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中国共産党

現代中国の政権党。1921年の結党から、2021年に100年を迎えた。もともとはマルクス=レーニン主義を奉じるコミンテルン中国支部として結成された。主に農村を拠点に解放区をもうけ、封建的な地主制度を廃止するなどで支持を拡げ、国共内戦と日本との戦争を戦った。1949年中華人民共和国を建国したが、共産党の存在意義は現在も抗日戦を勝利に導いた点に置かれている。朝鮮戦争も大きな試練であったが、共産党はアメリカ帝国主義とともにソ連修正主義と戦うという厳しい国際環境のもとに自らを置き、独自の社会主義建設へと向かった。強力なカリスマ的指導力を持つ毛沢東は、路線が右傾化することに危機感を抱き、1966年から文化大革命を提起し階級闘争と反修正主義を大衆的に強引に進めると、68年後ごろまで大きな混乱に陥った。劉少奇を失権させることには成功したが、林彪事件などの混乱以降、統御不能に陥り、ようやく1976年毛沢東自身の死によって収束に向かった。その後の中国共産党指導部は、鄧小平のもとで文化大革命は毛沢東自身と共産党の誤りであったと総括し、改革開放路線に走り出すが、政治改革などの民主化は認めないという、いびつな国造りを続ける。その矛盾は1989年の第2次天安門事件となって現れ、共産党は民主化運動を徹底して弾圧したものの、国際的非難を強く受けることとなった。中国共産党にとっては大きな難局であったが、鄧小平は南巡講話で更に徹底した開放を働きかけた。共産党が打ち出した理論は社会主義市場経済というものであったが、実質は計画経済や公有制などの社会主義本来のシステムと原理を放棄し、自由競争、金融、株式制度、土地の私有化など、まったく資本主義社会と同様なシステムと原理に切り替えた。ただ異なる点は共産党自身が国営企業に深くかかわって経済をコントロールする点である。このような独裁権力による経済成長のモデルはかつてアジア各地に見られた「開発独裁」といわれる現象と同じであると指摘されている。21世紀に入り、毎年10%の急成長で2012年にはGDP世界二位の経済大国となった。しかしこの間、民主化運動は抑圧され、社会の貧富の差の拡大、環境問題の悪化、民族問題の噴出など、問題が出ている。アメリカとの経済摩擦も取り沙汰されているが、さらに2012年からの習近平政権の下、軍備拡張や海洋進出など周辺諸国へも脅威を与える大国化の動きが顕著になっている。
 中国共産党は、2021年に結党100年を迎え、名称こそ変えていないが、その性格はプロレタリアを解放し、共産社会を目指すという本来の普遍的な目標から離れ、中華民族のナショナリズムを基盤として国家発展と経済成長をめざす国家政党、民族政党、開発政党といった要素が混在する一大政治組織へと変質した。


中国共産党(1)
結党~第2次国共内戦

1921年、陳独秀らによって上海でコミンテルン中国支部として結成された。1924年、ソ連の指示を受け国民党との国共合作に踏み切り帝国主義との戦いを展開したが、1927年の上海事件で決裂、蔣介石による弾圧を受ける。農村を根拠地とした反封建闘争に転換、1931年、瑞金に中華ソビエト臨時政府を樹立したが、毛沢東と親ソ派の対立が生じた。日本の侵略が始まるなか、国民政府軍の攻勢を受けて長征を敢行、その間1935年の遵義会議で毛沢東の主導権が確立し、延安に根拠を移して国民政府軍との内戦指導した。

中国でのマルクス主義の受容

 『新青年』を舞台とした陳独秀李大釗にはじまるが、1919年の五・四運動は中国の革命運動に決定的な意味を持ち、また大きな画期となった。それは中国の現状を、帝国主義による植民地支配と、軍閥による封建的な支配の二重苦にあるものとしてとらえ、それまでの外国に依存した近代化や、軍閥の武力による権力闘争ではもはや救済できない、ということを民衆が自覚したことである。そしてこれを機に中国各地に、民族の独立と社会改革と求める、主として学生と青年による結社が多数現れてくる。

1.中国共産党の結成

 1921年7月、上海で創立大会を開催。党員は57名、委員長には陳独秀がなった。中国共産党の創立はコミンテルンの指導があった。コミンテルンはヨーロッパの革命運動の行き詰まりから、前年7月「民族および植民地問題にかんするテーゼ」を採択し、先進国のプロレタリアートの革命運動を支援することと並んで、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動をも積極的に支援する方針を決定した。その中で、使者を何度か中国に派遣し、新文化運動に参加し、五・四運動の中心となっていた陳独秀李大釗らに共産党結成を働きかけた。その結果各地に共産主義グループが結成され、共産党結成を準備し、コミンテルン中国支部として発足した。
創立大会 一全大会 中国共産党が結成された第1回全国代表者会議は公式には1921年7月1日であり、現在も創立記念日とされているが、実際には1月23日だった。当時の国内の党員は57名、結成大会出席者は13名(各地域の代議員、北京の張国燾ら、済南の王尽美ら、武漢の董必武ら、長沙の毛沢東ら、上海の李達・李漢俊ら、広州の陳公博、東京の周仏海)にコミンテルン代表のボロディンら2人の15名であった(中国人代表を12人とする説もある)。
 会場となったのは上海のフランス租界にあった個人宅(李漢俊宅)で、現在はその場所も確認され、「中共一大会址記念館」となっている。記念館は立派に保存されているが、当日の参加者名簿や議事内容は残っておらず、不明な点が多い。陳独秀と李大釗は欠席したが、初代の委員長(書記)には陳独秀が選ばれた。出席者の平均年齢は28歳であったが、この中で1949年の中華人民共和国成立の式典に参加したのは毛沢東と董必武の二人に過ぎなかった。また参加者の中の多くは共産党を離れている。陳公博と周仏海は後に国民党に加わり、汪兆銘と一緒に重慶から離脱して南京に親日政権を作っている。後の共産党指導者として重要な周恩来、鄧小平、劉少奇らはフランスやロシアに留学中で、創立大会には参加せず、外国にいて入党している。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021  筑摩選書 p.44-46 などによる>

Episode 中国共産党の「船出」

 大会の途中、ボロディンが演説を始めようとしたところ、参加者の中に警察の密偵がいるとささやかれ、急きょ演説を中止し、大会の最終会議は浙江省の南湖の船上で開いた。文字通り中国共産党の”船出”となった。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書などによる>
 2021年は、中国共産党の結党百周年にあたっている。

