キューバ危機
1962年10月、キューバへのソ連のミサイル配備に抗議したアメリカがキューバを封鎖し、米ソの対立が核戦争の危機となった。最終的には両国首脳の直接交渉でソ連がミサイルを撤去、危機は回避された。
1962年10月22日、アメリカのケネディ大統領が、キューバでソ連がミサイル基地を建設し配備したことを理由にキューバの海上封鎖を発表、ソ連のフルシチョフが海上封鎖を解く目的で艦隊を派遣、両国間に武力衝突勃発の危機となった。これは前年のベルリンの壁の建設と並んで、東西冷戦の中での米ソの平和共存が崩れる恐れが生じ、双方とも核兵器使用に踏みきるのではないかという危惧を世界中が抱いた。しかし、米ソ首脳の自制によって危機は回避された。
危機が迫る中、両国首脳は裏面での交渉を重ねた。ソ連のフルシチョフ首相は、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにミサイル基地を撤去するとの提案をケネディに伝え、10月27日に合意が成立して危機は回避された。
また米ソ両首脳は、核戦争の脅威に直面したため、核開発競争には一定の歯止めが必要と考えるようになった。また1950年代の米ソ核実験に対する反対運動も盛んになったことを受けて、両国はイギリスにも働きかけ、最初の核実験制限の取り決めである大気圏内外水中核実験停止条約(部分的核実験停止条約/PTBT)の締結に合意した。
しかしソ連では、フルシチョフのアメリカに対する妥協は、弱腰と批判されることとなった。そのことが、1964年10月のフルシチョフ解任の遠因となった。また、中国の毛沢東もソ連に対する不信を強め、中ソ対立が一層深刻になっていく。
背景
キューバで1959年にカストロの指導によるキューバ革命が成功した。キューバで社会主義国家建設が進行、アメリカ資本が追放されたことに対し、アメリカのアイゼンハウアー大統領は1961年1月3日に国交断絶に踏み切った。さらにアメリカ政府はキューバの革命政権転覆を謀り、亡命キューバ人のキューバ侵攻を支援していた。次のケネディ大統領もそれを継続し、1961年4月に亡命キューバ人に侵攻させ、革命政府の転覆を謀ったが失敗した。それに対してカストロは反米姿勢を強めてソ連に近づき、ソ連もフルシチョフが第三世界への支援と核戦力の強化によって対米優位を得ようとしてキューバに核ミサイルを配備した。アメリカのキューバ海上封鎖
1962年10月14日、アメリカ空軍の偵察機がキューバ上空で撮影した写真で、ソ連によるミサイル基地が建設進行中であることが判明した。これは核兵器によるアメリカ本土攻撃を可能にすることであるので、ケネディ大統領は22日夜、テレビ演説を行い、攻撃的兵器が運び込まれるのを防ぐため、キューバ周囲を海と空から海上封鎖することを宣言した。ソ連はすでに機材と武器を積んだ艦船をキューバに向かわせていたので、アメリカの海上封鎖を突破しようとすれば米ソ間の直接衝突となり、核戦争の危機が迫った。危機が迫る中、両国首脳は裏面での交渉を重ねた。ソ連のフルシチョフ首相は、アメリカがキューバに侵攻しないことと引き替えにミサイル基地を撤去するとの提案をケネディに伝え、10月27日に合意が成立して危機は回避された。
Episode 1962年10月27日、核戦争の危機
アメリカのキューバ海上封鎖が発動され、ケネディ大統領は空軍に核兵器搭載を命じた。ソ連は潜水艦に護衛された艦船を封鎖ラインに接近させ、危機は頂点に達した。ケネディもフルシチョフも、誤った判断が間違いなく核戦争を勃発させることになると認識した。10月26日、フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないと約束するならミサイルを引き上げると伝えた。27日午前にホワイトハウスの国家安全保障会議が開かれた。回想によると国務長官マクナマラは、この日が生涯最後の日になると覚悟したという。またフルシチョフも妻にただちにモスクワから脱出するよう電話したという。正午には米軍の偵察用U2型機がキューバ上空で撃墜されたというニュースが入り、軍部はキューバ報復を主張した。しかし午後4時、ケネディは報復攻撃を行わないことと、フルシチョフの提案を受け入れることに決した。裏面では弟の司法長官ロバートと駐米大使ドブルイニンのパイプで調整が行われていた。午後8時頃、ケネディの解答がフルシチョフに伝達され、翌日9時にソ連がキューバからミサイルを撤去するとラジオ発表を行い、危機は回避された。<猪木武徳他『冷戦と経済発展』1999 中央公論新社 世界の歴史29 p.116>参考 危機の13日間
キューバ危機のアメリカ側の記録としては国防長官だったマクナマラの回顧録と、ケネディ大統領の実弟で司法長官のロバート=ケネディが残した『13日間 キューバ危機回顧録』がある。Episode 「他国の靴を履く」
キューバ危機に際して、ケネディ大統領の下にホワイトハウス内に国家安全保障会議(エックス・コム)が組織された。メンバーはラスク国務長官、マクナマラ国防長官、マッコーンCIA長官、ジロン財務長官、統合参謀本部議長テーラー大将、ロバート=ケネディ司法長官(大統領の実弟)にバンディやソレンセンといった大統領顧問たちであった。これがいわば冷戦期最大の危機に直面した危機管理メンバーである。会議は軍を中心としたキューバ空爆論(核兵器の使用も辞さないという強硬論もあった)と海上封鎖論(マクナマラ、ロバート=ケネディ)が激しく対立した。その間の緊迫した状況はロバート=ケネディの遺書となった回顧録に述べられている。最終的には海上封鎖論が優位となり、ケネディ大統領の決断もそうなった。この平和的な危機回避に成功したロバート=ケネディは同書の終章でこういっている。(引用)キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴を履いてみる、つまり相手国の立場になってみることの重要さである。危機の期間中、ケネディ大統領は、自分のやっている行動の中で、なによりもまず、こういう行動をとったらフルシチョフあるいはソ連に、どんな影響を与えるかをはかり知ろうと、より多くの時間を費やした。彼の慎重熟慮を導いたものは、フルシチョフを侮辱したり、ソ連に恥をかかせたりしないという努力であった。それは、彼らに付託されているソ連の安全保障とか国益のゆえに、対米対応策をエスカレートしなければならないと思いこませないようにすることだった。<ロバート=ケネディ『13日間 キューバ危機回顧録』中公文庫版 2001 p.107>また映画では、ケビン=コスナー主演、ロジャー=ドナルドソン監督の『13ディズ』はその忠実な映画化。いささか結果論という面はあるが、危機回避に成功したホワイトハウス内の状況をよく描いている。
キューバ危機の影響
キューバ危機の反省から、米ソ首脳は緊張緩和(デタント)を模索することなり、直通通信協定が結ばれ、両首脳はホットラインで直接対話できるようになった。ケネディ大統領も1963年6月の演説で「戦争のための武器によるパックス=アメリカーナを世界に押しつけることはしない」と表明した。また米ソ両首脳は、核戦争の脅威に直面したため、核開発競争には一定の歯止めが必要と考えるようになった。また1950年代の米ソ核実験に対する反対運動も盛んになったことを受けて、両国はイギリスにも働きかけ、最初の核実験制限の取り決めである大気圏内外水中核実験停止条約(部分的核実験停止条約/PTBT)の締結に合意した。
しかしソ連では、フルシチョフのアメリカに対する妥協は、弱腰と批判されることとなった。そのことが、1964年10月のフルシチョフ解任の遠因となった。また、中国の毛沢東もソ連に対する不信を強め、中ソ対立が一層深刻になっていく。