モロッコ事件
20世紀の初頭、帝国主義列強によるアフリカ分割が進む中で起こったドイツとフランスの対立。1905年の第1次(タンジール事件とも言う)、1911年の第2次(アガディール事件とも言う)があり、1912年のフランスによるモロッコ保護国化で終わった。
フランスのアフリカ進出
フランスは1830年のアルジェリア出兵以来、アルジェリアを植民地化し、地中海の対岸の北アフリカへの進出を強めていた。普仏戦争の敗北、第三共和政の混乱など、一時その勢いは弱まったが、1880年代から資本主義経済を発展させ、帝国主義的政策を採るようになった。アフリカでは1881年にチュニジアを占領、さらに保護国化し、イタリアとの間の緊張感を高めていた。さらに南下してサハラに侵出し、アフリカ東岸ではジブチ、マダガスカルの獲得と進み、アフリカ横断政策をとるようになると、アフリカ縦断策を採るイギリスと対立し、1898年にファショダ事件が起こった。その衝突の危機を回避すると、フランスはモロッコへの侵出を策すようになり、1904年には英仏協商を締結して、イギリスのエジプトでの権益とフランスのモロッコ権益を相互に認めた。ドイツのアフリカ進出
このような列強のアフリカ分割の進行から一歩遅れていたドイツのアフリカ進出は、ビスマルク時代の末期の1880年代にようやく活発と也、カメルーンやモロッコ事件の概要
こうして起こったのが1905年の第1次モロッコ事件(タンジール事件とも言う)であった。両国の対立は一時は開戦の危機まで高まったが、国際会議で解決する方策が採られ、1906年にアルヘシラス会議となった。会議ではモロッコの機会均等・門戸開放などが取り決められた点ではドイツの要求は認められたが、フランス権益の排除は認められず、孤立した。結局、会議はフランスが実質的な権益を保持して終わった。またこれと並行してドイツの東アフリカ植民地でマジマジ反乱という反植民地闘争が起こっており、ドイツは後退せざるを得なかった。その後、フランスはモロッコへの内政干渉によって勢力の扶植に務め、1911年に反仏暴動が起きると、鎮圧のために出兵した。ヴィルヘルム2世のドイツはアルヘシラス会議での機会均等の原則に従い、1911年7月、再び軍艦を派遣して抗議するという第2次モロッコ事件(アガディール事件とも言う)がおこった。このときは国際会議は開かれなかったが、イギリスが強くフランスを支持したこともあって、ドイツは妥協し、モロッコにおけるフランスの優位を認める代わりにコンゴの一部を獲得することで終わった。結局、モロッコ事件ではドイツは強硬な姿勢にもかかわらず、ほとんど得ることなく終わり、翌1912年のフランスのモロッコ保護国化を完成させることとなった。いずれにせよ、2回にわたるモロッコ事件は、当のモロッコを度外視した、帝国主義列強の露骨な世界分割競争の一こまであった。 ← 帝国主義
第1次モロッコ事件/タンジール事件
1905年、仏のモロッコ侵出に対し、独のヴィルヘルム2世が抗議しタンジール港に上陸した事件。タンジール事件とも言う。ドイツは前年の英仏協商をもとに、フランスがモロッコ支配に乗り出したことに抗議したものであった。翌年ドイツの要求でアルヘシラス会議が開催され、列強間の調整が行われたが、ドイツの意に反しモロッコへのフランスの実質的支配権が認められた。20世紀初頭の帝国主義列強間の調停の一例だが、独仏の対立は第一次世界大戦につながっていく。
タンジール
タンジールは、タンジェとも表記する。モロッコ北部、ジブラルタル海峡の大西洋側出口に位置し、地中海の出入り口を抑えるする要港である。かつて14世紀のマリーン朝時代に、タンジールの生まれたイスラーム世界の大旅行家イブン=バットゥータは、1304年にこの地を出発して、『三大陸周遊記』を著した。1415年、ポルトガルはセウタを占領し、さらに1471年にタンジールも領有した。1661年、ブラガンサ朝ジョアン4世の娘カタリーナがイギリスのチャールズ2世の妃となった時、インドのボンベイとともに婚資(持参金)として譲渡された。しかし、その後イスラーム勢力によって奪回された。帝国主義時代になってまずフランスがこの地を狙ったのだった。
フランスのモロッコ侵出
帝国主義諸国によるアフリカ分割が進行する中で、突如モロッコのタンジールが世界の耳目を集めることになった。フランスはイギリスとの間で1898年のファショダ事件を起こしたが、実戦を回避した後は、協調するようになった。それはドイツという共通の敵対勢力が台頭したことが理由であった。両者は1904年4月、英仏協商を締結し、イギリスはエジプトを、フランスはモロッコをそれぞれ優先的な権益とすることを認め合った。フランス外相デルカッセは、それを受けて翌1905年1月、モロッコ国王(スルタン)に対し軍事と経済でのフランス権益を大幅に認める改革計画を提示した。ヴィルヘルム2世のタンジール上陸 これに対してドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世は、英仏協商にはドイツは拘束されないとしてモロッコ救援を掲げ、自ら艦隊を率いてモロッコに向かい、同1905年3月31日にタンジール港に上陸、スルタンと会見してイギリスやフランスの勝手な行動を許さないと表明した。
