第二次世界大戦
1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で開始。41年、6月独ソ戦、12月太平洋戦争が開始され、世界戦争に拡大した。基本的には連合国と枢軸国の二陣営による世界戦争。42年中頃から枢軸側の後退が始まり、43年7月にイタリア、45年5月にドイツ、8月に日本が降伏して終結した。
あしかけ8年に及ぶ第二次世界大戦は複雑な展開をしたが、およその主な段階は次のようにまとめることができる。
第1期:東ヨーロッパにおける戦争
1939年8月にドイツのヒトラーは、スターリンのソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した上で、1939年9月1日、ポーランドに侵入、「電撃戦」を展開した。ほぼ同時の1939年9月17日にはソ連もポーランドに侵攻して東半分を制圧し、さらにフィンランド・バルト三国などを併合した。イギリス・フランスは同盟関係にあるポーランドにドイツが侵攻したことから宣戦布告したが、すぐに援軍を派遣することなく、西ヨーロッパでは「奇妙な戦争」といわれるにらみ合いが続いた。1939年12月には国際連盟はソ連=フィンランド戦争を理由に、ソ連を除名処分にした。この段階ではイギリス・フランスはドイツの動きだけでなくソ連の動きを強く警戒していたと思われる。ノモンハンでの日ソ戦争 アジアでは日中戦争が継続しており、日本軍は満州国の防衛と広大な中国戦線の維持が困難になっていた。状況を打開するきっかけとして満州とモンゴルの国境で1939年5月に日中両軍が衝突してノモンハン事件が起こった。この実態としては戦争である衝突は、双方に大きな犠牲が生じたが、関東軍はソ連軍の機械化部隊に対する恐怖心が植え付けられた。ノモンハンの衝突が休戦となったとほぼ同時の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が開戦となり、ソ連軍もポーランドを東側から侵略する行動を起こした。ノモンハンでの日ソ戦争は第一次世界大戦直前のことで、その範疇には入らないが、日ソ両軍とも戦車や飛行機による大規模な機械化部隊による戦闘を経験したことにより、第二次世界大戦の前哨戦の意味があった。
第2期:西ヨーロッパでの戦争
1940年4月、ドイツは西部方面でも侵攻を開始、デンマーク・ノルウェー侵攻についでオランダ・ベルギーに侵攻し、フランスに迫った。この段階でムッソリーニ政権下のイタリアがドイツ側に参戦した。ドイツ軍は6月にパリに到達して1940年6月、フランスを降伏させ、フランスはヴィシーに親独政権が成立した。イギリスでは5月にチャーチル首相に代わり積極的にドイツ軍と戦う姿勢を示したが、すでにフランスの北部のドイツ軍におさえられていたため1940年6月4日、ダンケルクから撤退し、本土防衛に全力をあげることになった。ヒトラーは大陸を抑押さえたものの、ドーバーを越えることは困難とみて、イギリス本土への激しい空爆(バトルオブブリテン)を開始した。イギリスはチャーチルのもと激しい空爆に耐えてドイツ軍の上陸を許さなかった。
日中戦争の膠着化 日中戦争では、日本軍は重慶の蔣介石政権を動揺させるため、1940年3月、蔣介石と対立していた汪兆銘をに南京「国民政府」を樹立させて有利な講和を図り、重慶に対しては1940年5月から激しい重慶爆撃を加えた。しかし、援蔣ルートによって維持された蔣介石を屈服させることは出来なかった。
日独伊三国同盟結成 長期化する日中戦争を打開するため、日本軍はヨーロッパ戦線でのフランスの降伏に乗じ、1940年9月、フランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行し、イギリス、アメリカとの対立が深まった。同1940年9月27日、日独伊三国同盟が結成され、日本はアメリカを仮想敵国とすることを明確にした。 → 日本と第二次世界大戦
