四月革命(韓国)
1960年、韓国で独裁政治反対の民衆運動が起こり、李承晩大統領が辞任に追い込まれた。民主化が開始されたが翌61年、朴正煕による軍事クーデタで抑えられ軍政となった。
四・一九学生革命ともいう。1960年4月、大韓民国の李承晩大統領の不正選挙に対する抗議行動を行った学生に呼応して、市民・労働者が蜂起して、ついに李承晩を辞任に追い込んだ民主化運動。
李承晩大統領退陣
大韓民国初代大統領李承晩は、朝鮮戦争休戦後、反共姿勢と共に独裁色を強め、民主化を要求する野党指導者を逮捕したり、言論抑圧をくりかえしていた。この年の副大統領選挙でも不正選挙が行われたことに学生が反発、4月19日にはソウルの高麗大学学生を始めとする学生が2万人でデモを行い、それに呼応して全国の群衆約10万人がデモを行った。李承晩大統領はついに辞任し、夫人と共にアメリカに亡命した。朴正煕の軍事クーデター
議会は内閣責任制の新憲法を可決し、第二共和政が成立し、野党指導者であった張勉が首相となり、民主化が開始された。北朝鮮の金日成もそれに対応して、8月に南北連邦制による統一案を提示し、国民にも民族統一の声が強まったが、翌1961年5月16日の朴正煕による軍事クーデターによって民主化および南北統一の動きは抑えられ、韓国はふたたび反共独裁政権の支配下に置かれることとなった。Episode 高校生が口火を切った四月学生革命
1960年の四月革命の口火を切ったのは、2月の大邱での高校生たちのデモだった。日本と同じく六・三・三制の教育が始まった韓国では儒教の伝統もあって急速に教育熱が高まり、高校生の数も45年には19校7819人だったのが60年には640校27万3千人に増えていた。高校生といっても戦乱を含む混乱期で20歳を過ぎた成人も少なからず含まれていた。李承晩政権は副大統領選挙の遊説開始日が日曜であったにもかかわらず高校を登校日とした。選挙演説に高校生が参加できないようにしたのだ。高校生は学園の政治的利用に怒って街頭デモに及んだのだった。この大邱の高校生デモが全国に波及、4月18日から19日にかけての全国での大学生、民衆のデモに拡大した。警察の弾圧は激しく、使者は全国で186名となり「血の火曜日」と言われた。また韓国の四月学生革命は、日本の安保条約改定反対闘争にも大きな刺激を与え、大学生・高校生が街頭デモに多数参加した。<文京洙『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.82-85>