日本の経済成長
戦後激しいインフレとなったが、財閥解体、農地改革などの民主化を勧めて基盤をつくり、1950年からの朝鮮特需で回復の糸口をつかんだ。
戦後改革での経済民主化
日中戦争・太平洋戦争と続いた15年戦争は、日本経済に大きな打撃を与えた。しかし、同時に戦後の改革の中の、財閥解体と農地改革は、日本経済の民主化に大きな前進となった。日本経済を支配していた財閥は解体され、あらたに独占禁止法が制定されて自由で公正な競争の原則が定められた。また、農地改革によって長く日本の農村を支配していた地主・小作人関係が無くなり、自作農が創設されて、食料生産の増加とそれに伴う国内購買力の増大がもたらされた。また、労働三法(労働組合法、労働関係調整法、労働基準法)が制定されて労働者の権利が保障されたたことも、経済発展の基盤である労働者の生活向上をもたらした。GHQと政府の経済復興政策
敗戦後の日本の経済は労働力の不足、原料不足のため生産が伸びず、激しいインフレに見舞われて混乱が続いていた。政府は金融緊急措置令を出して新円に切り替えてインフレ抑制に努め、経済安定本部を設けて経済政策の調整に当たった。また、傾斜生産方式を採用して、石炭・鉄鋼の重点的な復興をはかった。また、GHQは1948年に経済安定九原則で予算の均衡・徴税の強化・賃金の安定などを課題として示し、その実施のためにドッジ=ラインという均衡予算案の作成が行われ、またシャウプ勧告によって所得税中心の税制に転換させた。また、アメリカは日本経済の復興の資金として、ガリオア(占領地域救済資金)・エロア(占領地域経済復興援助資金)の貸し付けを行った。日本経済の成長に不可欠な貿易は、1949年にブレトン=ウッズ体制に基づき、1ドル=360円の固定為替相場制が定められ、これは戦前の水準(1ドル=約1円)から大幅に円安であったので、日本製品の輸出に大きく役立ち、繊維製品を中心に輸出産業の復興が始まった。1952年に日本はIMF(国際通貨基金)に加盟し、国際経済に復帰した。朝鮮戦争による特需
全般的には苦しい状態が続いていた戦後日本の経済を劇的に発展させる契機となったのが、1950年に始まった朝鮮戦争であった。日本の基地から朝鮮の戦場に向かうアメリカ軍の軍需物資の受注は「朝鮮特需」と言われ、これによって輸出も伸びて経済復興の端緒となった。戦後日本経済が復興し、1960年代までは安定した発展を遂げることができた理由、大前提として日本が戦前のような軍事国家ではなくなり、平和憲法の下で戦争にお金をかけなくとも良かった、ということがあることを忘れてはならない。同時に朝鮮特需は、日本経済のアメリカ依存という体質を決定的にするきっかけとなり、朝鮮戦争の休戦協定が成立して特需が終わった後も、軍拡を続けるアメリカとアメリカに支援された東南アジア諸国への輸出に日本経済は依存していくこととなる。 → 1960年代の高度経済成長