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共産党

主としてマルクス主義を標榜し、資本主義の打倒、労働者階級(プロレタリア)の解放と理想社会としての共産主義社会の実現をめざす政党。1848年のマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』を源流とし、レーニンの指導するロシアのボリシェヴィキが1918年に共産党と称して以来、各国で結成された。1919年、国際共産主義運動の指導機関としてコミンテルンが組織されると、20年代に入り、世界各国、地域でコミンテルン支部としての共産党が結成されていった。第二次世界大戦後になるとソ連共産党主導に対する反発から独自の方針をとる共産党が出現し、中ソ対立などで共産党の対立が深まるとともに、ヨーロッパの共産党が議会制民主主義政党へと転換するなど、大きく変質している。

 共産主義政党と言っても、国によって、あるいは成立過程の違いによってその名称には異なっている。一般にマルクス主義を発展させた共産主義(Communism)の実現をめざす政党が共産党と名のるケースが多いが、その名称には「社会主義」や「労働」あるいは「労働者」「労農」などをつける場合も多い。また、社会主義・社会民主主義政党との違いにも注意する必要がある。各国の共産党のなかで重要な動きをまとめると次のようになる。

共産党の結成

 1917年の十月革命(十一月革命)で権力を握ったレーニンの主導するボリシェヴィキは、世界で最初の共産主義を目指す政権を樹立した。1918年3月6日にロシア社会民主労働党の多数派であるボリシェヴィキロシア共産党に改称したのが共産党の始まりで、同年末にドイツ共産党など各国に共産党が生まれた。その理念は1848年のマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』に源流がある。実質的な出発点は、レーニンがボリシェヴィキを組織した1903年とされている。

レーニンとコミンテルン

 レーニンのボリシェヴィズムは共産党を大衆政党ではなく共産主義革命の最前線となる革命家集団と位置づけたので厳しい統制と民主集中制がとられた。ついで1919年3月2日にレーニンの指導で設立されたコミンテルン世界共産党ともいわれ、国境を越えた国際共産主義運動を展開し、各国共産党はコミンテルン支部の性格も持っていた。
 1922年に正式にソ連邦が発足、ロシア共産党はソ連共産党となった。しかし、ソ連共産党は1924年のレーニンの死後、世界革命論を主張するトロツキーを失脚させ、一国社会主義論をとるスターリンが権力を握った(1928年)。スターリンは一国社会主義の路線によりソ連の社会主義建設に向けて、工業化と農村の集団化を強行する過程で次第に独裁色を強めた。レーニン、トロツキーに見られた国際共産主義運動は変質し、各国共産党はコミンテルンを通じてソ連共産党に従属する傾向が強まった。スターリンに敵対した多くの共産党員は「粛清」された。

ヨーロッパ・アメリカの共産党

 ドイツ共産党は第一次世界大戦中の1916年にドイツ社会民主党が戦争協力方針に転換したことに反対したローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらによって結成されたスパルタクス団を母体として、大戦終結後の1918年12月末に結成され、翌1919年1月にドイツ革命の渦中で蜂起を試みたが弾圧され、弱体化した。ヴァイマル共和国の中で勢力を挽回したが、ソ連共産党の強い影響を受けるようになり、社会民主主義をとなえる社会民主党とは革命路線の違いから対立した。世界恐慌によってドイツ経済が困窮におちいったことを背景に共産党は急速に勢力を強めたが、一方で反共産主義を掲げるナチスが資本家や保守的な層の支持を受けて台頭した。
 フランス共産党1920年12月フランス社会党がコミンテルン加盟問題で分裂し、多数派が共産党を結成、第3インターナショナル(コミンテルン)・フランス支部として活動した。1930年代には反ファシズム統一戦線を結成、ファシズムの台頭と戦った。
 イタリア共産党は1921年、イタリア社会党が第3インターナショナル加盟を巡って分裂し、左派が結成した。翌年、ファシスト党のムッソリーニ政権が成立、共産党は非合法とされ地下活動に入った。
 なお、イギリスでもイギリス共産党が結成(1920年)されたが、労働組合は労働党(マルクス主義政党ではない。議会政治の中で労働者の地位向上を目指す穏健派)ににぎられていて大きな勢力にならなかった。
 またアメリカでもロシア革命の影響を受けて1919年にアメリカ社会党から親ボリシェヴィキ派が分裂してアメリカ共産党を結成し、コミンテルンに加盟して活動し、世界恐慌期に貧農や都市の下層労働者の中に支持者を得たが大衆的な組織となる前に弾圧を受けた。 → アメリカの政党政治

