高度経済成長
戦後の復興をとげた日本が、1960年代に輸出増大に支えられて、急速な経済成長をとげた。1963~64年には貿易・為替などの自由化に踏みきり、70年代にはアメリカ、ヨーロッパとならぶ世界経済の三極構造の一角を担うまでになった。
日本の経済は戦争による労働力・生産力に対する大打撃と、激しいインフレによって大きく落ち込んだが、1945年~50年の経済の民主化と産業復興政策、GHQによる資金援助、固定為替制度による貿易の復興などで基盤を整え、1950年の朝鮮戦争による朝鮮特需で完全復興の端緒をつかんだ。その後、50年代の国民の努力によって、また外国と比べて安価であった労働力に支えられ、日本の経済成長は急速な成長を遂げた。ついで1960年代からいわゆる高度経済成長期には入ることとなる。
ベトナム戦争の長期化がアメリカ経済を疲弊させたことと、日本の経済が急成長したことによって、アメリカ合衆国経済の相対的低下をもたらし、1971年にドル危機(ドル=ショック)が表面化、代わってヨーロッパの統合(EC)が進んだことによって、1970年代の世界経済はアメリカ、EC、日本の三極構造といわれるようになった。さらに1973年のオイル=ショックによって世界経済は低成長時代に入った。
日本は高度経済成長のもとでの急激な工業化、エネルギーの転換(石炭から原油へ)をとげたが、それによって農業人口の低下と食糧問題、過疎の問題、そして公害問題 、自然環境の破壊などの新たな問題が深刻になってゆき、高度経済成長期を境に、戦後日本社会を大きく変貌させることとなった。
1970年代には日本の経済進出(オーバープレゼンス)に対する東南アジア諸国の反発がはじまり、1972年にはバンコクの学生の中から日本製品不買運動が起こっている。1974年1月の田中角栄首相の東南アジア諸国歴訪は、タイのバンコク、インドネシアのジャカルタ、マレーシアのクアラルンプールでそれぞれ激しい反日デモに迎えられている。日本の高度経済成長は東南アジアでどのように見られていたのか、ということも考えておく必要があろう。
1975年のベトナム戦争終結は、アジア情勢を大きく変化させ、東南アジア諸国連合は結成当時の軍事同盟という性格から経済協力機構へと変化し、域内での協力による経済成長を図るようになった。1970~80年代になると、開発独裁の中からより合理的な技術革新を遂げた大韓民国・台湾・香港・シンガポールが、新興工業経済地域(NIEs)として台頭し、日本経済を脅かすようになる。
経済成長の頂点に達していた日本は、1986年~1991年のバブル経済の狂乱を経て、90年代以降の長期低迷期に落ち込み、21世紀に入ると急成長をとげた中国経済にアジア経済の主役の場を奪われ、相対的な低迷から抜け出せないでいる、というのが現状であろう。<2022/1/24更新>
日本経済の急成長
1960年、安保闘争で岸内閣が倒れた後に登場した池田勇人内閣は、「所得倍増」をスローガンに高度経済成長政策を提唱した。その後、1960年代は年率約10%の成長が続き、日本は屈指の経済大国となった。その象徴として1964年10月10日にはアジア最初のオリンピックである東京オリンピックが開催された。この成長は同年10月1日開業の東海道新幹線に代表される技術革新に支えられていたが、アメリカがベトナム戦争期にあたっており、日本の輸出が増大したことが大きな要因であった。日本経済の開放
復興した日本経済によって輸出が伸び、対米貿易収支が黒字に転換すると、アメリカはドル防衛のために日本に対する貿易・為替の自由化を要請するようになり、西欧諸国も日本に対する貿易自由化を強くし、日本に対する経済開放要求が国際的に高まってきた。それに対して日本政府は、まず1963年にはGATT11条国に移行(国際収支を理由に輸入制限できない国となること。GATTは95年に世界貿易機関(WTO)となる)して貿易を自由化,翌1964年にIMF8条国に移行(同じく国際収支を理由に為替制限を出来ない国となること)して為替を自由化,さらに同年、「先進国クラブ」といわれる経済協力開発機構(OECD)に加盟して資本の自由化に踏み切った。この貿易・為替・資本の三本セットによって日本は国際経済にたいして日本経済を開放、世界経済(国際資本主義)に加わることとなった。経済成長の光と影
しかし、その反面、60年代の日本の経済繁栄とベトナム戦争の泥沼化という相反する現実に、若者のいらだちは強まっていった。1968年5月にはフランスの五月危機(五月革命)やアメリカのベトナム反戦運動の盛り上がりの刺激もあり、日本でも各地の大学で学生運動が盛り上がり、その高揚は70年代まで続いた。ベトナム戦争の長期化がアメリカ経済を疲弊させたことと、日本の経済が急成長したことによって、アメリカ合衆国経済の相対的低下をもたらし、1971年にドル危機(ドル=ショック)が表面化、代わってヨーロッパの統合(EC)が進んだことによって、1970年代の世界経済はアメリカ、EC、日本の三極構造といわれるようになった。さらに1973年のオイル=ショックによって世界経済は低成長時代に入った。
日本は高度経済成長のもとでの急激な工業化、エネルギーの転換(石炭から原油へ)をとげたが、それによって農業人口の低下と食糧問題、過疎の問題、そして
日本の高度経済成長とアジア諸国
日本の高度経済成長はアメリカ経済と結びついていただけではなく、アジア、特に東南アジアと深く結びついていた。1950~70年代のアジアには大韓民国(韓国)の朴正煕政権、フィリピンのマルコス政権、インドネシアのスハルト政権、タイのサリット政権など、開発独裁といわれる民主的な手続きを無視した強権的な政治権力による経済成長(工業化政策)が進められていた。日本の経済高度成長はそれらの諸国を市場とし、資本を投下するとともに、安価な工業製品を引き受けて開発独裁を支えたといえる。1970年代には日本の経済進出(オーバープレゼンス)に対する東南アジア諸国の反発がはじまり、1972年にはバンコクの学生の中から日本製品不買運動が起こっている。1974年1月の田中角栄首相の東南アジア諸国歴訪は、タイのバンコク、インドネシアのジャカルタ、マレーシアのクアラルンプールでそれぞれ激しい反日デモに迎えられている。日本の高度経済成長は東南アジアでどのように見られていたのか、ということも考えておく必要があろう。
1975年のベトナム戦争終結は、アジア情勢を大きく変化させ、東南アジア諸国連合は結成当時の軍事同盟という性格から経済協力機構へと変化し、域内での協力による経済成長を図るようになった。1970~80年代になると、開発独裁の中からより合理的な技術革新を遂げた大韓民国・台湾・香港・シンガポールが、新興工業経済地域(NIEs)として台頭し、日本経済を脅かすようになる。
経済成長の頂点に達していた日本は、1986年~1991年のバブル経済の狂乱を経て、90年代以降の長期低迷期に落ち込み、21世紀に入ると急成長をとげた中国経済にアジア経済の主役の場を奪われ、相対的な低迷から抜け出せないでいる、というのが現状であろう。<2022/1/24更新>