2.第1次国共合作

 結成間もない中国共産党は、将来的には社会主義を実現し共産社会を目指すとしながらも、当面は帝国主義と軍閥支配の支配下にある中国民族を解放し、真の独立と民主的政権を樹立することを掲げた。そのためまず各地の労働運動の指導を行い、帝国主義の直接的な支配に苦しむ都市や鉱山の労働者の組織化をめざした。1922年初めにイギリス植民地支配下の香港で海員ストライキを指導、さらに安源路鉱(日本との合弁の漢冶萍公司の一つ、萍郷の鉱山と鉄道)でのスト、京漢鉄道のストなど、厳しい弾圧を受けながら労働条件改善や賃上げを勝ち取っていった。
第一次国共合作 1923年には、コミンテルンを通じ、ソ連の中国政策の転換を受けて、反帝国主義闘争と反軍閥闘争のためにブルジョア民主主義革命を目指す勢力である孫文の中国国民党と協力の方針を打ち出し、1924年1月に国共合作(第1次)を成立させた。これは「連ソ・容共・扶助工農」の方針を具体化した国民党の改組に従ったもので、共産党員は党籍をもったまま全員が国民党員となった。このとき、中国共産党員はわずか500人、国民党党員は公称5万人であったから、実態は吸収されたといてよいが、それによって共産党員は広東を中心に活動の自由を得て、勢力を伸張することが出来た。1925年5月30日には反帝国主義闘争の高まりである五・三○運動とその一環としての省港スト(広州と香港でのストライキで、一時香港の貿易活動をマヒさせた)を指導し、勢力を拡大した。さらに翌年26年からは蔣介石の国民革命軍による軍閥打倒の戦いである北伐を支援した。
上海クーデタ しかし、共産党の勢力が強まるにつれて、労働運動が激化していくと、資本家層及び外国資本は強く警戒するようになった。彼らは国民党内の右派である蔣介石グループに接近を図り、蔣介石らも次第に共産党排除の姿勢を強めていった。コミンテルンと中国共産党指導部はなおも国共合作の維持に期待をかけたが、それは1927年4月12日の蔣介石の上海クーデタ(四・一二事件)によって完全に裏切られ、多数の共産党員や労働組合員が殺害された。この激しい弾圧は各地に及び、北京では共産党の創設期からの指導者李大釗が軍閥の張作霖によって殺害された。さらに国共合作を維持していた武漢国民政府の汪兆銘も7月15日に共産党との決別を宣言し、第一次国共合作は崩壊、国共分裂となった。
 この共産党の敗北の責任は、当時の指導者陳独秀の判断の誤りとされ、党創設の功労者であったがまもなく除名された。しかし、その判断はコミンテルンで当時実権を握ったスターリンの指示に従ったもので、中国の実情に合わない判断だった。その結果、中国共産党のなかに、次第にコミンテルンの指導ではなく、独自の闘争を組み立てる動きが強まる。それは都市の労働運動との連携よりも、農村社会に拠点を設けようという毛沢東の戦略となっていく。
中国共産党とコミンテルン 中国共産党はコミンテルン中国支部として発足し、その強い指導を受けていた。コミンテルンから派遣されたヴォイチンスキー、マーリン、ボロディンらが直接その指導にあたっており、また中国人党員の何人かはモスクワのコミンテルンに派遣され活動している。また資金や武器の支援もあり、その影響力は大きかった。従って中国共産党にとってコミンテルンの指示は最重要視されたが、通信状況が悪い中で時として両者の意見が食い違い、齟齬が生じる場合も多かった。それがさまざまな問題となって現れたのが国共合作をめぐってであった。コミンテルン(実際にはスターリン執行部)の指示はブルジョワ政党である国民党との合作は中国革命の過程では絶対に必要、というものだったが、ロシア共産党でスターリンと対立していたトロツキーは蔣介石が権力をにぎった国民党とは決別すべきだという意見を持っていた。中国共産党内でも激しい論争が繰り返されたが、大勢としては国共合作路線が進められていった。
 1927年の蔣介石による上海クーデタを機に顕在化した国民党による共産党弾圧によって、コミンテルンの直接的指導は弱まったが、中国共産党内には王明に代表されるソ連留学経験のあるソ連派ともいわれる勢力は根強く、その主張は国共分裂後の中国共産党の都市での蜂起や農村での収秋運動になって現れた。しかしそれらはいずれも失敗し、共産党は拠点を失っていった。その中で、農村に革命拠点を置き、ソヴィエトを建設することを実践して成果を上げた毛沢東の存在が次第に注目されるようになった。毛沢東は党の創立大会には参加していたが、最初から実権を握ったわけではなく、1927年ごろから農村を拠点とした中国共産党独自の運動を指導するようになって頭角を現し、しだいに主流派のソ連派と対立するようになった。両者の対立は調整の場にも持ち込まれたが、それに決着を付けたのが長征途中の1935年の遵義会議であった。中国共産党の党史でも遵義会議は「毛沢東同志の優れた指導力が発揮された出来事」として、一種、神話化されている。その後、コミンテルンの解散(1943年)まで関係は続くが、ソ連との関係は戦後になると中ソ対立というより深刻な問題が起きることになる。

3.瑞金から延安へ

 中国共産党は、1927年4月12日、北伐途中での蔣介石による上海クーデタの大弾圧をうけ、全国の都市で共産党員は殺害、逮捕され大きな打撃を受けた。共産党指導部は反撃を試み、1927年8月1日から9月にかけて南昌蜂起など都市での再起を図ったがいずれも失敗した。残存勢力は農村や辺境に根拠地を設け武装闘争を継続する方針に切り替えた。1927年10月、江西省の山岳地帯井崗山毛沢東が根拠地を築き、各地の共産党員は「紅軍」を組織し、ゲリラ戦を展開した。その時の毛沢東の有名なことばが「政権は銃口から生まれる」であり、中国共産党の独自の革命思想として毛沢東思想が形成されていった。
(引用)農民革命や遊撃戦と言えば、なんと言っても毛沢東が有名だが、かれのほかにも、党創立期からの古株である張国燾、任侠映画さながらの胆力で数々の修羅場をくぐり抜けた賀龍、陝西のロビン・フッドの異名をとる劉志丹など、こうした面々がそれぞれ各地の反乱を率いて革命根拠地を切り開いた。根拠地ごとにそれぞれ若干の差異はあるが、ほぼ同様の過程で、似たような構造の根拠地がいくつもできたということは、農村革命の成功が、毛沢東による卓越した指導といった個別の革命家の思想や技量といったものだけに導かれたのではなく、中国の各地の農村に共通する社会構造にある種の働きかけをすれば、同じような結果(成功)が引き出せたということを意味しよう。それらの取り組みを大ざっぱに概括したものが、いわゆる毛沢東思想なのである。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021  筑摩選書 p.101>
瑞金政権 1931年11月、江西省瑞金中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、その主導権はコミンテルンの指示を受けたソ連派が握っており、都市に対する全面的な攻勢という路線は維持された。「中華民国」内に共産勢力の独立国家が成立したことは、南京国民政府の蔣介石に大きな危機感を抱かせ、蔣介石はその年に満州事変が勃発して日本の侵略が本格化したにもかかわらず、共産党討伐(囲剿戦)に全力を挙げることになった。
長征 この国民政府軍の攻撃に遭い、共産党は瑞金を放棄せざるを得なくなり、1934年10月にいわゆる長征を開始した。「長征」または「大西遷」というのは後に名付けられたことであり、実態は目的地も定まっていない逃避行であった。この戦いは中国共産党にとって苛酷なものであり、大きな試練であったが、同時にこの過程で数々のドラマや革命英雄と称される奮闘があり、共産党神話を生み出すこととなった。
遵義会議 この途中の1935年1月の遵義会議において、コミンテルンの指示に忠実なソ連派に代わって毛沢東が指導権を確立し、中国共産党がコミンテルンの指示から離れて、独自路線を歩むこととなった。長征は大きな犠牲を払いながらも、広範囲な農村解放などを実行し、農民層の支持を強くしてゆき、1935年10月に陝西省の呉起鎮に到達して終了した。その後、1937年に同じく陝西省の延安に本拠を移し、革命と抗日戦の拠点とすることとなった。

