。1938年夏、エブロ川での政府軍の反撃を撃破し、39年1月にバルセロナを陥落させ、3月28日にマドリードに入城してスペイン戦争を終わらせた。1938年4月1日、フランコは勝利を宣言した。

ファランヘ党

 戦争を有利に進める中、独裁者としての支持基盤を確立するため、1937年4月、それまでの右派政党であるファランヘ党や王党派を統合して「統一ファランヘ党」を作り上げ、唯一の公認政党として総統を支える組織に仕立てた。またカトリックを復権させ、教会を国家の一つの柱とするカトリック国家への復帰を謳った。ファランヘ党は党員を拡大し、約百万に達した。

第二次世界大戦での中立策

 独裁権力を獲得し、内戦を終結させたフランコは、国際的にはドイツ・イタリアのベルリン=ローマ枢軸との防共同盟などの関係を強め、国際連盟を脱退した。しかし、1939年9月、第二次世界大戦が始まるとフランコはスペインの中立を宣言した。これはスペインが内戦で疲弊したため、対外戦争を行う余裕がなくなっていたことが第一の理由であるが、実際には有利な時期に参戦して分け前を得るチャンスを狙っていたのであった。事実、フランスがドイツに占領されると、フランス領モロッコを狙い、自由港とされていたタンジールを占領している。イギリス、アメリカはスペインに中立を守らせるため、さまざまな工作をした。
 1940年10月、フランコはヒトラーと会談したが、参戦の見返りとしてアフリカ植民地の拡大という要求を出したため、ヒトラーが躊躇して実現しなかった。スペイン国内ではファランヘ党が参戦を主張し、41年6月、ドイツがソ連に侵攻すると「青い旅団」と呼ばれる義勇兵1万8千を派遣、レニングラードなどでソ連軍と戦っている。しかし、ドイツ・イタリア枢軸の敗北が濃厚になると、フランコは中立を再宣言し、イギリス・アメリカへの接近を図った。このようにフランコは巧妙に正式な参戦を回避しながら、勝利の分け前にあずかるろうとしたのであった。
   → 戦後のフランコ独裁政治

Episode フランコの墓を巡る騒動

 スペインのサンチェス首相は、2018年8月、「戦没者の谷」からフランコの墓を撤去することを表明した。「戦没者の谷」はマドリードの北西50kmにあり、1959年、当時独裁権力をふるっていたフランコ総統の命令で、スペイン内戦の犠牲者3万人が埋葬され、その中央に高さ150mの巨大な十字架が立ち、フランコ自身が巨大な兵士像などに守られながら眠っていた。しかし、一般市民は独裁者の眠る墓地には参拝することを拒み、内戦の反政府側として戦死した遺族からも批判の声が起こっていた。左派政権として登場したサンチェス首相はそれらを踏まえ、この施設からフランコの遺骸を移す方針を固めたのだ。それに対して世論調査では移設賛成は41%、反対が39%で世論は割れた。独裁政治の過去と決別することをめざす首相を支持する声がやゝ多かったが、現在もフランコを偉大な指導者として信奉する人々は移設に強く反対し、また年金や失業問題などを抱える今「古傷開くだけ」との批判の声もある。<朝日新聞 2018/11/22 記事 >

NewS フランコの墓、移設される

 2019年10月、CNNなどの報道によると、スペインの独裁者フランコの遺体が共同墓地から掘りだされ、別な墓地に移葬されたという。「戦没者の谷」の棺の掘り起こしの場は、スペインの司法相や科学捜査の専門家、神父、フランコ総統の子孫22人が立ち会った。その後霊柩車とヘリコプターで妻の眠るエルパルドの墓地に運ばれ、埋葬された。スペイン政府と遺族の間では1年にわたり法廷闘争が続いたが決着し、政府が6万3000ユーロ(約760万円)の移設費を負担した。それまで総統の命日に当たる11月20日に墓前で集会を行ってフランコ時代を懐かしんでいた右派も移設反対を訴えていたが、いずれも却下された。左派のサンチェス政権はこれで公約の一つを果たしたことになる。<CNN ニュース 2019/10/25
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