世界人権宣言
1948年、国連総会で採決された、基本的人権の尊重を各国間で約束した国際公約。1966年の「国際人権規約」などで拘束力のある条約化がすすんでいる。
Universal Declaration of Human Rights 1948年12月10日、国際連合の第三回総会で当時の加盟国56ヵ国のうち、賛成48反対なし(ソ連圏の六カ国および他の二カ国が棄権に留まった)で成立した宣言。第二次世界大戦における人権蹂躙(じゅうりん)への反省に立ち、人権の尊重と平和の深い関係にかんがみ、基本的人権の尊重をその重要な原則とし、また人権委員会を設け、その大きな成果として本宣言が生まれた。当時は冷たい戦争といわれた東西冷戦のさなかに、東西のイデオロギーの対立を乗り越えて人権宣言が成立したことは画期的なことであり、国連の大きな成果であった。
2018年は、世界人権宣言が採択されてから、70年目の節目の年とった。
国際連合憲章では前文、第1条などで基本的人権の尊重をくりかえし謳っていたが、その具体的な規定は書いていたため、発足と同時に人権委員会で「国連人権憲章」の制定に向けて検討が開始された。マグナ=カルタ、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言といった歴史的遺産を継承しながら慎重な審議が進んだが、前米大統領フランクリン=ローズヴェルトの未亡人エレノアが委員長として異常な努力を払い、18ヶ月のスピードで原案を作成した。<高木八束他編『人権宣言集』1957 岩波文庫 p.400 高野雄一の解説>
世界人権デー 世界人権宣言採択40周年目にあたる1988年に、国連総会はこれを記念し、人権尊重をさらに促進するため、1948年に国連総会で採択された12月10日を世界人権デーとし各種記念行事を催すこと、人権確保のための公的機関設立を促進し、人権に関する教育活動を推進する等を定めた。
国際人権規約 世界人権宣言の理念を具体的な国際条約として、締結国の遵守義務を負わせたのが、1966年に国連総会で採択された国際人権規約であった。これは社会権規約と自由権規約の二部と附属する選択議定書から成り、細部にわたり人権擁護とその発展を促す国際条約であった。日本は1979年に批准(一部留保在り。選択議定書の個別通報制度と死刑廃止規定は批准していない)した。
国連の人権諸条約 その他の国連が世界人権宣言の精神を維持発展させるために採択した人権条約には次のものがある。
・結社の自由及び団結権の保護に関する条約(1950年発効。日本批准は65年)
・難民の地位に関する条約(1954年発効。日本は81年に加盟)
・女性差別撤廃条約(1979年総会で採択。日本は85年に批准)
・子どもの権利に関する条約(1989年総会で採択。日本は94年に批准)
人権理事会の活動 人権理事会はジュネーヴの国連欧州本部で年に最低3回会合を開き、決議に拘束力はないものの、国連加盟国の人権状況を監視、深刻な人権芯がある場合、勧告などで改善を求めることができる。理事国は47カ国で、地理的に配分されるが、選ばれるには全加盟国の過半数の票が必要だ。
人権理事会では国際人権団体などが自由に発言、活動でき、議事の透明性も高い。国際社会でアピールする場としては理想的ともいえ、2018年にはアラブ諸国がイスラエル批判を自由に繰り広げたので、アメリカのトランプ大統領は人権理を離脱した。その後、バイデン政権では復帰している。2022年、ロシアがウクライナを侵攻し、大規模な人権侵害がおきると、国連総会がロシアを人権理事会メンバーから外し、事実上追放した。それは懲罰の意味に加え、人権理でロシアがプロパガンダを一方的に拡げることを阻止する狙いがあったともいえる。<小林義久『国連安保理とウクライナ問題』2022 ちくま新書 p.224-225>
2018年は、世界人権宣言が採択されてから、70年目の節目の年とった。
国際連合憲章では前文、第1条などで基本的人権の尊重をくりかえし謳っていたが、その具体的な規定は書いていたため、発足と同時に人権委員会で「国連人権憲章」の制定に向けて検討が開始された。マグナ=カルタ、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言といった歴史的遺産を継承しながら慎重な審議が進んだが、前米大統領フランクリン=ローズヴェルトの未亡人エレノアが委員長として異常な努力を払い、18ヶ月のスピードで原案を作成した。<高木八束他編『人権宣言集』1957 岩波文庫 p.400 高野雄一の解説>