4.抗日戦と国共内戦

 この間、1931年の満州事変から始まった日本の侵略は、さらに長城を越えて南下し、中国本土に及んできた。この日本の帝国主義的侵略と戦う機運は次第に高まった。長征の途次の1935年8月1日にコミンテルンの決議に従い、中国共産党は八・一宣言を出して国民党に対し抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。1935年12月9日には日本の華北分離工作に抗議し、十二・九学生運動起こった。
 このような情勢の中で日本軍と戦っていた東北軍の張学良1936年12月12日、国民党の総統蔣介石を西安で監禁し、一致した抗日戦を求めるという西安事件が起こった。中国共産党は周恩来を現地に派遣して蔣介石を説得、当面の内戦を回避させた。
第2次国共合作 西安事件で生まれた国共合作の再建の機運は、翌1937年7月日中戦争が勃発したことで現実のものとなり、1937年9月、中国共産党と中国国民党との第2次国共合作が成立することとなった。それ以降は抗日戦争に全力を挙げることとなる。
 第2次国共合作は、第1次のように共産党員が党籍を持ったまま国民党に入党するといった従属的一体化ではなく、それぞれが独立した党として抗日戦を戦うという合意であり、共産党は独自の解放区を維持し土地改革を進めて農民の支持を拡大ながら、国民政府・国民党に協力する体制であった。軍事面では当面、国民政府軍の指揮下に入り八路軍・新四軍という名称の部隊として日本軍と戦う態勢をとった。八路軍は主として華北・東北で日本軍と戦い、日本軍の全面的な展開を阻止した。
第二次世界大戦 1939年9月に始まった第二次世界大戦は、1941年6月の独ソ戦の開始によって大きく情勢が変化し、アメリカ・イギリス・中国・ソ連は連合国形成に動き出し、一方、日本はドイツとの提携に踏み切って南進を開始、日中戦争の打開を図った。そのためイギリス・アメリカとの対立を深め、同年12月、真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入、アメリカはそれを口実として世界大戦に参戦することになった。中国での戦線は国民党政府は重慶に移って抵抗を続け、共産党は延安を拠点に華北を中心に戦った。
毛沢東路線の確立 毛沢東は、日中戦争が始まると、1938年に『持久戦を論ず』という論文を発表、日本との戦争は持久戦になるなると予測した上で中国の勝利を確実に見通し、粘り強く戦うことを呼びかけた。戦争が中国の勝利で終わった後、この毛沢東=中国共産党の見通しの正しさが証明されたして、内外に戦略家としての毛沢東の評価が高まり、また共産党は抗日戦の勝利をもたらしたということを存在意義の第一に上げるようになった。実際、抗日戦を戦いながら中国共産党は解放区を中心に党員を急増させており、そのため、党員に対する思想教育である整風運動を行った。
 戦争も終結に近づいた1945年4月、中国共産党は党の結成から抗日戦争までの党の歴史を検討して「歴史決議」を行い、1930年代にソ連留学経験のある留ソ派(代表格が王明)がコミンテルンの権威を笠に党を牛耳ったのは誤りであり、それに反対して毛沢東の路線が正しかった、と総括した。もっともすでに1943年5月にはソ連が米英と提携したことを受け、コミンテルンは解散していた。
第2次国共内戦 1945年8月、日本軍の敗北により日中戦争は終わり、中国共産党と中国国民党は新中国の国家統治について協議することとなった。8月末に蔣介石毛沢東は重慶で会談、難航の末、ようやく1945年10月10日に「双十協定」を締結、「内戦の回避と政治協商会議の開催」で合意した。しかし、1946年6月26日、蔣介石は共産党解放区への攻撃を開始して合意は破られ、第2次国共内戦の勃発となった。当初は国民党軍が優勢であったが、共産党は解放区での土地改革を進めて農民の支持を固め、1947年3月には紅軍を人民解放軍と改称して反撃した。一時は共産党の拠点延安を攻略されて危機に陥ったが、1948年には遼瀋戦役(9~11月)、淮海戦役(11月~49年1月)、平津戦役(北京と天津の攻防戦、11月~49年1月)の三大戦役でたてづづけに勝利し、1949年1月31日、毛沢東以下の共産党・人民解放軍は北平に無血入城した。
中華人民共和国の樹立 なおも国民党軍の残存部隊の抵抗は続いたが、1949年10月1日中華人民共和国の樹立を宣言した。ここに中国共産党は、1922年の結党から27年で政権党となり、当面の目標である社会主義国家建設、さらに将来的には共産主義社会の実現に向けて歩みを開始した。ソヴィエト連邦に次ぐ共産主義を標榜する大国が東アジアに誕生したことは、世界を驚かせ、特に日本を占領支配するアメリカにとっては大きな脅威となった。

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中国共産党(2)
中華人民共和国建国から文革まで

1949年10月、中華人民共和国を建国。毛沢東は新民主主義を当初の理念としたが、早くも翌1950年6月、朝鮮戦争が勃発してアメリカ軍と戦う中で、社会主義国家建設を急ぐ姿勢に転じ1958年から大躍進運動を起こしたが失敗。その総括をめぐって指導部に対立が生じ、毛沢東は階級闘争、社会主義路線継承の掲げ、劉少奇らを資本主義に傾いたとして批判、大衆を動員して1966年にプロレタリア文化大革命を開始した。68年にかけて紅衛兵の過激な運動が展開され、毛沢東は劉少奇・鄧小平らを走資派として失脚させたが、中国共産党も大きく動揺した。1971年の林彪事件を期に、党内は急進的な四人組と実務的な周恩来らの対立が続いて迷走、1976年の毛沢東死去によって転機を迎え、四人組が逮捕されて実質的に文革は終わった。復活した鄧小平は華国鋒に代わって実権を握り、1978年から改革開放路線への転換を開始、1981年には文化大革命を誤りであったと総括した。その後の過程で中国共産党は当初のプロレタリアを基盤とする階級政党という性格から、ナショナリズムを基盤とする国家政権党へと完全に変質していく。

