天安門事件(第1次)/四五運動
文化大革命末期、周恩来の死去に際し、1976年4月に北京天安門広場で追悼集会を開いた民衆の中から四人組政権に対する反発の声が起こり、政権側が武装警官を動員して鎮圧した。鄧小平はその責任を問われて失脚した。文化大革命終了後、暴動ではなく正しい革命的運動であったと評価が変更された。
1973年3月に中華人民共和国の中央政権に復帰した鄧小平による「全面整頓」と言われる経済再建政策が開始され、文化大革命によって停滞した経済の回復が図られた。1976年1月、鄧小平とともに「農業、工業、国防、科学技術」の「四つの現代化(近代化)」を推進していた周恩来が死去すると、ともにそのリーダーシップに期待していた民衆は不安を募らせ、まず3月下旬に南京で「周総理擁護、張春橋打倒!」というスローガンが貼り出され不満が表出した。張春橋とは四人組の一人で文化大革命を推進する中心メンバーであった。
1976年4月5日、前日の4月4日の清明節にあわせて機運は最高潮に達し、この日、北京の天安門広場の人民英雄記念塔の前に30万とも50万ともいわれる民衆が集まり、献花をし、詩を朗読するなどして周恩来を偲びつつ、次第に四人組批判の声が強まった。それは建国以来初めての、政治に対する民衆の自発的で大規模な「異議申し立て」行為であった。
清明節は中国の伝統的な先祖の供養の期間であったが、四人組政権はそれは「死者を祀る」迷信であり、否定されなければならないと宣伝した。そして清明節に合わせて周恩来を追悼することは「死人を利用して生きているものを押さえつける」(遼寧省幹部で四人組同調者の毛遠新━毛沢東のいとこ━のことば)ものだとして民衆の暴徒と断定し、鎮圧した。これは民衆の中に、反四人組の感情を植え付けることになった。北京での清明節の弾圧の知らせが全国に広がると、各地で抗議の集会やデモが開催された。この天安門事件は鄧小平を失脚させたが、同時に四人組政権に反発する気運を高めることとなった。
現在の中国では、1989年の第2次天安門事件と区別する意味で、「第1次天安門事件」、別称「四・五運動」と呼ばれいる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
1976年4月5日、前日の4月4日の清明節にあわせて機運は最高潮に達し、この日、北京の天安門広場の人民英雄記念塔の前に30万とも50万ともいわれる民衆が集まり、献花をし、詩を朗読するなどして周恩来を偲びつつ、次第に四人組批判の声が強まった。それは建国以来初めての、政治に対する民衆の自発的で大規模な「異議申し立て」行為であった。
鄧小平、再び失脚
事態を重視した中共中央はこの動きを「鄧小平が準備した反革命事件である」と断定し、4日夜から5日にかけて1万の民兵と3000の武装警察を動員して民衆の抗議行動を封じ込めた。7日、中央政治局会議は毛沢東の提案で、華国鋒の党第一副主席兼国務院総理の就任、鄧小平の全職務の解任を決定した。これによって鄧小平は再び失脚した。清明節は中国の伝統的な先祖の供養の期間であったが、四人組政権はそれは「死者を祀る」迷信であり、否定されなければならないと宣伝した。そして清明節に合わせて周恩来を追悼することは「死人を利用して生きているものを押さえつける」(遼寧省幹部で四人組同調者の毛遠新━毛沢東のいとこ━のことば)ものだとして民衆の暴徒と断定し、鎮圧した。これは民衆の中に、反四人組の感情を植え付けることになった。北京での清明節の弾圧の知らせが全国に広がると、各地で抗議の集会やデモが開催された。この天安門事件は鄧小平を失脚させたが、同時に四人組政権に反発する気運を高めることとなった。
文革後の逆転評価
事件がおこった当時は「反革命」とされたこの事件は、1976年9月に毛沢東が死去し、四人組の後ろ盾が無くなって文化大革命の終了を告げたため、華国鋒体制下の1978年11月、「四人組」に対する「民衆の革命的行動」として逆転し、評価されることとなった。現在の中国では、1989年の第2次天安門事件と区別する意味で、「第1次天安門事件」、別称「四・五運動」と呼ばれいる。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>