日露戦争との関係 このドイツ皇帝の突然の行動は列強を驚かせたが、皇帝を動かしたのは首相ビューローや外務省であり、皇帝の単独行動ではなかった。ドイツ政府にはこのときはアジアにおいて日露戦争の最中であったので、フランスの同盟国ロシアが動けないことを計算に入れたのであった。モロッコ国王もヴィルヘルム2世の宣言を受けてフランスの要求を拒否したため、ドイツ・フランス間の開戦かと緊張は一挙に高まった。これを第1次モロッコ事件、またはタンジール事件という。
ヴィルヘルム2世とドイツ政府の意図
(引用)(タンジール上陸)この外交の常軌を逸した突飛なカイザーの行動は久しく謎とされ、単にカイザーの好戦的な性質に帰して説明されていたが、第1次大戦後の『ドイツ外務省文書集』の公刊によって、この企てはカイザーの本意によるものではなく、むしろホルシュタイン(外務省高官)やビューロー(帝国宰相)の描いた筋書による演技であったことが明るみに出されている。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院 p.79-80>ビューロー首相らドイツ政府の考えは、モロッコ問題では1880年にマドリード条約が締結されており、関係諸国に最恵国待遇を与えるとされているので、フランスのモロッコ権益主張に対してドイツが強硬手段を取っても国際法上の問題は無い、との根拠であった。さらにイギリスが反対することを想定し、調停を国際会議に持ち込み、それにアメリカ合衆国大統領セオドア=ローズヴェルトを招聘すれば、ドイツが中国分割で出遅れたアメリカの門戸開放・機会均等の主張に支持を表明していたので、アメリカがドイツに有利な調停をしてくれる、と考えていた。このように第1次モロッコ事件(タンジール事件)はヴィルヘルム2世の個人的な突飛な行動ではなく、国際情勢を踏まえたドイツ政府主導の外交策だったこと、日露戦争とも密接な関係があったことに十分注意しておこう。
危機の回避
ドイツの強硬な姿勢に対して、フランスの外相デルカッセはその要求をはねのけ、戦争を決意しイギリスの軍事支援を打診するところまで行った。一方、ドイツは問題を予定通り国際会議の場で解決することを要求した。1905年5月28日、当事国モロッコのスルタンが会議開催で合意(この日、地球の裏側ではロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で全滅していた)、フランスは戦争に打って出るか、国際会議での調停にゆだねるか、を決断しなければならない局面となった。6月6日に開かれた閣議で首相ルーヴィエはデルカッセの強硬論は危険と判断した。それは肝心の陸軍大臣がフランスの軍備に悲観的な報告をしたためであった(背景には当時フランスではドレフュス事件があって軍隊への不信が強まっていたことが挙げられる )。こうしてデルカッセ外相は辞職に追い込まれ、軍事衝突は回避され、解決は国際会議の場に移された。7月、外相を兼任する首相ルーヴィエは、ローズヴェルトの調停を受け入れ、国際会議開催を受諾した。反故となった皇帝の密約
1905年のモロッコ危機に直面したドイツ政府首脳はフランスとの戦争を決意した。それは露仏同盟がすでに成立しているのでロシアとの戦争ともなることが想定されるので、陸軍首脳はシュリーフェン計画という両面作戦を策定した。しかし、ヴィルヘルム2世は武力による解決に反対し、ロシアとの間で相互援助条約を締結しようとした。その発想ににとりつかれたヴィルヘルム2世は、1905年7月24日、フィンランドのビョルケでロシア皇帝ニコライ2世と会見し、攻守同盟を結んだ。この「ビョルケの密約」は双方とも政府を介さない皇帝同士の密約だった。ニコライ2世は日露戦争のポーツマス講和会議開催の直前で、わらにもすがりたい思いだったし、ヴィルヘルム2世は第1次モロッコ事件で対立しているフランスに泡を吹かせたいと思ったのであろう。二人は意気投合して密約に署名し、それぞれ本国政府に打電した。驚いたのは双方の政府で、ドイツ首相ビューローは政府の頭越しに密約が結ばれたことに怒り、辞任をほのめかした。ロシア外相ラムスドルフは露仏同盟に反するドイツとの密約に反対した。こうしていずれも政府の同意を得られず正式に締結されることなく終わった。二人はヴィクトリア女王との関係でいとこ同士に当たり、たがいに愛称で呼び合うような親しい関係だったが、国家間の問題を皇帝同士の個人的繋がりで解決できるような時代ではなくなっていたのだ。反故となったビョルケ密約は今や忘れられたエピソードとなっている。<竹中亨『ヴィルヘルム2世』2018 中公新書 p.10,110-112>
アルヘシラス会議