1.中華人民共和国の建国

 1949年10月1日に成立した中華人民共和国では毛沢東が中央政府主席、朱徳、劉少奇が副主席、周恩来が政務院総理に就任し、中国共産党は権力を掌握したが、形の上では副主席には共産党以外から3名選出されていたし、9月に開催された国会にあたる人民政治協商会議には共産党とともに、国民党以外の民主的な政党が参加していた。このように、建国当初の中華人民共和国は、共産党一党独裁ではなく、形の上では一種の統一戦線の形態をとっていた。それは毛沢東の「新民主主義論」の構想に基づくものであった。
朝鮮戦争 東アジアにおいて共産党が政権を奪取したことは、すでにヨーロッパで厳しい東西冷戦に突入し、1947年のトルーマン=ドクトリンを出していたアメリカにとっても大きな脅威となった。そのような中、毛沢東は建国直後の1949年12月にソ連を訪問、スターリンと協議を重ね、1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。中国がソ連との同盟を結んだ直後の1950年6月、朝鮮戦争が勃発した。アメリカ軍が介入し、中朝国境に迫る情勢となったところで、毛沢東は義勇軍派遣を決定、アメリカ軍と直接戦火をまじえることなった。
社会主義の建設へ 朝鮮戦争は1953年に休戦となったが、建国直後の中国にとっても大きな犠牲を払うこととなった。その戦時体制下に中国共産党は、それまでの新民主主義理念に代わり、ソ連を範とした社会主義献饌へと大きく舵を切った。1950年6月には土地改革法を公布して地主制度を一掃し、1951年12月からは三反五反運動を開始して資本家の腐敗を攻撃してその力をそぎ、金融資本を統制下において社会主義経済への転換を準備した。また、特に工業力の立ち後れが強く意識されたため、1953年6月から計画経済を実行に移して第1次五カ年計画を策定、社会主義建設に向かい、翌1954年9月には中華人民共和国憲法を制定して毛沢東を新設の国家主席に選出した。
 背景には、朝鮮戦争休戦後、日本の再軍備日米安全保障条約などアメリカによる対共産圏包囲網の形成が進むという脅威に対抗して、段階的な新民主主義論ではなく、一気に社会主義化による強国化を図る意図があったものと思われる。また外交では米ソ二大国に対抗するように周恩来が活躍し、平和五原則を提唱して1955年アジア=アフリカ会議を成功させるなど、第三勢力の一員としての存在感を高めた。

2.中ソ論争

 ソ連との同盟関係を背景にアジアでの冷戦(といっても実際に挑戦では熱戦になった)を戦っていた中国共産党にとって、大きな転機が訪れた。そのソ連で1956年2月、フルシチョフスターリン批判を行ったのだ。これは中国共産党に大きな衝撃を与え、毛沢東はスターリンは「功績7分、誤り3分」として工業化の偏重や粛清は否定しながら、アメリカ帝国主義との対決姿勢を高く評価し、フルシチョフの平和共存路線を帝国主義に屈服するものとして批判した。しかし、党内ではスターリンの個人崇拝への批判と同様に、暗に毛沢東の独裁的な党運営を批判するものもあり、ソ連共産党と同様の混乱が生じた。東ヨーロッパの共産圏諸国ではハンガリーポーランドなどが起こり、共産党一党独裁体制が揺らいでいた。
 1957年11月にモスクワ開催された世界共産党会議に毛沢東は中国共産党の代表として出席し、スターリンのアメリカとの対決姿勢を継承する立場からフルシチョフらソ連共産党の平和共存路線への転進は帝国主義への屈服であるとして受け入れないとして、ソ連を真っ正面から批判した。
反右派闘争 毛沢東はこのような情勢下で、1957年に「百花斉放・百家争鳴」を提起して各界からの自由は批判を促したが、一種のガス抜きに終わり、一転して「反右派闘争」を呼びかけ、共産党批判を資本主義勢力による反革命の動きであるとして厳しく攻撃し、多くの人々を右派として弾劾、排除した。こうして中国共産党は一党独裁体制を強め、不寛容な排他主義的な性格に陥っていった。

3.大躍進運動とその挫折

 1958年5月毛沢東は共産党に対し第2次五カ年計画の実施を指示した。その柱は「大躍進」といわれ、具体的には「土法高炉」という中国伝統の方法で鉄鋼を増産しようという運動と、人民公社による農村の集団化であった。毛沢東が独自路線で工業化、集団化を強行したのは中ソ対立の深刻かがあり、1959年にはソ連は中ソ技術協定を破棄を通告し、技術者の引揚げるというところまでになっていた。
廬山会議 大躍進運動は十分な裏付けと計画性がないままに急速に進められたため、生産力が激減して失敗が明らかになった。そのため翌1959年4月の第2期全人代第1回会議では国家主席は劉少奇に交代した。1959年7月廬山会議では国防部長彭徳懐が毛沢東を批判すると、毛沢東はそれに対して社会主義と階級闘争を否定する反革命思想であると強く非難し、彭徳懐を解任して代わりに林彪が就任した。このころから中国共産党は路線をめぐって深刻な対立が始まったと言える。
 その1959年から61年にかけて、中国は洪水や干魃などの自然災害に見舞われた。大躍進の失敗に併せて自然災害となったため、食糧不足が起こり多数が餓死する大飢饉となった(犠牲者数は正確には判らないが死者1600万から2700万といわれている)。これは専ら自然災害として記憶され現代中国の歴史でも毛沢東=共産党政権の責任とされることはなかったが、これを中国及び共産党の社会主義建設にとって大きな危機であると捉えたのが毛沢東であった。
劉少奇の調整政策 毛沢東に代わって国家主席となっていた劉少奇は、鄧小平ら実務官僚と協力して、中国の生産力の回復と経済再建に取り組み、1962年1月、七千人大会といわれた大会議(中国共産党中央拡大工作会議)を開催、毛沢東も公式に大躍進の失敗を認め、劉・鄧路線による経済調整政策が採用された。それは一部に農地の請負耕作や生産物の自由販売などを認め、農民の労働意欲を引き出そうとするもので、一定の成果を上げ、生産も回復の兆しを見せ始めた。鄧小平が「白い猫でも黒い猫でもネズミを獲るネコがよい猫だ」と言って収穫が増え国民の生活が良くなるなら、集団化にこだわる必要はないという現実路線を肯定したのがこの時のことである。またこのころ、外国(ソ連)の力を借りずに経済危機を乗り切り、独自に国防力(核開発)を高めようという意味で「自力更生」が盛んに叫ばれた。

