U2型機事件
1960年、ソ連がアメリカのU2型偵察機を撃墜した事件。米ソの平和共存路線は危機におちいった。
1960年5月、ソ連上空を飛行したアメリカのU2型偵察機が、ソ連のウラル上空で撃墜された事件。ソ連のフルシチョフ首相はアメリカのスパイ行為であると激しく非難し、前年の自身のアメリカ訪問の返礼としてのアイゼンハウアーのソ連招待をキャンセル、パリでの巨頭会談も中止された。
ウラル核爆発事故 の実態を調査するためだったのではないかと言われている。なお、1980年にデビューしたアイルランド出身のロックバンド「U2」は、この偵察機の名前に由来するのではないかと言われているが、メンバーのボノは「関係はない。単純な前だからつけた」と言っている。
米軍偵察機、撃墜される
5月1日、ソ連のウラル山脈上空を飛行していた偵察機U2が撃墜された。この時パイロットのパワーズは奇蹟的に脱出、ソ連側に逮捕された。アメリカは操縦士は死亡したと思っていたが、5月5日にフルシチョフはソ連領空を侵犯したアメリカ軍機を撃墜し、操縦士は生存していると発表し、世界を驚かせた。5月16日から開始された米英仏ソ4国の首脳会談の冒頭で、フルシチョフは強硬にアメリカに謝罪を要求、アメリカは偵察飛行の中止を表明したものの、謝罪は拒否したため、会議は流会となった。60年代の米ソ対立へ
この事件を機に、米ソの平和共存は暗礁に乗り上げ、1960年代は再び東西冷戦の緊張が高まった。その現れが翌61年の東側によるベルリンの壁の構築であり、62年のキューバ危機であった。1960年代は直接的な戦火は発生しなかったが、米ソ間には「冷たい平和」といわれる対立状態が続いた。なお、アメリカがソ連のウラル上空を偵察飛行した理由として、ソ連の核実験でのEpisode フルシチョフの国連演説 靴で演壇を叩く
U2撃墜事件の後、「1960年9月にフルシチョフは国連で演説し、靴を脱いで演壇を叩いた。この行動は粗野だとひんしゅくをかったが、フルシチョフは帝政ロシア時代のドゥーマの議員がしばしば同様な行動をとったことを思い出してのことだったという。おそらくは内外に向けて、フルシチョフが農民の出であることを含めて、ロシアを代表する人物であることを誇示したかったのであろう。」<猪木武徳他『冷戦と経済発展』1999 中央公論新社 世界の歴史29 p.102>