李承晩
戦前からの韓国の独立運動家で1919年、大韓民国臨時政府を上海に樹立。後、アメリカに亡命し、日本敗北後朝鮮に戻り、1948年に大韓民国初代大統領となる。朝鮮戦争後も独裁政治を継続しながら、経済成長・国民生活の向上などで実績を上げることはできず、1960年の民衆蜂起(四月革命)によって退陣に追いこまれた。
李承晩
戒厳体制
韓国の成立とともに政権についた李承晩は、その後三度、戒厳宣告を行っている。1948年8月15日に建国宣言を発したものの、韓国軍の反乱にあい、10月には早くも第一回の戒厳宣告となり、そのまま朝鮮戦争に至った。朝鮮休戦会談中の52年5月、第2回の戒厳宣告、李承晩以下政府首脳の暗殺計画が発覚したとして国会議員多数を逮捕、憲法を改正して大統領再選を確実にし、米韓安保条約を結んで独裁体制を強化し、53年8月に戒厳を解除した。第三回の戒厳宣告は1960年の大統領4選をめぐる不正選挙が学生革命に発展した6月19日だったが、もはや軍の支持を得られなくなった戒厳宣告に威力はなく、李政権は倒れた。その後も韓国ではしばしば戒厳令が出されており、韓国の歴史は、戒厳体制の歴史であると言ってもよい。<大江志乃夫『戒厳令』1978 岩波新書 p.22>朝鮮戦争
1950年6月25日に金日成のもとで北朝鮮軍が南に侵攻し、朝鮮戦争が始まると、短期間にソウルを奪われ、一時は釜山まで後退したが、国連軍(その実態はアメリカ軍)が派遣され、その支援によって反撃してソウルを奪還した。それに対して北朝鮮軍を支援する中国義勇軍が参戦したため、再び圧迫されてソウルを奪われた。その後激戦の中でソウルを再度奪還したが、戦局は北緯38度線付近で停滞、休戦交渉によってようやく1953年7月27日、板門店で朝鮮休戦協定が成立し、休戦した。朝鮮戦争は、南北朝鮮に大きな被害を及ぼしたが、韓国でも多くの若者が戦死して労働力不足となり、インフラも破壊されて生産力が落ちこみ、その回復が課題となった。四月革命で退陣
朝鮮戦争休戦後は次第に独裁色を強め、いわゆる開発独裁として韓国の復興を進めたが、明確な工業化のプランをもっていたわけではなく、経済成長を実現させることはできなかった。そのため、大衆的な支持を得ることができず、1960年4月19日に独裁政治に反対するソウルの学生運動から始まった民衆蜂起が四月革命といわれる盛り上がりをみせると、それによって大統領辞任に追いこまれた。なお、日本との海上の領海をめぐって争い、一方的な李承晩ラインを設定し日韓間の領海、領土問題でも厳しい姿勢を採った。(引用)第二次世界大戦の終りから1960年まで韓国の政治を支配した李承晩は、まぎれもなく愛国者であった。彼は1898年から1904年までの民族主義運動を理由に投獄されていた。そして国際連盟のような国際機関を舞台に朝鮮人の利益を守ってきた。1908年にハーバード大学から修士号、1910年からプリンストン大学でウッドロー・ウィルソン博士号を取った彼は、日本の同時代人吉田茂と同じような断固とした反共主義者であり、自らを守ってくれるアメリカ人とのつきあいの仕方にたけていた。しかし1945年、彼がオーストリア人の妻と40年ぶりに朝鮮にもどったとき、彼と祖国との社会的きずなはほとんど切れていた。日本の植民地主義者による厳しい支配から突然自由になったものの、進路は定まらず、親共勢力と反共勢力に不運にも二分されるという民族的混乱のなかで、李承晩は権力の保持に必要な決断力と権謀術数の能力をもっていた。しかし、彼には独自の権力基盤がなく、陰謀、脅迫、ひいき、そして日本人に協力したため嫌われていた老練な警察官に依拠して成功したものの、大衆の支持はほとんど得られなかった。蔣介石とは異なり、李は統治に経験を積んだよく組織されたスタッフに恵まれておらず、彼も彼の部下も産業近代化の構想をもってはいなかった。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.65>