4.文化大革命

 しかし、毛沢東はそのような動きを階級闘争を放棄し、社会主義路線を資本主義復活に向かわせる修正主義の動きだと考えるようになった。まず1965年に文芸作品の中のブルジョワ思想に傾いているものを批判するという文芸批判から始め、1966年8月にはプロレタリア文化大革命を提起し、大々的な修正主義批判、右派批判、ブルジョワ批判を開始した。その呼びかけに応じた大学生や高校生が紅衛兵を結成、共産党幹部や文化人を糾弾した。毛沢東の狙いの通り、批判は実権派・走資派の総帥としての国家主席劉少奇に及び、鄧小平等とともにブルジョワ反動路線への転換を図ったとして造反派の暴力的な追求がなされた。そのため、多くの人が迫害されて殺されたり自殺したり、社会から抹殺されるという事態が進み、それは党幹部だけでなく、古い文化や思想、風習などの否定、破壊にまで及んだ。1968年10月、共産党は劉少奇を永久除名とし、国家主席以下のすべての職務を解任した。鄧小平は除名にはならなかったが労働現場に格下げされた。その他、多くの古参党員も追放や除名となり、命を落とした者も多数に及んだ。そのような混乱は68年まで続き、中国共産党自身をも大きく動揺させることとなった。
中国をとりまく情勢 文化大革命の時期の中国をとりまく国際環境も厳しいものがあった。台湾をめぐっては依然として緊張が続き、金門・馬祖砲撃が続けられていた。1959年3月にはチベットの反乱が起こったことから、1962年10月には中印国境紛争にエスカレートした。同1962年10月キューバ危機がおきて核戦争の脅威が迫ると、毛沢東は、フルシチョフをアメリカ帝国主義に屈服したとして強く非難し、独自の核開発に踏み切り、1964年10月16日中国の核実験を成功させた。その背景には同年8月、アメリカ軍がトンキン湾事件を口実に北ベトナムを空爆し、ベトナム戦争が本格化したことがあった。ついに最も警戒していたソ連との関係悪化は、ついに1969年3月、ウスリー川の中洲での中ソ国境紛争として現実のものとなった。このように、文化大革命の時期には中国をめぐる国際問題も秦国であったことを抑えておく必要がある。
林彪事件 文化大革命の進行する中で毛沢東周辺では人民解放軍を抑えている林彪と毛夫人の江青と張春橋などの若手の急進的なグループが台頭した。まず1969年4月、林彪が毛沢東の後継者に指名されたが、1971年9月13日に林彪らがクーデタに失敗して国外逃亡を謀り、モンゴル上空で墜落死するという林彪事件が起こり、共産党内外に大きな衝撃を与えた。このころ各地で造反派と共産党幹部との衝突が起こり、混乱の度を深めており、この事件も文化大革命及び毛沢東の指導の混迷を強く印象づけた。林彪事件の真相は未だに明らかではないが、その収拾にあたった周恩来が党の実務を抑える立場で重きをなすようになった。
四人組の台頭 毛沢東・周恩来は文化革命の収束を意図して1973年に鄧小平を復活させたが、それに対して江青ら若手の急進派は文化大革命の継続を主張して激しく抵抗するようになった。この江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人は当初から党内でも文化革命小組のメンバーとして活動していたが、この頃から「四人組」といわれ、毛沢東の権威をバックにしてプロレタリア階級闘争の継続や修正主義反対などの原理主義的な主張を繰り返し、依然として力をふるっていた。彼らの攻撃目標はまず周恩来に向けられ、林彪と古代の思想家孔子批判と重ね合わせて「批林批孔」」のキャンペーンを繰り広げた。
米中・日中関係の改善 この文化大革命が混迷の度を深めていた時期に、急転回で米中関係の改善がなされた。キッシンジャーが秘密裏に訪中して協議を進め、1971年7月15日に来年のニクソン訪中を発表、それをうけて1971年10月には国際連合の中国代表権が台湾の国民政府から中華人民共和国に変更されるという、画期的な変化が生じた。翌1972年2月21日に予定どおりニクソン訪中が実現し、さらに日本の田中首相が1972年9月29日に訪中し、日中国交正常化を実現させて、日中共同声明を発表した。これらは、ベトナム戦争の有利な終結を目指すアメリカと、ソ連との対決を有利に進めようとする毛沢東中国共産党の外交方針が一致したことによって進展したのであり、文革中も冷酷な国際情勢の変化に対応したものと言える。

5.文化大革命の総括

第一次天安門事件 しかし周恩来は鄧小平らの指示を受けて粘り強く活動を続け、1975年1月には病を押して全人代で演説し、四つの現代化を提唱した。これは近代化によって国民生活の安定を図ろうとするものであったが、毛沢東と四人組はそれを資本主義へ転換を目指す修正主義だと捉え、今度は水滸伝の宋江にたとえて批判するという「水滸伝批判」を展開した。このような路線対立は、周恩来が死去したとき、1976年4月に第1次天安門事件が起こったことで表面化した。追悼の集会をしようと天安門広場に集まった民衆が四人組批判の声を上げると、四人組側がそれを暴動として弾圧し、鄧小平は民衆扇動したとして再び失脚させられた。毛沢東はこの時も四人組を擁護した。この事件は1978年に反革命暴動ではなく、四人組の反革命陰謀に対する正当な抗議行動であったとして、関係者の名誉は回復された(この点が第2次天安門事件と異なる)。
毛沢東の死去 1976年9月9日毛沢東が死去(82歳)したことでようやく文化大革命は収束に向かった。その死後、誰が権力を継承するのか、世界中が注目する中、1976年10月6日に四人組が逮捕され、間もなく新たに華国鋒が後継者となった。華国鋒は文革推進派であったが共産党の古くからの幹部と結び、革命の収束を図ったのだった。翌1977年8月、中共第11回全国大会において華国鋒は、正式に文化大革命の終了が宣言した。しかしそれは、文化大革命と毛沢東の指導は正しい路線であり、それが林彪・四人組によって歪められた、という評価であった。
鄧小平の権力掌握 1977年7月に党中央に復権した鄧小平は、毛沢東の威光を文化大革命の価値判断を継承していた華国鋒から徐々に権力を奪い、1978年12月18日中国共産党第11期三中全会で、華国鋒の解任とともに改革開放政策を打ち出した(このとき「改革開放」として提唱されたのではなかったが、後にこの時点がその起点とされるようになった)。
文化大革命の総括 この根本的な国家の基本路線を、社会主義の原則である計画経済や公有制ではなく、資本主義的な市場経済と私有制に転換させる前提として、中華人民共和国=中国共産党は、文化大革命をどう総括するか、迫られることになった。その課題について、復権後の鄧小平は、腹心の胡耀邦らと直ちに取り組み、1981年6月27日に「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)としてまとめ、党機関で採択された。それは、端的に言えば、文化大革命は誤りであり、失敗であったという結論であり、それを強力に推進した毛沢東の指導も誤っていた、という全面的に否定するものであった。もっとも毛沢東に対しては、共産党の結党から中華人民共和国建国までの功績は偉大であると評価し、全面的な否定には至らなかった。

参考 中国共産党の自己規定

 中国共産党は、自らをどう定義しているのだろうか。文化大革命を誤りだったと「総括」した、1981年6月の党11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」では、次のように述べている。
(引用)中国共産党がなければ新中国はなかったし、また同様に、中国共産党がなければ近代化された社会主義中国は存在しえなかった。中国共産党はマルクス・レーニン主義おおび毛沢東思想で武装された、最終的に共産主義を実現することを歴史的使命とした、厳格な規律をもち自己批判の精神にあふれたプロレタリアートの政党である。もしこの党の指導がなければ、この党が長期にわたる闘争を通じて人民大衆との間につくり上げてきた血肉の関係も、この党が人民の中にあって遂行してきたがまん強くきめ細かい実のある作業やこうしたことから勝ちえた崇高なる威信も存在することはなく、もしそうならわれわれの国は必然的に内外の諸々の要因によって四分五裂し、われわれの民族および人民の前途は絶たれてしまうほかなかったであろう。党の指導に誤りがないということはありえないが、党と人民との強固な団結があれば必ずやこうした誤りを正すことができる(下略)。<小島晋治・並木頼寿監訳『中国中学校歴史教科書入門中国の歴史』2001 明石書院 p.1228-1229>
 この文章は中国共産党の1981年「歴史決議」決議の一部であるが、中学校(日本の高校にあたる)の『中国の歴史』巻末の<史料閲読>に記載されている。要約すれば、中国共産党は社会主義中国を指導する、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を武器として最終的に共産主義の実現を目指すプロレタリア政党であり、人民と強固に団結する政党である、ということになろう。この1981年の自己規定は、翌年の憲法改正で前文に取り入れられ、現在の中国共産党でも生きているが、21世紀になっても「マルクス・レーニン主義」とか「プロレタリア政党」であるなどのことばは額面どおりとは思えない。1990年代から2000年代最初の10年で、実態はまったく別な政党に変質してしまったと言わざるを得ない。では、中国共産党はどのように変容したのだろうか。