第3期:独ソ戦と太平洋戦争の開始
アメリカは中立を維持していたがファシズムの強大化に危機感を抱き、1941年3月には武器貸与法を成立させ、イギリス支援を明確にした。同年4月、ヒトラーは方向を転じて、バルカン侵攻を開始、さらに1941年6月22日に独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)して独ソ戦が始まった。1941年8月9日、F=ローズヴェルトとチャーチルは大西洋憲章を発表して、ファシズム国家に対する戦いという戦争目的で一致し、戦後の国際平和機構の再建で合意した。アメリカは正式には参戦はしていなかったが、武器や軍需物資をイギリスだけでなくソ連にも供給し、事実上の参戦状態となっていた。
一方のアジアでは、日本は日中戦争の打開のため、大東亜共栄圏構想を打ち出し、1941年4月に日ソ中立条約を締結した上で、6月の独ソ戦勃発を受け、1941年7月、南部仏印進駐を実行、アメリカ・イギリスとの利害の対立は決定的になった。
太平洋戦争とアメリカの参戦 4月から断続的に続けられた日米交渉も行きづまり、日本は対英米開戦を決定し、1941年12月8日に真珠湾攻撃を実行して太平洋戦争が始まった。同時にイギリス領マレー半島占領を敢行した。これによってアメリカ合衆国の参戦の大義名分が与えられ、F=ルーズフェルトは直ちに議会に参戦の提案を行い、可決された。ここに連合国陣営と枢軸国陣営による世界大戦に拡大した。
日本軍は東南アジアに急速に戦果を拡大、香港、マレー半島、マニラ、シンガポールを占領、さらにインドネシア・ビルマに侵攻し、占領地に軍政を敷いていった。
第4期:連合国軍の反撃開始
1942年1月1日、連合国26ヵ国は連合国共同宣言を発表して、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリアなど、アジアにおける日本のファシズム国家の枢軸国に対するこの戦争での、個別の講和を禁止するなど、態勢を整えた。ヨーロッパではドイツ軍がソ連の中枢、モスクワ・レニングラードに向かって進軍、太平洋では日本軍が広範囲に戦線を拡大していったが、次第の戦況は転換点を迎えつつあった。1942年6月、太平洋ではミッドウェー海戦でアメリカ海軍が勝利、日本海軍は太平洋での主導権を失い、戦局は大きく転換した。1943年2月 スターリングラードとガダルカナル ヨーロッパでは連合軍によるドイツ空爆が始まり、11月には連合軍がアフリカに上陸して反撃が開始された。ドイツ軍は1942年9月からスターリングラードの戦いを開始したが、1943年2月2日、ついに包囲戦に失敗して降伏したことを期に東部戦線でも後退を始め、連合国側の態勢が整うに伴って不利な戦いを強いられることとなった。その前日の1943年2月1日には太平洋戦争で日本軍がガダルカナル撤退を開始しており、ここが転換点となった。
反撃に転換した連合軍は、同年7月にイタリアのシチリア島に上陸、イタリア国内ではムッソリーニ政権が倒れ1943年9月、バドリオ内閣が降伏を表明した。ドイツ軍はイタリアに進駐して9月にイタリア半島に上陸した連合軍を迎え撃ち、イタリアを南北に二分する激戦が続いたが、連合国側の勝利が濃厚になっていった。
戦後構想の構築開始 1943年11月、連合国はチャーチル・フランクリン=ローズヴェルト・蔣介石の首脳部はカイロ会談を行って対日戦争の戦後処理について協議し、さらに引き続いて蔣介石の代わりにスターリンが参加してテヘラン会談を開催してヨーロッパ戦線の終結をどう進めるか花知った。
第5期:連合国の勝利
