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ドイツの東西分断

第二次世界大戦後、4国共同管理下におかれていたドイツが、1948年以来、東西に地域に分断され、二つの国家が形成される。

4国分割占領と共同管理構想

 ドイツ降伏前の1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の三首脳のヤルタ会談で戦後のドイツをフランスを加えた4国で分割管理する基本方針が決定された。5月8日のナチス=ドイツの降伏後、ベルリンに進駐した4国司令官によって、6月「四国宣言」がだされ、具体的なドイツ全域の分割区域と、ベルリンの分割管理が示され、7月のポツダム会談の結果、8月2日にポツダム協定が成立し、完全な非ナチ化、民主化がなされるまでドイツの4カ国分割占領が確定した。この分割占領はあくまで暫定的で将来のドイツの主権回復を想定していたので、連合国4ヵ国は共同の管理機関としてベルリンに管理理事会を設置して、調整されることになった。

東西冷戦とドイツ問題

 しかし西側の米英仏占領地域では自由主義経済を基本とする経済復興をめざし、ソ連占領地域では社会主義化をめざす措置が執られたため、東西の違いが問題となっていった。1947年にアメリカがトルーマン=ドクトリンを発表し、ソ連に対する封じ込め政策を明確にし、ヨーロッパ諸国へのテコ入れを図ってマーシャル=プランを具体化したことから東西冷戦は深刻となり、このドイツ問題も主要な争点となっていった。1948年6月の西側の通貨改革強行を機にソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときからベルリンの4国管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が事実上確定してしまった。

東西ドイツの分断

 翌1949年9月7日に西側管理地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、対抗する形で同年10月7日にソ連管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に別個の国家権力が存在する分断国家となってしまった。
 東西ドイツの両国は、西ドイツが資本主義市場経済を再建し、東ドイツは社会主義計画経済を目指すというまったく違った経済システムをとり、それぞれがイデオロギー(精神的指導理念)において相手を受け入れられないという、抜き差しならない対立関係にあり、しかもそれぞれ西にはアメリカ合衆国、東にはソ連という大国が控えているという世界を二分する対立の最前線に立つこととなった。
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