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中国共産党(3)
文革後から現代まで

1978年、鄧小平の主導権の下で改革開放に踏み切り、1981年には歴史決議で文化大革命を毛沢東の誤りと総括して脱毛沢東を図った。経済面での改革開放が進んだが、鄧小平は「四つの基本原則」を掲げて共産党一党独裁体制を維持を図ったので、次第に民主化を求める声が強まった。しかし1989年第2次天安門事件でそれを弾圧。さらに中国共産党は社会主義市場経済の導入を図り、1990年代に大胆な転身を遂げ、プロレタリア階級政党という基本的性格はなくなり、経済成長を一党独裁のもとで進める開発独裁をすすめる政権党へと変質した。

1.鄧小平の共産党

改革開放政策への転換 1977年7月鄧小平は党中央に復権した。国家主席の華国鋒は毛沢東信奉を抜けきらず「二つのすべて」と称して毛沢東路線を教条主義的に維持しようとしていたが、鄧小平はその姿勢を批判し、大胆な変革によって文化大革命での経済停滞を打破しなければならないと主張し、徐々に華国鋒の権力を奪っていった。ついに1978年12月18日中国共産党第11期三中全会で華国鋒の解任とともに改革開放政策が採択された。これによって中国共産党の路線は脱文化大革命・脱毛沢東へと大きく転換することとなった。現在ではこの時一気に転換したのではなく、さらに数年をかけての変革であったことが指摘されているが、中華人民共和国=中国共産党の歴史的には重要な転換点であったことには間違いない。
文化大革命を否定する歴史決議 1980年11月には江青など四人組に対する裁判を行い、文化大革命の混乱を林彪と四人組の責任として断罪した。そのころ鄧小平は腹心の胡耀邦らと慎重に討議を重ね、1981年6月27日「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)を提案した。それは「文化大革命」によって、党と国家と人民は建国以来最大の挫折と損失をこうむったことを認め、指導者(毛沢東)がまちがって引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱であった、と総括した。また毛沢東の「継続革命論」はマルクス=レーニン主義を誤って解釈したものであり、その左寄りの重大な誤りには責任があると断定した。こうして中国共産党は文化大革命と毛沢東の指導から脱却したが、共産党結党から中華人民共和国建国までの毛沢東の功績はそれ以上に大きいと評価した。つまり、中国共産党の毛沢東評価は「功績が第一で、誤りが第二」ということで落ち着いた。
 さらに社会主義経済の原則である公有制、集団農場も、1982年に人民公社の解体が断行された。しかし中国共産党は結党以来の「当面の社会主義の建設と将来の共産社会の実現」という目標を降ろしたわけではなく、社会主義のもとで計画経済と市場経済を融合させた、中国型の社会主義国家を標榜していくこととなる。
鄧小平政権 1982年9月、中国共産党第12回全国大会では独裁イメージを払拭して集団指導体制をとるとして党主席制を廃止、総書記を置いて胡耀邦が就任した。胡耀邦は「政治報告」を行い、改革開放政策を推進することによって工業・農業とも生産総額の4倍増を実現するなどの目標を掲げた。1980年代の中国では鄧小平は最高ポストに就くことを避け、共産党の党務は総書記胡耀邦、人民共和国の政務は国務院総理趙紫陽が取り仕切るという分業体制で進められた。しかし鄧小平は実質的な「最高実力者」としてふるまい鄧小平政権のもとにあったと言ってよい。そのもとで中国は経済基盤の整備を進め、90年代以降の驚異的な経済成長を準備していった。
四つの基本原則 鄧小平時代に改革開放政策という試みが始まったが、それは実体において完全な資本主義経済への転換であった。資本主義にむけて経済の近代化が急速に進められたことは、「政治の近代化」=民主化、つまり共産党一党独裁の否定、多党化などの容認に進むのではないか、とも見られたが、鄧小平はそれを明確に否定し、「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」として、・社会主義の道、・プロレタリア独裁、・共産党の指導、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想、は堅持しなければならないと表明した。この四原則は1982年制定の中華人民共和国憲法改定の際に前文に取り入れられた。
改革・開放の停滞 共産党一党支配に対する批判は許さないという方針は、1979年の民主化運動家魏京生を逮捕したことに示されており、その後も文学・思想界でも「ブルジョア自由化」に対する厳しい抑圧の姿勢が続いた。しかし、改革解放が進むとともに、共産党内にも政治改革と民主化を志向する改革派(胡耀邦と趙紫陽ら)と、従来の一党独裁を柱とした従来の体制を維持すべきだとする多数派との駆け引きが始まった。
胡耀邦の解任 経済の自由化は、当然、言論や思想の自由を求める声を活発にしていったが、鄧小平政権はそれを「ブルジョア自由化」として危険視する保守派の勢力が強かった。しかし、鄧小平の右腕と言われた官僚で経済自由化路線を進めていた胡耀邦は、政治や言論での自由化が必要という意見に傾いて行き、民衆の声を代弁するようになった。その動きを警戒した体制派は鄧小平を動かし、1987年1月に路線を混乱させたとして胡耀邦は総書記の地位を追われてしまった。
趙紫陽の改革 あらたに総書記となった趙紫陽1987年11月の第13回党大会で政治報告を行い、国家と党の分離、政治の公開化、プロセスの民主化などを大胆に提起した。それらは当時ソ連で進行していたゴルバチョフの改革に影響されたもので、改革派の官僚や学者を動員して作った改革プランであった。趙紫陽は経済改革ではさらに大胆に、中国は社会主義社会の初級段階にあると規定してその完成は21世紀中頃になると判断、それまでは近代的工業への脱皮をはかるため、不動産売買、私営企業の株式制度、自由価格など市場経済原理を導入しなければならないと提起した。
社会と経済の混乱 この「限りなく資本主義に近づく」という大胆な提案は歓迎されたが、従来の計画経済から自由経済への急激な転換はさまざまな弊害、例えば拝金主義や汚職、過剰投資、過剰生産などが広がった。その中で最も民衆を苦しめたのが物価の急騰と不安定であった。一方で経済の自由化は当然、政治の自由化が「第五の現代化」として強く叫ばれるようになった。