こうしてドイツの要請によってモロッコ問題に関する国際会議が開催されることになり、1906年1月、スペインでアルヘシラス会議が開催されることになった。会議はアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの他、ドイツ・フランス・イギリス・ロシア・イタリア、スペインなどと共にモロッコの代表も参加して開催された。ドイツ首相は会議でドイツの権益が認められ、フランスの進出は抑えられるだろうと確信していたが、ここでも大逆転が起こった。イギリスなどの諸国がいずれもフランスを支持したのだ。会議は形の上ではモロッコの主権尊重が認められ、列強はモロッコに対する機会均等・門戸開放が決められたものの、フランスの撤退を求めるドイツの主張は認められず孤立し、フランスとペイン両国が治安維持のためモロッコにおける警察権が行使することが認められたことで決着した。結局、ドイツはモロッコに関して得るものは何もなく、フランスの権益だけは守られた形となり、第一次モロッコ事件はドイツ外交の失敗として終わった。モロッコ情勢はその後、ドイツも静観の態度をとったので、いったんは落ち着いたが、アルヘシラス会議でドイツとの距離感を感じたロシアが、ともにドイツの3B政策を警戒するイギリスに近づき、1907年には英露協商が締約され、三国協商のドイツ包囲網の形成が進み、英独間は建艦競争の緊張が進み、バルカン問題では1908年のオーストリア帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合が強行され、ドイツ・オーストリアとロシアの関係が悪化する。そのような情勢の中、今度は1911年にモロッコ内部からフランスの支配に対する反発が強まり、民衆反乱が起きたためフランスが出兵させるると、ドイツは再びモロッコ問題に介入し、第2次モロッコ事件(アガディール事件)が起きることになる。
第2次モロッコ事件/アガディール事件
1911年、ドイツのヴィルヘルム2世が軍艦をモロッコのアガディール港に派遣し、フランスを牽制した事件。翌年妥協が成立、ドイツはフランスのモロッコでの権益を認め、アフリカで植民地カメルーンを拡張することで終わった。フランスは翌年、モロッコ保護国化を完成させた。
フランスのモロッコ出兵
第1次モロッコ事件(1905年)後のアルヘシラス会議(1906年)でモロッコでの優位を獲得したフランスは、モロッコのスルタン政府の内乱に介入して1907年にはカサブランカを占領したり、着々と支配を固めた。しかし、アルヘシラス条約で認められたフランスの警察権行使期限が1911年末までになっていたところで、同年2月にモロッコの民族蜂起が始まった。その騒乱は首府フェズの近くで起こったことを憂慮したフランスは、5月21日、鎮圧のため出兵し、フェズを占領した。ドイツ海軍のアガディール入港
このフランスのモロッコ出兵に対し、ドイツはアルヘシラス条約違反であると主張し、自国民の保護を口実に1911年7月1日、軍艦をモロッコの独仏の取り引き このときドイツの出兵を主導したのは、外相のキダーレン=ヴェヒターであったが、彼は第1次モロッコ事件の時、国際会議の開催を強要してかえって失敗した経験から、今度はフランスとの単独交渉で問題を解決しようとした。そのねらいはあくまで開戦というよりフランスの妥協を引き出し、フランスのモロッコ支配を認める代わりに引き換え地の獲得の保障を得ようとした。7月15日、キダーレン=ヴェヒターはドイツがモロッコから手を引く代わりにアフリカフランス領コンゴの譲渡を要求した。フランス政府はドイツの要求の過大さに憤激し、交渉は決裂した。
イギリスの強硬姿勢 このとき、イギリスの蔵相ロイド=ジョージがロンドンで演説し、ドイツを非難しフランス側に立ってドイツと戦うという決意を示した。これは英仏協商が崩れると、ドイツの覇権を許すことになることを恐れたものであったが、ドイツはこのイギリスの強い意思表示をみて、一歩下がらざるを得なくなった。11月4日、ドイツとフランスは条約を結び、ドイツが譲歩して、ドイツ領カメルーンに接するフランス領コンゴの一部の27万平方㎞の割譲させる代わりに、フランスのモロッコ支配を承認することを約束した。ドイツは長年争ってきたモロッコ問題でフランスに屈した、という結果となり、さらに英仏関係を強化させて終わった。
フランスのモロッコ保護国化
第2次モロッコ事件でドイツの介入を排除したフランスは、モロッコに関する覇権を確立させた。翌1912年にはフランスはモロッコのスルタンとの間でフェス条約を結び、モロッコを保護国化し、その主権を奪った。この時、イタリアもトリポリ・キレナイカに侵攻し、イタリア=トルコ戦争を行っている。いずれもヨーロッパ列強の帝国主義的侵略であった。ドイツとイギリスの対立
第1次モロッコ危機の時と違って、この時はイギリスが公然とフランス支持を打ち出した。すでに1904年の英仏協商、1907年の英露協商で、イギリスはフランス・ロシアとの植民地分割協定を取り決めていたので、残る脅威としてドイツを強く警戒するようになっていた。特にその3B政策はイギリスのインド支配のルートを直接脅かすことになるので、強く反発した。そのような背景から、第2次モロッコ事件に際してイギリス政府大蔵大臣ロイド=ジョージは「フランスが脅かされるなら、イギリスは傍観しない」と発言した。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.99>