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プロレタリア文化大革命/文化大革命

1960年代後半からの毛沢東によって提起された中国革命の徹底運動。社会主義建設・階級闘争の後退を危惧した毛沢東が、思想・文化上の反革命的な動きへの批判を呼びかけ、1966年から本格化し、紅衛兵などの大衆的運動が盛り上がり、劉少奇・鄧小平らを実権派・走資派として自己批判を迫った。68年ごろまで守旧派とされた党幹部や文化人が弾圧され、古い思想や文化は否定され多くの文化財が破壊された。71年、毛沢東の後継に指定されていた林彪がクーデタに失敗して墜落死してから革命の継続を主張する江青などの四人組と収束をめざす周恩来、復権した鄧小平らの権力争いが続いて迷走、社会は混乱し停滞した。76年の毛沢東の死去を機に四人組が逮捕されて収束に向かい、再度復権した鄧小平が78年ごろから改革開放政策に転換させ、81年に歴史決議を出して文化大革命を総括、それを誤りであったと断定した。

 中国のプロレタリア文化大革命(無産階級文化大革命、単に文化大革命、略して「文革」ともいう)は中華人民共和国が建国からわずか17年後の1966年に始まり、ほぼ10年に渡って続いた歴史的過程である。その発動が毛沢東という権力者個人にあったことは確かであり、その権力を守るため彼が敵であると規定した人物を排除することをめざした政治的な権力闘争であったので、たしかに革命であったともいえる。また、「プロレタリア(無産階級)」という語が添えられていたことに示されているようにその意図したことは階級闘争であったことも明らかである(※注)。さらにあえて「文化」を冠しているように、思想や芸術、広い意味での文化の転換を求めた変革でもあった。それらを評価しない立場からは単なる暴動、混乱としか捉えられないだろう。このようにこの歴史的事象をどうとらえるかは、立場によってさまざまであるが、この文化大革命を経ることによって、社会主義の建設を目指した中国が、現在のような共産党の一党独裁は継続しながら資本主義的な経済大国に変身するという大変革がもたらされたことは事実である。
※注 毛沢東はこの間、一貫して「階級闘争」ということばを使った。当時の中国共産党の公式見解では、建国後の社会主義建設は第1次五カ年計画によって順調に進み資本家や地主などのブルジョワ階級はほとんど打倒されている、というものだったから、いまさら階級闘争が強調されることに多くの人(特に日本で)が違和感を感じた。しかし毛沢東は、ブルジョワ階級は完全に打倒されたわけではなく、党の官僚や知識人などの上層部に常に再生産されると考えたようだ。その意味では革命はある段階で終わるのではなく、常に社会の上層部のなかに再生産されるブルジョワとの戦いが続く、つまり永久革命が必要なのだ、と考えたのである。

文化大革命までの中国

 中国共産党毛沢東の指導のもと、日中戦争と国共内戦を勝ち抜き、1949年に中華人民共和国を建国した。毛沢東は全権力を集中させ、朝鮮戦争の危機を乗り越えると、1958年「大躍進」運動を号令し「社会主義建設」を本格化させようとした。それはソ連型の社会主義建設ではなく、中国独自の方法による工業化(土法)と人民公社による農業の集団化を柱としていた。しかし、大躍進はかえって生産力の低下をもたらし、農民の耕作意欲も奪ったため、天候不順なども要因となって、1959年から61年にかけて大飢饉が起こった。大躍進政策の評価をめぐって共産党に亀裂が入り、1959年に毛に代わって国家主席となっていた劉少奇と、実務官僚のトップにいた鄧小平は毛沢東の社会主義建設路線を転換させようとした。1962年1月~2月の中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)で毛沢東は公式に大躍進の失敗を認め、いわゆる調整政策という資本主義的要素も取り入れた経済政策が開始され、生産力も回復の兆しを見せ始めた。しかし、国家主席を退いたものの共産党の実権を手放さなかった毛沢東は、この間、巻き返しを狙い、劉少奇・鄧小平らを追い落とす策略を練ったものと思われる。そのような情勢の中で、1966年に動き始めたのが、まず「文化」面での毛沢東の奪権戦略である「文化大革命」であった。

始まりと終わり

 中華人民共和国を根底から揺るがした文化大革命は、建国わずか17年後の1966年に始まり、ほぼ10年を経て1976年に終わったとされるのが一般的であるが、その始まりや終わりが特定の年月日で記憶さているわけではなく、同時代に生きていた人びと(特に中国と国交がなく情報がなかった日本では)いつ始まっていつ終わったのかも定かではなかった。始まりについては、1965年からさまざまが動きが始まっているが、公式的には、1966年8月1日~12日の中国共産党第8期第11回中央委員会が開催され、5日に毛沢東が大字報「司令部を砲撃せよ」を発表して劉少奇・鄧小平の路線を批判し、8日に会議が「プロレタリア文化大革命についての決定」を採択したことを始まりとしている。
 革命はまた徐々に高まったのではなく、1966年に一気に最初の盛り上がりがきた。実権派と言われた人々やブルジョワ的であるとされた人々が大衆の前に晒され、自己批判を迫られ、その多くが死に追いやられた。激しい紅衛兵の活動に象徴される暴力的な動きは、1969年ごろまでで一段落し、1969年4月に共産党は毛沢東の後継に林彪を指名したものの、1970年代に入ると林彪事件が起こり、代わって鄧小平の復活、四人組の台頭という新たな情勢となるが、それを調整する周恩来の立場もゆらぎ、毛沢東自身の判断力も衰えるなど、文革後半期の混迷が深まり、路線をめぐってめまぐるしく政権を争う様相となる。
 毛沢東の死んだ1976年の、10月6日に文化大革命を推進した四人組が逮捕されたことが実質的な終点であるが、公式には1977年8月、中国共産党第11回党大会で華国鋒が文化大革命の終了を宣言した時点とされる。

