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四人組

中国の文化大革命期に毛沢東の周辺で実権を振るった江青ら4人の上海グループ。1971年の林彪事件後に権力を奪い「四人組」と称されるようになり、周恩来・鄧小平と対立。1974年には批林批孔運動を進めた。しかし、1976年に毛沢東の死によって権力を失い、1980年から裁判にかけられ死刑・懲役などの判決を受けた。

 1960年代後半から70年代前半、中華人民共和国文化大革命期に、運動を推進した江青(毛沢東夫人)、張春橋、姚文元、王洪文の四人を「四人組」と称した(ただし、四人組と言われるようになるのは1971年の林彪事件以降である)。
 1965年、姚文元は呉晗の史劇『海瑞免官』を、廬山会議で毛沢東を批判した彭徳懐を擁護するものだとの論文を発表したことから、文化面での反革命の風潮に反対するキャンペーンが始まった。これには毛沢東夫人江青が関わっており、江青を通じて張春橋、王洪文らの上海を拠点としたグループが生まれ、彼らは共同歩調を取った。その後も理論と宣伝部門の実権を握り、文化大革命を推進する中枢として活動した。当初は上海グループなどと呼ばれていたが、1971年の林彪事件以降は毛沢東の権威の下で強い発言力を持つようになって「四人組」と言われるようになった。

文化大革命を扇動

 劉少奇鄧小平らの実務派の台頭を資本主義への転化につながり自己の権力を脅かすものと警戒した毛沢東1966年8月1日プロレタリア文化大革命を開始した。毛夫人の江青はそのもとで政治に介入するようになり、紅衛兵を扇動して走資派追求を行った。江青・張春橋・王洪文らは中央文革小組を任され、造反派・紅衛兵に「毛沢東語録」を掲げさせ、各地の文化財の破壊などを行わせた。
 1966~68年に造反派と紅衛兵による大衆運動は最高潮に達し、国家主席であった劉少奇は打倒され、毛沢東の奪権闘争としての文化大革命は一段階を終え、軍を握り毛沢東個人崇拝を進めた林彪が後継者に指名された。江青らは林彪と協力しながら、毛沢東の信任を競う形で結束を強めていった。

林彪事件と「四人組」

 1969年には毛沢東の後継者として指名された林彪が、2年後の1971年9月にはクーデタに失敗してモンゴルで墜落死するという林彪事件がおこった。それによって江青らは実権を握るようになったが、そのころになると毛沢東自身も江青ら上海グループに権力集中を警戒するようになった。このころから、江青・張春橋・王洪文・姚文元の四人は「四人組」と呼ばれるようになった。その周辺には、康生や陳伯達らの同調者がいた。かれらは毛沢東の支持を背景に、自分たちの存在価値は文化大革命の推進にあると信じ、ひたすら革命路線を継承しようとした。
 しかしそれによって多くの人材が失われ、文化財が破壊され、経済がマヒしていた。そのような中国は外交面では中ソ対立が深刻化し、アメリカや日本と接近して外交関係を正常化するという大きな転換期を迎えていた。そのような外交を取り仕切ったのが周恩来であり、毛沢東はさらに国内の経済体制再建の必要から1973年には鄧小平を復活させた。この周恩来と鄧小平の実務官僚の復活は、四人組にとって、文化大革命および自らの権力の危機として捉えられた。

批林批孔運動

 それに対して四人組は批林批孔運動と称して1974年1月に正式に運動として、林彪と孔子を批判する運動を開始した。それは周恩来が林彪の権力奪取の陰謀を「極左」の誤りとして「右からの巻き返し」を狙っていることを警戒し、林彪を「極右」として批判するとともに、その思想的基盤が孔子を源流とする儒教思想にあるとして、孔子を批判するものであった。その意味するところは、かつて秦の始皇帝は法家を保護し、儒家を弾圧したことになぞらえ、周恩来・鄧小平らは儒教的・封建的で保守派の代表であるとして排除しようとしたものであった。

第1次天安門事件

 1975年1月、周恩来は鄧小平と結んで、四つの現代化を提唱し、近代化による国民生活の安定を図る演説をした。四人組はその動きを資本主義への後退であると批判を強めた。ところが1976年1月8日に、すでに病に冒されていた周恩来が死去すると、1976年4月5日、その追悼のために北京の天安門広場に集まった民衆の中から、四人組反対の声が起こり、それを反革命の暴動であると決めつけた四人組が実力で排除するという第1次天安門事件が起こった。毛沢東は、民衆の反政府活動を恐れ、鄧小平を民衆扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。

四人組の逮捕

 1976年9月9日毛沢東が死去したことで中央における権力闘争を一段と激しいものになった。四人組は江青の党主席ポスト獲得を図り、それを阻止しようとする華国鋒ら文革穏健派、李先念ら周恩来系の中間派官僚、王震ら復活幹部グループ、葉剣英ら軍長老グループが反四人組連合を形成した。
 反四人組連合は1976年10月6日、先手を打って王洪文、張春橋、江青、毛遠新らを逮捕、翌7日、中共中央は華国鋒の党主席・党中央軍事委員会主席の就任決定を発表した。翌年には文化大革命の終了を宣言、その後は文革をどう評価するか、その責任はどこにあるかが問われることになっていった。

四人組裁判

 1977年に復活した鄧小平は、華国鋒を追い落として実権を握り、1978年に改革開放政策に転じた。その鄧小平政権の下で、1980年11月に「林彪・四人組裁判」が公開で実施された。判決は、江青・張春橋は死刑、姚文元は懲役二十年、王洪文は無期懲役というものだった。こうして文化大革命の申し子である四人組は敗者となった。
 翌1981年6月27日には中国政府・共産党は「歴史決議」で文化大革命を失敗と総括し、毛沢東の誤りであるとしたが、その責任は毛の周辺で革命を推進した四人組らにあるとして終わった。

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