アジアの共産党

 アジアの共産主義運動はコミンテルンの指導を受けて組織された。最初の共産党は1920年5月結成のインドネシア共産党で、同年10月にはタシケントでインド共産党(インド国内では25年から活動)が生まれた。翌1921年7月に中国共産党が陳独秀を中心に上海で発足した。日本共産党は1922年に堺利彦、山川均らによって結成されたがただちに非合法とされ、すぐに地下に潜った。1925年には普通選挙法が制定され、それによって行われた選挙で共産党系の無産政党が進出すると、治安維持法による弾圧が強化され、1928年の3・15事件で多くの地下の共産党員が逮捕された。これによって戦前の日本の共産党活動は実質的に抑えこまれた。
 フランス植民地であったインドシナでは1930年2月にホーチミンが中心となってインドシナ共産党が結成され、後に1951年からベトナム労働党と改称し、ベトナム戦争後の1976年にベトナム共産党となって現在に至っている。

第二次世界大戦とコミンテルン運動

 1929年、世界恐慌が起こり、労働者の経済状態が悪化したことに伴い、ドイツ共産党を始めフランス共産党イタリア共産党がそれぞれ勢力を伸ばすと、資本家や保守的大衆は共産党を危険視して、その対極にあるファシズムを擁護したため、その台頭がもたらされた。
 1933年にはドイツでヒトラーのナチスが政権を奪取し、ドイツ共産党は非合法とされてしまった。1935年にはコミンテルン第7回大会は人民戦線戦術に転換し、社会主義勢力やブルジョワ自由主義政党との連帯を打ち出し、ヨーロッパではフランスやスペインに人民戦線内閣が生まれ、共産党も協力する態勢をとった。しかし、1936年から始まったスペイン戦争では人民戦線内部で共産党とアナーキスト派、トロツキー派などの対立があり、フランコ軍に敗れる結果となった。
 中国での中国共産党と国民党の国共合作(第1次)が、1927年の蔣介石による上海クーデタで崩壊したが、1931年の満州事変からはじまった日本軍の侵略に対して次第にその復活を求める声が強まり、1937年の日中戦争勃発に伴い国共合作(第2次)が成立した。
独ソ不可侵条約の衝撃 しかし、1939年、ソ連共産党のスターリンがヒトラーとの間に独ソ不可侵条約を締結したことは、共産党がまったく世界観の違うファシズムと手を結んだことで、各国の共産党に強い衝撃を与え、支持者にも失望をもたらし、統一戦線は混乱、共産党と人民戦線派が国民的支持を拡大する大きな障害となった。
コミンテルンの解散 ヒトラー・ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、スターリン・ソ連も東からポーランドに侵攻、分割に動いた。しかり独ソの提携は長くは続かなかった。ヒトラーはフランス制圧に成功したもののイギリス侵攻に失敗し、目標をバルカン半島など東方に転じると、ソ連との関係は破綻し、1941年6月、独ソ不可侵条約は破棄されて独ソ戦が始まる。そのためソ連は英米との提携に転じ、1942年1月、連合国に加わり、1943年6月には米英に協力する姿勢を明らかにするためコミンテルンの解散に踏み切った。

戦後の共産党

 第二次世界大戦後は、ドイツ支配から解放される際にソ連の力が大きかった東ヨーロッパ諸国では共産党政権が次々と誕生し、ソ連はコミンフォルムを結成したそれを統制しようとした。また東ヨーロッパ諸国は、ソ連がマーシャル=プランに対抗して設けたコメコンに加わり、いずれもソ連共産党の指導を受け入れる立場となり、コメコンでの経済的結びつきを強めて東ヨーロッパ社会主義圏を形成、さらに1955年にはワルシャワ条約機構が組織されて東西冷戦時代の東側陣営を構成することとなった。
 共産党一党支配を実現した諸国は資本主義社会に対抗して東側世界を形成し、その中でソ連共産党は官僚的機構が巨大化するとともに、スターリンに対する個人崇拝という本来の共産主義とは違った面が強くなっていった。なお、共産党は東ドイツでは社会主義統一党、ポーランドでは統一労働者党、ブルガリア、ルーマニアでは労働者党、アルバニアでは労働党などと称した。東欧の中にあってユーゴスラヴィア共産党はソ連と対立したコミンフォルムから除名され、独自の社会主義路線を構築した。
 アメリカでは、戦後の冷戦期の特に1950年代に、共産主義を危険視するマッカーシズムの嵐が起こり、自由な言論活動が厳しく弾圧される中でアメリカ共産党は衰退を余儀なくされた。

