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中国共産党

1921年、陳独秀らによって上海でコミンテルン中国支部として結成された。1924年、ソ連の指示を受け国民党との国共合作に踏み切り帝国主義との戦いを展開したが、1927年の上海事件で決裂、蔣介石による弾圧を受ける。農村を根拠地とした反封建闘争に転換、1931年、瑞金に中華ソビエト臨時政府を樹立したが、毛沢東と親ソ派の対立が生じた。日本の侵略が始まるなか、国民政府軍の攻勢を受けて長征を敢行、その間1935年の遵義会議で毛沢東の主導権が確立し、延安に根拠を移して国民政府軍との内戦指導した。

中国でのマルクス主義の受容

 『新青年』を舞台とした陳独秀李大釗にはじまるが、1919年の五・四運動は中国の革命運動に決定的な意味を持ち、また大きな画期となった。それは中国の現状を、帝国主義による植民地支配と、軍閥による封建的な支配の二重苦にあるものとしてとらえ、それまでの外国に依存した近代化や、軍閥の武力による権力闘争ではもはや救済できない、ということを民衆が自覚したことである。そしてこれを機に中国各地に、民族の独立と社会改革と求める、主として学生と青年による結社が多数現れてくる。

1.中国共産党の結成

 1921年7月、上海で創立大会を開催。党員は57名、委員長には陳独秀がなった。中国共産党の創立はコミンテルンの指導があった。コミンテルンはヨーロッパの革命運動の行き詰まりから、前年7月「民族および植民地問題にかんするテーゼ」を採択し、先進国のプロレタリアートの革命運動を支援することと並んで、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動をも積極的に支援する方針を決定した。その中で、使者を何度か中国に派遣し、新文化運動に参加し、五・四運動の中心となっていた陳独秀李大釗らに共産党結成を働きかけた。その結果各地に共産主義グループが結成され、共産党結成を準備し、コミンテルン中国支部として発足した。

Episode 中国共産党の「船出」

 創立大会は、大会の途中で警察の密偵にかぎつかれたため、最終会議を浙江省の南湖の船上で開いた。文字通り中国共産党の”船出”となった。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書による>
 中国共産党が結成された第1回全国代表者会議は公式には1921年7月1日であり、現在も創立記念日とされているが、実際には1月23日だった。当時の国内の党員は57名、結成大会出席者は角逐からの代議員、北京の張国燾ら、済南の王尽美ら、武漢の董必武ら、長沙の毛沢東ら、上海の李達ら、広州の陳公博、東京の周仏海にコミンテルン代表のボロディンらであった。陳独秀と李大釗は欠席したが、初代の委員長には陳独秀が選ばれた。出席者の平均年齢は28歳であったが、この中で1949年の中華人民共和国成立の式典に参加したのは毛沢東と董必武の二人に過ぎなかった。周恩来、鄧小平、劉少奇らはフランスやロシアに留学中で、外国にいて入党している。
 2021年は、中国共産党の結党百周年にあたっている。

2.第1次国共合作から上海クーデタまで

 結成間もない中国共産党は、将来的には社会主義を実現し共産社会を目指すとしながらも、当面は帝国主義と軍閥支配の支配下にある中国民族を解放し、真の独立と民主的政権を樹立することを掲げた。そのためまず各地の労働運動の指導を行い、帝国主義の直接的な支配に苦しむ都市や鉱山の労働者の組織化をめざした。1922年初めにイギリス植民地支配下の香港で海員ストライキを指導、さらに安源路鉱(日本との合弁の漢冶萍公司の一つ、萍郷の鉱山と鉄道)でのスト、京漢鉄道のストなど、厳しい弾圧を受けながら労働条件改善や賃上げを勝ち取っていった。
第一次国共合作 1923年には、コミンテルンを通じ、ソ連の中国政策の転換を受けて、反帝国主義闘争と反軍閥闘争のためにブルジョア民主主義革命を目指す勢力である孫文の中国国民党と協力の方針を打ち出し、1924年1月に国共合作(第1次)を成立させた。これは「連ソ・容共・扶助工農」の方針を具体化した国民党の改組に従ったもので、共産党員は党籍をもったまま全員が国民党員となった。このとき、中国共産党員はわずか500人、国民党党員は公称5万人であったから、実態は吸収されたといてよいが、それによって共産党員は広東を中心に活動の自由を得て、勢力を伸張することが出来た。1925年5月30日には反帝国主義闘争の高まりである五・三○運動とその一環としての省港スト(広州と香港でのストライキで、一時香港の貿易活動をマヒさせた)を指導し、勢力を拡大した。さらに翌年26年からは蔣介石の国民革命軍による軍閥打倒の戦いである北伐を支援した。
上海クーデタ しかし、共産党の勢力が強まるにつれて、労働運動が激化していくと、資本家層及び外国資本は強く警戒するようになった。彼らは国民党内の右派である蔣介石グループに接近を図り、蔣介石らも次第に共産党排除の姿勢を強めていった。コミンテルンと中国共産党指導部はなおも国共合作の維持に期待をかけたが、それは1927年4月12日の蔣介石の上海クーデタ(四・一二事件)によって完全に裏切られ、多数の共産党員や労働組合員が殺害された。この激しい弾圧は各地に及び、北京では共産党の創設期からの指導者李大釗が軍閥の張作霖によって殺害された。さらに国共合作を維持していた武漢国民政府の汪兆銘も7月15日に共産党との決別を宣言し、第一次国共合作は崩壊、国共分裂となった。
 この共産党の敗北の責任は、当時の指導者陳独秀の判断の誤りとされ、党創設の功労者であったがまもなく除名された。しかし、その判断はコミンテルンで当時実権を握ったスターリンの指示に従ったもので、中国の実情に合わない判断だった。その結果、中国共産党のなかに、次第にコミンテルンの指導ではなく、独自の闘争を組み立てる動きが強まる。それは都市の労働運動との連携よりも、農村社会に拠点を設けようという毛沢東の戦略となっていく。

3.国共分裂期から毛沢東主導の長征まで

 中国共産党は、1927年の蔣介石による上海クーデタの大弾圧をうけ、全国の都市で共産党員は殺害、逮捕され大きな打撃を受けた。共産党指導部は反撃を試み、8月から9月にかけて南昌蜂起など都市での再起を図ったがいずれも失敗した。残存勢力は農村や辺境に根拠地を設け武装闘争を継続する方針に切り替えた。江西省井崗山には毛沢東が根拠地を築き、各地の共産党員は「紅軍」を組織し、ゲリラ戦を展開した。
瑞金政権 1931年11月、江西省瑞金中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、その主導権はコミンテルンの指示を受けたソ連派が握っており、都市に対する全面的な攻勢という路線は維持された。「中華民国」内に共産勢力の独立国家が成立したことは、南京国民政府の蔣介石に大きな危機感を抱かせ、蔣介石はその年に満州事変が勃発して日本の侵略が本格化したにもかかわらず、共産党討伐(囲剿戦)に全力を挙げることになった。
長征   この国民政府軍の攻撃に遭い、共産党は瑞金を放棄せざるを得なくなり、1934年10月にいわゆる長征を開始し、この途中の1935年1月の遵義会議において、コミンテルンの指示に忠実なソ連派に代わって毛沢東が指導権を確立し、延安に本拠を移すこととなる。 → 第2次国共合作 
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