エルベ川で握手する米兵とソ連兵
ヤルタ会談 この間、連合国側では、ブレトン=ウッズ会議・ダンバートン=オークス会議が立て続けに開催され、戦後の国際社会の平和維持や経済協力についての態勢づくりが進んだ。それらを受けて1945年2月4日、連合国軍首脳はヤルタ会談でソ連の対日戦での参戦を決め、戦後処理で合意した。ドイツでは西から迫ったアメリカ・イギリス軍と東から迫ったソ連軍が4月25日にはエルベ川で邂逅し、米兵とソ連兵が握手し「エルベの誓い」と言われる不戦の誓いをした。
ドイツと日本の敗戦 ベルリンはソ連軍が先着して包囲し、首相官邸地下壕にこもって抵抗を続けたが、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ベルリンは陥落して1945年5月8日に正式にドイツが無条件降伏してヨーロッパの戦争は終わった。
アジアでは日本軍の抵抗が続いたが、4~6月は沖縄戦、5月の東京大空襲と焦土化が進み、1945年7月、連合国はポツダム会談で日本に無条件降伏を勧告。8月に広島・長崎への原爆投下とソ連の対日参戦が続き、ついに1945年8月14日に日本は昭和天皇との御前会議で日本の無条件降伏(国民への発表は8月15日)して大戦は終結した。正式には1945年9月2日に、東京湾の戦艦ミズーリの艦上で、日本政府が連合国代表に対する降伏文書に署名したので、国際的にはその日が戦争の終結日とされている。
大戦の終結日 ヨーロッパ諸国では、ドイツが降伏した5月8日を「ヨーロッパ戦勝記念日」 Victory in Europe Day(VE Day)としている。ロシアでは、旧ソ連が独自に5月9日を「大祖国戦争勝利の日」(休日)とし、ロシアも継続している。
アジア太平洋地域では、日本では一般に8月15日が「終戦記念日」と認識されているが、韓国ではそれは「光復節(祖国解放の日)」である。ただし、世界的には、日本が降伏文書に署名した9月2日が第二次世界大戦終結の日とされている。この場合もソ連は独自に9月3日を「対軍国主義日本戦勝記念日」としていたが、2010年から諸外国に合わせて、9月2日を「第二次世界大戦終結の日」(休日ではない祭日)とする法改正を行った。<朝日新聞 2010年9月3日記事>それぞれ時刻にとって都合の良い日を記念日にしており、国際的に同一日を大戦終結の日とするには至っていない。
戦線の拡大
第二次世界大戦での戦線の拡大。
西部戦線
第二次世界大戦は1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で始まり、イギリス・フランスもただちにドイツに対して宣戦布告をおこなった。とろが、ドイツ軍のポーランド攻撃が続く間、イギリス・フランスはポーランドを救援する軍事行動をとらず、ドイツの西側の防御線で静観を続けた。このような、依然として宥和政策を引きずっているようなイギリス・フランスの姿勢から、西部戦線は当初、奇妙な戦争といわれた。ドイツ軍は1940年4月にデンマーク・ノルウェー侵攻、さらに5月10日にオランダ・ベルギーに侵攻し、両国を降服させた。イギリス・フランスの連合軍は後退し、5月から6月にかけて、ドーヴァー海峡に面したダンケルクからからくも撤退した。
6月5日にはついにフランスに向けて進撃を開始した。兵力的にはフランスがまさり、ドイツ国境に「マジノ線」という防衛ラインを敷いていたが、ドイツ軍はそれを迂回してベルギーを通過したため、フランス軍は側面を破られ壊滅的な打撃を受けた。6月10日にはイタリアが英仏に対して宣戦布告し、南仏に侵入を開始した。早くも6月14日にはドイツ軍がパリを占領、ついに6月22日に独仏休戦協定を締結しフランスは降伏した。
