イタリア共産党
1921年結成されたイタリアのマルクス主義政党。戦後、1970年代にはユーロ=コミュニズムを提唱した。
1921年にアントニオ=グラムシやトリアッティらイタリア社会党左派が、社会党から分裂して結成した。20年には北イタリアのストライキを指導し党勢を強めたが、危機感を持った資本家階級の支持を受けたファシスト党が急速に台頭すると弾圧を受けるようになった。第二次大戦中はファシスト党およびナチスの支配に対するレジスタンスを組織し抵抗を続けた。
グラムシはロシア革命を実現したマルクス主義から出発したが、1923年に発足間もないイタリア共産党代表としてモスクワに赴き、コミンテルン執行委員として1年半ほど滞在する間、レーニンやトロツキーとも活動した。その体験からグラムシはロシア革命の戦略と戦術(ボリシェヴィキ独裁と暴力革命)は西ヨーロッパではそのまま適用できないと考えるようになった。イタリアに戻ってからは彼の思想はイタリア共産党主流派と対立し、獄中でも同志から孤立せざるを得なかった。西欧諸国の革命が次々と失敗し、ファシズムが台頭していく過程を獄中で見守りながら、獄中手記で、社会主義を実現する道として左翼政党や従来型の産業別労働組合ではなく、大衆のイニシアティブ(文化闘争)に期待する新たな思想を深め「ヘゲモニー」などの新しい概念を生みだしていった。戦後、その思想は構造改革論としてイタリアだけでなく西欧諸国の左派に強い影響を及ぼし、次第にソ連のスターリン主義と決別して大衆運動を基盤としたユーロコミュニズムの思想へとつながっていった。
アントニオ=グラムシ
グラムシ Gramsci 1891-1937 はサルデーニャ島生まれ。身体に障害があったため、第一次大戦の徴兵を免れた。労働組合運動から社会党の活動に参加し、1920年の北イタリアのストライキを指導、21年にイタリア共産党の創設に加わった。24年には機関紙「ウニタ」の編集に従事しながら国会議員に当籤した。しかし、26年にムッソリーニのファシスト政権に逮捕され、長い獄中生活を送り、37年に刑期満了の1週間後に脳溢血によって死去した。第二次大戦後、彼が獄中で書いた大量の手記が発表され、その独自の革命路線は、戦後のイタリア共産党の構造改革路線に大きな影響を与えた。グラムシはロシア革命を実現したマルクス主義から出発したが、1923年に発足間もないイタリア共産党代表としてモスクワに赴き、コミンテルン執行委員として1年半ほど滞在する間、レーニンやトロツキーとも活動した。その体験からグラムシはロシア革命の戦略と戦術(ボリシェヴィキ独裁と暴力革命)は西ヨーロッパではそのまま適用できないと考えるようになった。イタリアに戻ってからは彼の思想はイタリア共産党主流派と対立し、獄中でも同志から孤立せざるを得なかった。西欧諸国の革命が次々と失敗し、ファシズムが台頭していく過程を獄中で見守りながら、獄中手記で、社会主義を実現する道として左翼政党や従来型の産業別労働組合ではなく、大衆のイニシアティブ(文化闘争)に期待する新たな思想を深め「ヘゲモニー」などの新しい概念を生みだしていった。戦後、その思想は構造改革論としてイタリアだけでなく西欧諸国の左派に強い影響を及ぼし、次第にソ連のスターリン主義と決別して大衆運動を基盤としたユーロコミュニズムの思想へとつながっていった。
戦後のイタリア共産党
1944年にに亡命先のモスクワから戻ったトリアッティ(トリアッチ)は、反ファシズムの立場でイタリア再建のために、戦後のイタリアで1945~46年の連立内閣に参加した。トリアッティの指導するイタリア共産党は1947年にはコミンフォルムに参加したが、一方で保守政党のキリスト教民主党の支持基盤である教会組織に対抗できる民間組織の育成に努め、そのなかでソ連とは一線を画した柔軟路線を歩むようになり、構造改革論を展開した。ユーロコミュニズム
1973年には書記長ベルリングエルはいわゆる「ユーロ=コミュミズム」といわれる現実路線をすすめ、カトリック勢力との「歴史的妥協」をなしとげ、キリスト教民主党などとの大連立内閣を模索したが失敗に終わり、91年のソ連の解体の余波によってイタリア共産党も分裂し衰退した。