フルシチョフ
第二次大戦後のソ連の指導者。1956年、共産党第一書記としてスターリン批判を断行する。1960年代、米ソ冷戦時代のソ連を主導し平和共存路線をとる。1962年のキューバ危機でアメリカのケネディとわたりあうも、翌63年に失脚した。
Nikita Sergeevich Khrushchov 1894-1971
スターリン批判
1956年2月のソ連共産党第20回大会で、平和共存への転換を表明、スターリン批判を行った。それを機に起こったハンガリー事件などの東欧の反ソ運動に対してはソ連軍を派遣して抑えつけた。戦後のソ連をスターリン時代から転換させた重要な指導者の一人である。政権獲得と平和共存
1957年にはモロトフやマレンコフを排除し、さらに大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功、人工衛星スプートニクの打ち上げに成功するなどを背景に力をつけ、58年にはブルガーニン首相を解任して自ら兼任した。核開発や宇宙開発でアメリカと対等な力を付けたという自信を背景に、フルシチョフはソ連内部の対米強硬派を抑え、アメリカとの平和共存路線を模索し、1959年にはソ連首相として始めて渡米し、アイゼンハウアーと会談した。
フルシチョフの訪米と訪中
1959年9月15日、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、ニーナ夫人を伴い、ソ連首脳として初めて訪米した。その平和共存路線に沿って国際連合総会で演説し、全面完全軍縮を提案した。また、アメリカのアイゼンハウアー大統領はワシントン郊外のキャンプデーヴィッドにフルシチョフを招き、米ソ首脳の会談が行われた。両者は国際紛争の平和的解決では合意し、アイゼンハウアーの訪ソが約束された。フルシチョフはアメリカ訪問での成果を背景に、ただちに1959年9月30日に中国を訪問、中国共産党の毛沢東と会談した。毛沢東はスターリン批判以来、ソ連のフルシチョフ路線には批判的で、独自路線を歩み始め、6月にはソ連が中ソ技術協定破棄に踏み切っていた。フルシチョフは直接会談で毛沢東との関係を修繕しようとしたが、毛沢東の意思は変わらず、両者の会見は中ソ対立が抜き差しならぬところに来ていることを明らかにして終わった。
フルシチョフは中国との深い亀裂を修復できないまま、外交成果の仕上げのため、1960年5月、米英仏ソの④カ国首脳会談に臨んだ。ところが1960年5月1日、アメリカの偵察機がソ連上空で撃墜されるというU2型機事件が起こり、フルシチョフはアメリカのスパイ活動を激しく非難、パリ首脳会談は流会となった。同年9月にはフルシチョフは国連総会で演説、靴を脱いで演壇を叩き、アメリカを激しく非難した。
こうしてフルシチョフの華々しい外交活動は、結果的に個人外交に留まり、また世界が期待した東西冷戦の緊張緩和が実現されることもなく、かえって米ソ対立は深刻さをまし、61年の東側によるベルリンの壁の構築、62年のキューバ危機へと向かうこととなった。
キューバ危機
アメリカでは大統領が1961年から民主党のケネディに交代、当時深刻さを増していたベルリン問題の解決に向けて、ウィーンで米ソ首脳会談が行われた。ソ連はドイツからのアメリカ軍の撤退を要求、アメリカが拒否したため話し合いは決裂し、それを受けて東ドイツ政府はベルリンの壁の構築に踏み切った。さらにキューバ革命(1959)を成功させたカストロが反米姿勢を強めると、キューバにミサイル基地を設置し、軍事的優位に立とうとした。1962年10月22日、アメリカがキューバへのソ連のミサイル配備を非難、キューバを封鎖したためのキューバ危機となり、核戦争の勃発の危機が高まった。フルシチョフは妥協してキューバからミサイル基地を撤去し、翌63年には部分的核実験停止条約締結に合意し、アメリカとは「敵対的平和」の状態に入った。共産圏の分裂
スターリン批判を機にフルシチョフのもとで非スターリン化が進み、ソ連国内の「雪どけ」と東欧に自由化を求める運動が起こったが、国内の自由化に対しては行き過ぎを厳しく対処し、また東欧諸国の動きに対してはポーランド反ソ暴動とハンガリー反ソ暴動のいずれも力ずくで抑えつけた。一方でフルシチョフを批判してソ連と袂を分かつ形となった中国共産党の毛沢東との論争「中ソ論争」を展開し、中ソ対立を招いた。フルシチョフは59年に中ソ技術協定破棄を通告、毛沢東は独自の核開発を進めることとなり、64年には中国の核実験を強行した。評価と批判
フルシチョフは地方の労働者出身で、長く農民運動に携わり、1930年代にはモスクワ市長として経験を積んだ、現場の政治家であり、その親しみやすい風貌からも民衆に人気があった。しかし、その手法は振幅が大きく、時に独断的でその外交は「瀬戸際外交」とも言われて不安定なものであった。フルシチョフの政治では、・スターリン的な秘密主義、独裁政治、粛清などの手段を止めさせたこと。
・スターリンの世界戦争不可避論に変わって平和共存路線に展開させたこと。
・農業面などの生産性を高め、経済成長を実現させたこと。
などは評価されている。しかし、キューバ危機での弱腰が非難が起こり、1964に反対派によって一方的に解任され、その後は年金生活を送って71年に死去した。
フルシチョフ解任
1964年、ソ連首相フルシチョフは農業政策の失敗などを理由に突然、解任された。ソ連はブレジネフ-コスイギン体制に移行する。
1964年10月12日、フルシチョフの不在中に開催されたソ連共産党拡大幹部会は、フルシチョフ第一書記兼首相を解任する決議を行った。翌日軍用機でモスクワに呼び出されたフルシチョフは、幹部会で退陣を迫られ、スースロフが代表して彼の経済政策と外交政策の失敗を列挙し、さらに恣意的で独裁的なやり方を批判した。15日、フルシチョフはやむなく辞職願に署名し、次の第一書記にはブレジネフ、首相にはコスイギンが就任した。
フルシチョフ解任の理由
フルシチョフの突然の解任の理由としてあげられているのは、農業政策において生産第一主義をとり、土地や気候や伝統的農法を無視した結果、1963年に大凶作となったこと、外交政策ではケネディ大統領の脅しに屈しキューバ危機でミサイル基地を撤去したこと(保守派、軍部はソ連の権威を失墜させたととらえた)、政治手法として第22回大会で党員の反対を押し切って任期制を導入したことなどが挙げられる。<外川継男『ロシアとソ連邦』講談社学術文庫 p.378>