以後5年間、フランスは北部をドイツ軍に占領され、ヴィシーに移った政府がドイツ軍と講和交渉を行い、抵抗を主張するド=ゴールはロンドンに亡命し、レジスタンス運動を支援することとなった。8月からドイツ軍はイギリスへの空爆を強化し、上陸作戦の実施を探ったが、イギリス空軍の反撃を受けて9月15日に上陸作戦を延期した。大西洋の海上では、ドイツ海軍は装備においてイギリスより数段劣勢だったので、多数の潜水艦(Uボート)を建造して対抗し、イギリスの輸送船団に大きな損害を与えた。
北アフリカ戦線
第二次世界大戦で、1940年6月に参戦したイタリアのねらいは地中海の支配と北アフリカの制覇であった。イタリア軍は北アフリカ上陸後、エジプトをめざしたが、イギリス軍の反撃を受けて失敗を重ねたので、ドイツは1941年3月ロンメル元帥指揮のアフリカ軍団を派遣した。ロンメル軍団はイギリス軍を圧倒し、エジプトまで迫った。しかし、アメリカからの大量の武器支援を受けたイギリス軍が、1942年10月23日のエル=アラメインの戦闘でドイツ軍を破り、戦局を転換させた。11月にはアルジェリアとモロッコにアメリカ軍が上陸し、補給に苦しむイタリア・ドイツ連合軍を追いつめ、43年5月にイタリア・ドイツ連合軍が降服して北アフリカ戦線での戦闘は終わった。Episode 「砂漠の狐」ロンメル元帥
この戦線でドイツ軍の指揮を執ったロンメルは「砂漠の狐」の異名をとり、イギリス軍に恐れられた。ドイツに戻ったロンメルは、連合軍のノルマンディー上陸作戦大戦を迎え撃つ司令官に任命され、激しい抵抗でアメリカ軍に大きな損害を与えた。彼は大戦末期にヒトラー暗殺計画に連座したとして自殺に追い込まれた。独ソ戦と日中戦争、太平洋戦争は別項として扱う。
第二次世界大戦の結果と影響
第二次世界大戦は、連合国の完全な勝利となって終わったが、膨大な人的被害と産業、文化遺産を破壊する人類史で最も深刻で最悪の戦争被害をもたらした。また現代世界はこの大戦の戦後国際社会として成立した。
第二次世界大戦の犠牲者
第二次世界大戦の犠牲者は、教科書では「軍人・民間人をあわせて数千万人にのぼる」(山川出版社・詳説世界史)、「この戦争での軍人戦死者は1500万人、一般市民の戦争犠牲者は3800万人」(実教出版・世界史B)といずれもおおざっぱであるが、あるデータ(アメリカ統計局1956)では、・直接死者 2500万人
・間接死者 1500万人
・負傷者 3400万人
・戦費 1兆1500億ドル
・物的損害 4500億ドル
となっている。<三野正洋・田岡俊次・深川孝行『20世紀の戦争』1995 朝日ソノラマ p.55>
ソ連とドイツの犠牲者 第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出したのは、ソ連だった。ソ連は兵員1360万、民間人600万をかぞえた。兵員は戦士ばかりでなく、ドイツ軍の捕虜となって強制収容所に送られ、害させられたもの300万を含んでいる。ポーランドでは兵員60万、民間人はユダヤ人300万、その他が300万におよんでいる。ドイツ軍は戦死者・行方不明者が500万、負傷者600万、民間人の死者が50万であった。そのうち最後の一年半の死者はその前の4年間の2倍以上に上っている。日本での盧溝橋事件から1945年8月までの戦死者は194万であった。<坂井榮八郎『物語ドイツの歴史』2003 岩波新書>
第二次世界大戦のもたらしたこと。
世界史的には、次の5点をあげることが出来よう。1.連合国側の完全な勝利。ファシズム国家の敗北。
2.米ソ二大国の強大化と、東西冷戦の開始。
3.中国などのアジア諸民族の自立。
4.核兵器の登場。
5.国際連合の発足。
これらの他、戦勝国でも敗戦国でも、戦争によって大きな変化が生じた。国際社会の枠組みも大きく転換した。 → 連合国の戦後処理構想