2.第2次天安門事件

 鄧小平のもとでの「改革開放政策」によって経済の自由化が進んだことは、当然、政治の民主化の要求をも強めていった。また急激な経済自由化によって生まれた社会不安の中で共産党一党独裁に反対し、多党化や三権分立などを要求する声が強くなった。現実的な政治家であった鄧小平は、政治改革にも一定の理解を示したが、それはあくまで共産党の一党独裁という体制の枠組みの中でも部分的なものにとどまっており、基本路線は「四つの基本原則」特に共産党の指導については厳守するという姿勢を崩さなかった。
 そのような中で迎えた1989年は五・四運動七〇周年記念の年であり、ソ連の改革の旗手ゴルバチョフの来訪が予定されていた。急進的な改革派知識人として知られていた方励之(ほうれいし)らは1979年に逮捕された魏京生ら政治犯の釈放を求めて人権擁護署名運動と民主化に向けての公開質問の提出などの運動を開始した。鄧小平政権はこのような動きを強く警戒し、「安定が第一」として言論取り締まりを強化した。
民主化運動の弾圧 民主化に理解を示していた前総書記の胡耀邦が急死すると、その追悼の集会が北京の天安門広場で始まり、多くの北京の学生が参加、口々に政治体制の民主化を要求してハンガーストライキなどを開始した。共産党内部でも実力者鄧小平と政務院総理(総理)李鵬らは断固弾圧を主張、総書記趙紫陽は民主化に理解を示し、動揺した。ついに強硬派の主張が通り、戒厳令が布かれ、1989年6月4日に戒厳軍の戦車が天安門広場に突入、学生に発砲し、その多くが死傷した。趙紫陽は天安門広場に姿を現し、学生を激励したが、その後に姿を消し、失脚した。この第2次天安門事件は折りからゴルバチョフが訪中していたため同行の外国メディアによって世界中に報道され、国際的にも大きな衝撃を与えた。中国共産党と鄧小平は人権抑圧を厳しく非難され、アメリカが経済制裁を加えるなど、貿易にも悪影響を及ぼし、中国経済は大きな危機に陥った。
1989年 1989年は第2次天安門事件だけではなく、世界的に激動の俊だった。何よりも1年を通じて東欧革命が続いて社会主義政権が倒れて民主化が進み、1989年11月にはベルリンの壁が開放、年末には米ソ首脳がマルタ会談で会談、冷戦の終結が現実となった。そのような中で中国だけが民主化を実現させることが出来なかったことが際立っていた。

3.江沢民の時代

 1989年、第2次天安門事件で趙紫陽が失脚、代わって前上海市長であった江沢民が総書記となった。国務院総理は保守派で計画経済の専門家李鵬が継続し、鄧小平は依然として表には立たず実権を維持していた。その鄧小平は第2次天安門事件を反革命動乱として徹底して弾圧したが、アメリカの経済政策などで苦境に立たされ、国内も治安の回復と経済の再建が急務となった。鄧小平は共産党政権をに対する国民の支持を維持するには、もはや革命や階級闘争ではなく、経済成長を実現し、豊かな生活を保障することしか方策はない、と強く自覚していた。そして「改革開放なければ成長なし」という強い信念を持ち続けていた。
鄧小平の南巡講話 1992年1月~2月、鄧小平は老体に鞭打ち、最後の賭に出た。それは自ら改革開放の先進地域である中国南部を直接歴訪し、さらなる投資を呼びかけ、経済成長を図るしかない、と言うことだった。深圳、珠海、上海などを歴訪した鄧小平は各地で有利な条件を提示して投資を働きかけ、外国資本の導入を図った。その呼びかけに応じて投資が増大し企業は設備投資、生産を増やし、アメリカは経済制裁を解除して中国への投資を再開した。この呼びかけは鄧小平の「南巡講話」として出版され、広い反響を呼んで中国経済は立ち直りのきっかけをつかんだ。現在も鄧小平の南巡講話が天安門の混乱から中国経済を建て直したと評価されており、反面その成功が、民主化を抑圧した鄧小平への批判をかき消していった。
社会主義市場経済の導入 1992年10月、中国共産党第14回全国大会で江沢民総書記は「社会主義市場経済」を積極的に導入することを提唱した。それは鄧小平が南巡講話で示した基本路線を踏襲したもので、計画経済と市場経済を矛盾した体制と考えず、両方の要素を取り入れて経済成長を図ろうというものであった。その経済政策を進めたのは、副総理に抜擢された前上海市長の朱鎔基であり、そのもとで税制、銀行、企業、外国貿易など多方面にわたる経済・財政制度の現代化が進められ、1993年11月に正式に「社会主義市場経済」として確定した。それによって中国経済は急速に成長、1990年代には毎年9%という驚くべき経済成長を遂げることとなった。
江沢民体制 共産党総書記江沢民は、ポスト鄧小平を見据え、1992年10月に社会主義市場経済導入を提唱するとともに、副総理に同じ上海市長経験者の朱鎔基や新疆ウィグル自治区で実績を上げた胡錦濤らを抜擢した。鄧小平が93歳で死去した1997年の7月1日、1984年に鄧小平とサッチャー首相の間で合意していた香港返還が実現した。さらに1999年12月にポルトガルからマカオ返還を実現した。香港、マカオは合意に基づき、それぞれ一国二制度の原則を50年間維持することとなった。

4.現代の中国共産党(21世紀)