中華人民共和国の成立

 中国共産党は国共合作のもと八路軍などの独自の軍隊で日本軍と戦い、1945年に日中戦争が終わると国民党との国共内戦(第2次)が再開され、激しい内戦が続いた。朝鮮では1945年に抗日戦で指導権を確立した金日成によって朝鮮労働党が結成された。またアジア各地では日本軍の撤退に伴いインドシナ共産党インドネシア共産党が独立運動の主体となり、ベトナムやインドネシアが独立した。
 1949年、中国共産党が国共内戦で勝利して、中華人民共和国を建設し、ソ連にならぶ共産主義の大国が出現したことは、戦後世界の大きな衝撃として迎えられた。しかしその反面、既存の共産党に対してはソ連共産党の圧力が強まり、次第に各国の共産党の連帯は薄れ、それぞれの地域事情から独自の行動をとる共産党も現れた。

スターリン批判の衝撃

 ソ連のフルシチョフ政権が、1956年からスターリン批判が開始すると、東欧の中にもソ連共産党から距離を置くものが現れたが、それに対してソ連共産党はチェコ事件に見られるような軍事介入をこない、同時に制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)を強調して指導権維持を図った。
 ソ連指導部によるスターリン批判は各国の共産党に大きな衝撃を与えた。忠実にスターリン路線に従属していた共産党員が、今度は排除されることになりその動揺は下部に及んだ。さらに続いたハンガリー事件チェコ事件によって共産主義と民主主義は矛盾するものと捉えられるようになり、各国での共産党員の離党が相次いだ。この事態に困惑した共産党の中には、共産党の名称を変更するものも現れた。70年代の西欧の共産党の中に起こった、議会政治との妥協を図るイタリア共産党などのユーロ=コミュミズムの路線はその現れであり、もはやかつてのようなソ連を指導者とするインターナショナルな共産主義運動はまったく崩壊し、運動は多様化した。

中ソ対立とソ連の解体

 スターリン批判はまた、中ソの共産党の決裂をも生み出した。毛沢東はスターリン批判に同調せず、フルシチョフ路線と決別し、共産党同士の中ソ対立(中ソ論争)が始まった。この中ソ論争に見られる共産主義運動の混迷の中から、中国共産党の毛沢東は個人崇拝を強めるとともに権力の奪還を狙い、文化大革命という混乱を生み出した。ソ連共産党はブレジネフのもとで官僚的体質が硬直化をもたらし、経済の停滞が顕著となっていった。20世紀末にはソ連共産党のゴルバチョフ政権ペレストロイカによって硬直した体制の転換を図ると、東欧社会主義国も一斉に民主化を開始し東欧革命の激変となった。その動きはついにソ連の解体に行き着き、さらにソ連共産党の解党へとつながった。またソ連の消滅に伴う冷戦終結によって、西側各国にも議会政治の中で党勢を伸ばしてきた共産党はいずれも後退を余儀なくされた。現在、共産党として一党独裁の政権を維持しているのは中国共産党、朝鮮労働党、ベトナム共産党、キューバ共産党のみである。

ユーロコミュニズム

 西ヨーロッパ各国の共産党のなかに、ソ連型の教条化、官僚制化した共産主義を脱却して、党内民主化を進め、複数政党制と議会制民主主義を認めようとするユーロコミュニズムという動きがでてきた。1973年、イタリア共産党書記長ベルリングェルは「歴史的妥協」と称してカトリック勢力(キリスト教民主党)との提携を打ち出し、さらに1975年にはスペイン共産党書記長カリリョと政策転換で合意し、77年にはフランス共産党もそれに加わった。社会民主主義とは一線を画し、階級政党としての使命を否定はしていないが、暴力革命や一党独裁制の主張はみられなくなった。イタリア共産党は91年に党名を「左翼民主党」に改めた。

中国共産党の変質

 中国共産党は2021年に結党100周年を迎えた。しかし文化大革命の大混乱を経て、1980年代には鄧小平政権による改革開放政策を導入、さらに天安門事件(第2次)で民主化を抑え込んでからは社会主義市場経済を掲げるようになった。依然としてマルクス主義を掲げているものの、党はプロレタリアートを代表する階級政党という性格をすでに捨て去っており、共産党という党名からその本質はずれてしまっている。北朝鮮の朝鮮労働党もマルクス・レーニン主義を謳っているものの事実上、金王朝化しており、個人崇拝の党(労働党自身はそうは言わないが)となっている。ベトナム共産党(1976年にベトナム労働党から改称)も政権は維持しているが、ドイモイといわれる改革開放に転換している。