内容とその意義
前文以下30条にわたって、個人の諸種の基本的自由、さらに労働権、その他経済的、社会的、文化的な面における生存権的権利を、今日の各国の進歩的な憲法における人権保障の規定のように細かく規定している。条約のような拘束力はないが、人権保障の標準を示したものとして大きな意義がある。世界人権デー 世界人権宣言採択40周年目にあたる1988年に、国連総会はこれを記念し、人権尊重をさらに促進するため、1948年に国連総会で採択された12月10日を世界人権デーとし各種記念行事を催すこと、人権確保のための公的機関設立を促進し、人権に関する教育活動を推進する等を定めた。
その後の国際人権諸条約の成立
国際連合が1948年に世界人権宣言を採択したのは、第二次世界大戦とそれ以前の各国における多くの人権侵害、とりわけナチスドイツによるユダヤ人排斥の事実を踏まえ、人権の尊重を通して国際間の平和を樹立することをめざすものであった。第二次世界大戦後も、東西冷戦の渦中での双方の社会での反体制運動に対する抑圧や、民族独立運動に対する抑圧のなかで人権蹂躙が横行した。また冷戦後の新たな民族紛争、宗教対立も多くの人権抑圧をもたらしている。さらに、現在では貧困の拡大、女性や子供、障害者などの弱者、性的少数者などへの差別が問題化している。国際人権規約 世界人権宣言の理念を具体的な国際条約として、締結国の遵守義務を負わせたのが、1966年に国連総会で採択された国際人権規約であった。これは社会権規約と自由権規約の二部と附属する選択議定書から成り、細部にわたり人権擁護とその発展を促す国際条約であった。日本は1979年に批准(一部留保在り。選択議定書の個別通報制度と死刑廃止規定は批准していない)した。
国連の人権諸条約 その他の国連が世界人権宣言の精神を維持発展させるために採択した人権条約には次のものがある。
・結社の自由及び団結権の保護に関する条約(1950年発効。日本批准は65年)
・難民の地位に関する条約(1954年発効。日本は81年に加盟)
・女性差別撤廃条約(1979年総会で採択。日本は85年に批准)
・子どもの権利に関する条約(1989年総会で採択。日本は94年に批准)
国際連合人権理事会の設立
世界人権宣言に基づく人権確保のための公的機関は、従来、国際連合人権委員会が担ってきたが、2006年3月15日、国連総会で新たに「国際連合人権理事会」(UNHRC)の設立が、賛成170、反対4、棄権3で採決された。これは2005年の世界首脳サミット(国連特別首脳会議)で勧告されたもので、旧人権委員会に比べ、国連総会が全理事国を直接選挙で選出すること、会期が年間6週間から10週間以上となったこと、加盟国すべての人権の状況が定期的に審査されることなど、より効果ある活動が期待されている。アメリカは人権理事会の設立は望んでいるが、交渉によって生じた妥協を嫌い、反対票を投じた。<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.22>人権理事会の活動 人権理事会はジュネーヴの国連欧州本部で年に最低3回会合を開き、決議に拘束力はないものの、国連加盟国の人権状況を監視、深刻な人権芯がある場合、勧告などで改善を求めることができる。理事国は47カ国で、地理的に配分されるが、選ばれるには全加盟国の過半数の票が必要だ。
人権理事会では国際人権団体などが自由に発言、活動でき、議事の透明性も高い。国際社会でアピールする場としては理想的ともいえ、2018年にはアラブ諸国がイスラエル批判を自由に繰り広げたので、アメリカのトランプ大統領は人権理を離脱した。その後、バイデン政権では復帰している。2022年、ロシアがウクライナを侵攻し、大規模な人権侵害がおきると、国連総会がロシアを人権理事会メンバーから外し、事実上追放した。それは懲罰の意味に加え、人権理でロシアがプロパガンダを一方的に拡げることを阻止する狙いがあったともいえる。<小林義久『国連安保理とウクライナ問題』2022 ちくま新書 p.224-225>