 中国経済が急成長して、安価な製品を大量に輸出し、また莫大な国内市場が存在していることは世界経済に大きな脅威となり、中国に対して国際的な貿易ルールの遵守を求める声が強まった。それをうけて、2001年には中国のWTO(世界貿易機構)加盟を実現させた。社会主義を標榜する国家が、世界の貿易ルールの同じ土俵にあがり、13億人の巨大市場が資本主義国家に開かれたことで、21世紀の開幕に相応しい出来事だったと言えるが、同年9月には9.11同時多発テロが起こっており、世界もアメリカも大きな変動に見舞われることとなった。 → 21世紀の中華人民共和国
入党資格の変更 2001年7月、中国共産党創立80周年記念大会で、総書記江沢民は演説し、共産党入党資格を労働者、農民、軍人などからより多くの階層に拡大することを表明した。この方針は翌年の第16回党大会で、党規約の第1章第1条の入党資格に「その他の社会階層の先進分子」を追記する形で明文化された。これはありていに言えば、私営企業家などのことで、古い言い回しだと「資本家・ブルジョワジー」もその中に含まれる。こうして結党以来「プロレタリアートの前衛」組織をもって自認してきた共産党が、自ら党のアイデンティティを転換したことを意味する。すでに古い資本家・ブルジョワジーはほぼ消滅していたから、ここでいう企業家とは改革開放が始まってから認められて新たに形成された個人経営の企業家たちのことだ。この資格変更は、すでに党員の約半数は労働者・農民・軍人以外になっていたことを追認するものであったが、規約上も共産党はプロレタリアの階級政党ではなくなったことを意味していた。<石川禎浩『中国共産党、その百年』2021 筑摩選書 p.317>
世界の経済大国の舵取り 21世紀の中国共産党は毛沢東時代には考えられなかった激動する国際社会で、経済的にも政治的(軍事的)にも最も重要な国家となった中国の舵取りをしなければならない、という局面に至った。江沢民は盛んにアメリカ、ロシア、EU、東南アジアそして日本を訪問し、世界のリーダーの一人としての存在をアピールするようになった。2003年、中国共産党は総書記を江沢民から胡錦涛にバトンタッチし、首相には温家宝が就任した。江沢民は一線を退いたが、かつての鄧小平と同じように、強い影響力を持ち続けた。
社会格差、民主化への対応 2000年代は中国経済が急成長し、その国際的地位も上がり、まさに大国として存在するようになった。その象徴は2008年の北京オリンピック開催であった。しかしその頃、経済成長の影の部分である貧富の差の拡大が問題にされ始めた。胡錦濤-温家宝指導部は「和諧社会」というスローガンを掲げ、階層間のギャップを埋め、格差を解消することに努めた。もう一つの側面、民主化の遅れも経済発展の反面としてますます明らかになってきたが、民主化運動は依然として厳しく取り締まられ、2008年、劉暁波らが、共産党一党独裁の廃止、三権分立、立法院の直接選挙、人権の保障など含む「零八憲章」(08憲章)をインターネットで発表した事に対して共産党は直ちに「国家政権転覆扇動罪」によって弾圧した。その服役中の劉暁波に2010年にノーベル賞が授与されると、中国政府は強く反発し、ノーベル賞委員会に内政干渉であると抗議、同時に国内での受賞のニュースを抑えようとした。
 中国では経済成長とともにインターネットが急速に普及、国民がネットで情報を得て発信するという動きが急速に広がり、共産党もその動きに敏感となっていた。2011年のアラブの春のような動きを恐れ、ネット規制も先手をうって厳しく行い、民主化運動を抑え込んでいる。
中国共産党の変質 中国共産党はすでにプロレタリア階級を解放する革命を目指す政党ではなくなっており、強権的な権力によって経済成長を主導して、国民生活を向上させることで支持をされ続けることを目指す、政権政党に変質した。それはかつての開発独裁と同様な政治権力となった、とも指摘されている。中国共産党は党員8500万を数える巨大政党であり、中華人民共和国の国家機構と密接に結びついた、いわば一心同体の組織である。党員は党組織に属するととともに、中央から地方までの政府機構に組み込まれ一体となって活動し、党財政も国家予算から支出される政党助成金でまかなわれている。また、人民解放軍は230万の兵力と核装備を揺する軍隊であるが、現在も基本的には国家の軍隊ではなく共産党の指令で動く党の軍隊である。
 江沢民は、・共産党は先進的な生産力、・先進的な文化、・広範な人民の利益、の三つを代表する政党である、という言い回しをしており、先進的であれば階層にはこだわらない姿勢を示していた。実際、党員の中に占める高学歴者の割合は結党直後の約1%から、2019年データでは50%になっている。
ナショナリズムの高唱 いまや14億という国民の結束を強め、統一を維持するうえで、もはや革命政党ではなくなった共産党が訴える手段はナショナリズムであった。その萌芽は毛沢東にもあったが、かれの時代はまだインターナショナリズム、世界の労働者の団結が呼びかけられ、プロレタリア階級の解放という国境、民族を越えた普遍的な価値を追求するのが共産主義政党である、との自覚が強かった。文化大革命もその理念が根底にあり、むしろナショナリズムは否定的にとられられていた。鄧小平時代にもその性格は強く残っていたが、文革の混乱から中国を再建する過程で経済成長が唯一の国家目的となるとともに、ナショナリズム(民族主義)が表面に現れてきた。1990年代以降、江沢民政権で顕著になり、その延長線上に胡錦濤政権が打ち出し、習近平に継承されている「中華民族の偉大なる復興」というスローガンにそれが表れている。<石川禎浩『同上書』 p.324>
日中関係の悪化 中国のナショナリズムが明確になった江沢民の時代、中国共産党の存在意義を日中戦争での抗日戦で戦い民族を従属から解放したことと、文革後の改革開放政策で中国を再建し経済を豊かにしたことを盛んに喧伝した。それは必然的に日本が戦争への反省を忘却していることを攻撃する外交姿勢に現れ、教科書問題、靖国問題での激しい日本批判になって現れた。またナショナリズムは多民族国家中国にとって、両刃の刃となる難しい問題であり漢民族以外の自治区であるチベット、新疆ウィグル、内モンゴルなどでの自治要求に対する厳しい弾圧姿勢となって現れた。
習近平政権 胡錦濤から習近平に総書記が交代した2012年には、尖閣諸島をめぐる日中関係が最悪な事態となった。中国民衆の中に激しい反日デモが起きると、共産党政府はデモを禁止することなく、日本に対する抗議を強めた。また、南シナ海に点在する諸島を中国固有の領土と主張し、さらに東シナ海から太平洋への海洋進出は、一時好転しかけて交流も活発になっていた台湾との海峡問題を再び緊張させ、日本も含む各国の海洋航行の自由を脅かしている。これらは、覇権国家としての中国の顔があらわれたものとして、強い危機感を持って国際社会に受けとられた。
 習近平政権は、「一帯一路」という中国経済の世界支配とも言える構想を打ち出している。しかし、2019年後半に武漢から始まった新型コロナウィルスの世界的流行、いわゆるパンデミックは中国にとっても大きな衝撃であったことは間違いなく、中国が感染源になったのではないかという疑いとともに中国への批判が出ている。まだ収束の予測が立たない時点であるが、中国共産党が今後どのような舵取りをしていくのか、国内外のさまざまな課題にどう取り組むのか、注目されるところである。<2021/8/30 記>

参考 新たな正統性を模索する中国共産党

 中国共産党は、結党時から文革期までは、党の正統性を社会主義イデオロギーに置いていた。社会主義は資本主義よりも優れており、搾取と疎外のない理想社会である共産社会に至る道であるという美しいビジョンで人々を導いた。しかし社会主義建設に挫折し、市場経済に転換した現在では、社会主義の正統性は主張できなくなっている。それでは新たな正統性として中国共産党が模索しているのは何か。
(引用)歴史的功績や社会主義の魅力が色あせた今日では、共産党は新たな正統性の原理を模索している。第一は、政治的求心力による正統性である。これはしばしば巨大な中国をとりまとめる政治勢力が共産党しかいないという点を強調する。第二は、愛国主義を強調し、国民が共産党を中心に団結し、近代化に取り組むべきことをくりかえしている。第三に、ほかの権威主義政権と同じように、発展の実績によって国民の支持を調達しようとする。結果から見ると、発展の実績がどの要素よりも支配の正当性を強化しているといえるだろう。<唐亮『現代中国の政治』2012 岩波新書 p.42>
 しかし急速な経済成長がいつまでも続くとは思えない。また国民の要求も豊かさだけでなく、社会の平等や公正、自由と権利、社会保障の充実へと向かっていくだろう。またやがて中国も高齢化社会を迎えるだろう。そのような多面的で多元的な国民の要求に対応することが共産党の課題となるだろう。そのとき一党独裁という硬直化した政治体制を続けることが出来るのか、予測は困難である。
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書籍案内

小島晋治・丸山松幸
『中国近現代史』
1986 岩波新書

竹内実
『毛沢東と中国共産党』
1972 中公新書

石川禎浩
『中国共産党、その百年』
2021 筑摩選書

唐亮
『現代中国の政治
開発独裁とそのゆくえ』
2012 岩波新書