インドネシア共産党の浮沈

 アジアで最も激しく変動したのはインドネシア共産党であった。アジアで最初に結党された共産党であり、戦前の独立を目指す蜂起を指導し、戦後もオランダからの完全独立を主張して弾圧され壊滅的打撃を被ったが、戦後は民族主義の要求を取り入れて大衆化し、300万以上の党員を擁するアジア最大の共産主義政党となった。当時、政治的基盤を持たなかったスカルノは共産党勢力の抱き込みを図り、国民党とイスラーム教勢力との三者の協力体制であるナサコムをつくりあげ、共産党もそれに応えて体制を支えて与党化するまでになった。しかし、スカルノの指導力の衰えとともに国内の反共勢力である軍部、イスラーム勢力が有力となると1965年9月30日九・三〇事件で壊滅させられた。この事件は軍をおさえたスハルト将軍によって共産党のクーデタ未遂事件と断定され、共産党員に対する大規模な弾圧が行われ、党は壊滅した。スハルト政権の下では共産党は非合法とされ、現在もその状態が続いている。マレーシアやシンガポール、韓国などの開発独裁国家でも同様に共産党は壊滅させられたか、非合法団体に追いやられている。

日本の共産党

 日本共産党は1922年、コミンテルン日本支部として発足したがただちに非合法化された。党員は無産政党に加わって活動し、1928年の第1回普通選挙では無産政党から8人の当選者を出したが、同年の3・15事件で治安維持法違反を理由とした大弾圧を受けた。翌年の4・16事件で再び弾圧されてほぼ壊滅した。戦後に公然活動を再開したが平和的に革命に移行するか、武装闘争を行うかなどの路線対立、ソ連(コミンフォルム)の干渉、中国共産党政権の成立、朝鮮戦争の勃発に伴うアメリカの対日政策の転換といった激しい情勢の中で、1950年、GHQによる公職追放(レッドパージ)の対象とされ、党も分裂して危機的状況となった。1955年に武装闘争方針を放棄、合法活動に集中し、自主独立路線を採るとの転換を行った。その後、反安保、反基地闘争を続けながら文化大革命を機に中国共産党との協力関係を断ち、独自路線を強めている。現在はマルクス主義(科学的社会主義)は堅持しているものの、議会制民主主義と多党制を容認、選挙で単独の多数派形成を目指していたが、2015年の平和安全法制(戦争法)の成立を危機と捉えて野党共闘を模索し、2021年には初めて立憲民主党などと政策協定を結んで大きな転換をとげた。

参考 社会主義・共産主義・社会民主主義

 社会主義と共産主義の違いは明確な線引きは難しいものの、一般的に、前者は資本主義を克服して労働者の解放を目指す段階であり、政策的には自由競争ではなく計画経済による平等な社会を実現することであり、後者はその次の段階で階級や国家による搾取のない理想社会をめざす思想と言うことができる。社会主義政党と共産主義政党の違いは、源流がマルクス主義にあることは同じであるが、歴史的には、ロシア革命でレーニンが掲げたボリシェヴィズムから生じた政党が共産党であり、従って両者の線引きは暴力革命を認めるかどうかの違いではっきりしていた。しかし現在は暴力革命を肯定することはほぼないので、線引きは曖昧になっている。
 各国で社会党を名乗る政党(例えばフランス社会党)はほぼ社会主義政党であり、現実社会の問題を資本主義の矛盾と捉え、資本による労働者の搾取をなくすことめざすが、その手段としては暴力革命は否定し、議会制民主主義のもと段階的に改良を実現しようという政党である。その中でも温度差があり、比較的資本側に妥協的で議会制民主主義を重視するのが社会民主主義の潮流といえるだろう。かつては改良主義とか修正主義と言われて否定的にとらえられたため、社会党と共産党は歴史的に相容れないとされていたが、現在は違いは無くなっており、むしろ共産党という名称を継承している場合でも、社会民主主義に転じているケースが多く、日本のように老舗の社会党がふるわなくなっている傾向がある。
 イギリスの労働党はマルクス主義政党ではないので注意しよう。労働者の福祉、自由競争の制限(企業公営化)、などを政策の柱に置き、社会民主主義に近い。またドイツの社会民主党は発足時はマルクス主義政党であったが途中で決別し、現在は社会民主主義を標榜している。両者とも保守政党と選挙を通じて競争し、ときどき政権を担当している。かつては社会民主主義は、共産主義からブルジョワの思想であるとして否定され、激しく対立していたが、第一次世界大戦後のファシズムや軍国主義の台頭に対抗するため、人民戦線戦術で協調するようになってから、その違いは薄れている。
 なお、政党の中に〇〇革命党や急進〇〇党などを名のるものは、共産主義政党ではないかと思ってしまう場合があるが、多くは共産党とは違うので注意しよう。ロシアで言えば社会革命党、中国の孫文の中華革命党はいずれも共産主義政党ではない。またフランスのクレマンソーの急進社会党は社会主義政党ではなく、急進的な共和主義を掲げていた。いうまでもなく、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は社会主義や労働者という言葉を入れているが、社会主義に見せかけた反共産主義政党である。このように政党名はその名称に惑わされず、どのような主張で、どのように活動したかを押さえておく必要がある。
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