ベルリン=ローマ枢軸
1936年10月、スペイン戦争で協力したドイツとイタリアの両全体主義国家が提携を表明した。
ヒトラーのナチス=ドイツとムッソリーニのファシスト=イタリアの両国は、必ずしも最初から提携関係にあったわけではなかった。同じ全体主義、国家主義的性向から互いに親近感は持っていたが、ヒトラーはイタリア人を信用していなかったし、ムッソリーニはヒトラーのオーストリアへの野心を警戒していた。両者は1934年6月中旬、ヴェネツィアで会見したが、オーストリア問題で利害が対立していることが表面化し決裂した。1935年3月にヒトラーが再軍備を表明したときは、反発するイギリス・フランスにイタリアも同調し、ストレーザで三国会議を開きストレーザ戦線を形成している。
こうして、国際連盟に拘束されない三国が、当面は防共というイデオロギーを掲げて同調することとなり、1939年の第二次世界大戦の開始後、1940年には軍事攻守同盟である日独伊三国同盟に格上げされ、この三国は「枢軸国」と言われるようになる。
ヒトラーとムッソリーニの接近
しかし、ムッソリーニは同年10月、エチオピア併合を策して軍事行動を起こしたため、国際連盟から非難されることになり、翌36年3月今度はヒトラーがラインラント進駐を実行、フランス・イギリスとの戦争の危機が高まると、急速にドイツ・イタリア両国が接近することになった。また、35年8月のコミンテルン第7回大会で反ファシズム人民戦線戦術の採用が決まったことも両国の提携を強める背景にあった。すでに36年1月、両首脳は折衝を行い、ドイツはイタリアのエチオピア併合に対する不干渉を、イタリアはオーストリアへの関心の放棄(ドイツのオーストリア進出を認める)することを相互に認めた。スペイン戦争を機に独伊の枢軸成立
そのような中、1936年7月中旬、スペイン内戦が勃発するとドイツとイタリアはそれぞれスペインのフランコ軍に軍事援助を与え、10月25日には「ベルリン枢軸」の成立を宣言した。11月1日、ムッソリーニはミラノで演説し、「ローマとベルリンとの垂直線は障壁ではなくて枢軸である」と演説した。枢軸の意味
枢軸 Axis とは扉や車輪の回転軸のことで、「中心になる軸」のこと。従って「ベルリン=ローマ枢軸」(ムッソリーニは「ローマ=ベルリン枢軸」と言ったが)とは、ベルリン=ローマを結ぶ線が世界の回転軸になるぞ、という表明であった。続いて36年11月に日本とドイツが日独防共協定を締結、翌37年11月にイタリアが日独防共協定に加わり、翌月、国際連盟を脱退する。さらに、イタリアがドイツのオーストリア進出を黙認したことによって、38年3月、ヒトラーはオーストリア併合を強行し、9月にはミュンヘン会談でチェコのズデーテン地方併合を承認させた。こうして、国際連盟に拘束されない三国が、当面は防共というイデオロギーを掲げて同調することとなり、1939年の第二次世界大戦の開始後、1940年には軍事攻守同盟である日独伊三国同盟に格上げされ、この三国は「枢軸国」と言われるようになる。