文化大革命とは

 文化大革命とは何か、という問に明確に答えるのは困難であるが、一つのとりかかりとしてここでは次のまとめを引用しておく。
(引用)プロレタリア文化大革命(文革)とは、広義には1965年、ないしは1966年から1976年の毛沢東の死に至る時期に見られた、毛の理念の追求、ライバルとの権力抗争といった政治闘争に加えて、それらの影響を強く受けながら、大嵐のごとき暴力、破壊、混乱が全社会を震撼させ、従来の国家や社会が機能麻痺を起こし、多くの人々に政治的、経済的、心理的苦痛と犠牲を強いた悲劇的な現象の総体を称する。文革の犠牲者は、正確にはわからないが死者一〇〇〇万人、被害者一億人、経済的損失は約五〇〇〇億元とも言われるほどであった。狭義には、66年から69年の中共第九回全国大会までの中央から末端に至る、「紅衛兵」、労働者、農民らをまきこんだ激しい政治闘争を指す。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 p.58>

(1)国際的な背景

 中国の文化大革命を考える際に、中国内部の動きだけに目が行きがちだが、当時中国をとりまく国際環境は非常に厳しいものがあり、中国と中国共産党を取り囲む外交上の情勢も文化大革命と密接に結びついていた。また文化大革命の約10年の間に中国の外交は大きく変化している。高校教科書の説明では文化革命の説明と中ソ対立、アメリカとの国交回復などが別事項として扱われるが、それらは密接に関係しているので、年表などを見ながら、考えていこう。
ソ連との関係悪化 1956年、ソ連のフルシチョフ政権はスターリン批判を行い、その個人崇拝と粛清の実態を明らかにし、アメリカなどとの冷戦における敵対姿勢を批判、平和共存を打ち出した。このショックはただちに東欧諸国に及び、ポーランドハンガリーで自由化を求める動きが強まった。当時毛沢東は1954年からの第1次五ヶ年計画でソ連型の工業化と集団化を進めようとしたので、ソ連のスターリン批判や東欧の自由化運動は社会主義革命を後退させるものと、強く危機感を感じた。それが1958年5月から開始した大躍進運動で、ソ連に依拠しないで独自の工業化と集団化を進めようとした理由だった。フルシチョフは中国の大躍進運動を空虚な冒険主義と批判し、中ソ技術協定破棄を通告、中ソ対立はさらに深刻化した。
アメリカとの関係悪化 さらに同じ時期に中国は、アメリカとの1958年をピークとする金門・馬祖砲撃などの台湾海峡危機をかかえ、国際的孤立に陥っていた。そのため中国は自力での核武装に邁進し、1964年に初の原爆実験を成功させた。そのようなとき、アメリカ軍がトンキン湾事件をかわきりに北ベトナム空爆を開始、ベトナム戦争が本格化した。この中国に隣接し、社会主義を建設しようとしている北ベトナムの危機は、中国にとって最大の危機の到来と受け止められた。
アジア情勢の悪化 アメリカ・ソ連の二大国と対立した中国はアジア・アフリカ諸国との連携を強めアジア=アフリカ会議を推進し、とくにインドとは1955年以来良好な関係を持っていたが、1959年のチベット反乱を契機としたインドとの対立は1962年に中印国境紛争にエスカレートしていた。第二回のアジア・アフリカ会議をアルジェリアのアルジェで開催する予定であったが、1965年6月18日にクーデタによってベン=ベラ政権が倒されたため無期延期となり、中国の国際社会での活躍の場が失われた形となった。また周恩来とともに第三世界の結束を強めるためのアジア=アフリカ会議の推進に努めていたインドネシアのスカルノ大統領が、1965年9月の九・三〇事件で実権を失い、インドネシア共産党が崩壊したことも、中国共産党にとって大きな衝撃であった。中国はインドネシアと国交を断絶した他、インド、タイ、マレーシア、ビルマ、フィリピンとの関係も悪化し、66年3月にはそれまで友党として関係の深かった日本共産党ともソ連との関係、社会主義への移行などをめぐって意見が対立し、決裂した。<馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』2018 平凡社新書>
 1958年から1966年までの中国は、以上のように厳しい国際関係の中に置かれ、社会主義国家建設をめざす共産党は国際的孤立の中で、自力更生を迫られるという状況だった。そのような情勢の中、1966年に文化大革命が始まるわけであるが、国家の方向性をめぐる深刻な対立に陥りながらも、中国の核実験が進められ1967年には水爆の実験をも成功させていることは一見矛盾するようだが、その置かれた国際環境を押さえることで理解できる。

(2)文化大革命の発端 1965/11~1966/7

『海瑞免官』批判から始まる

 1965年11月10日、上海の新聞『文匯報』(ブンワイホウ)に文芸評論家姚文元(ヨウブンゲン)が「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という文を発表した。『海瑞免官』は北京副市長で歴史家である呉晗(ゴガン)の書いた歴史劇で、海瑞(カイズイ)とは明代の役人で農民の苦しみを見て政府に訴えたが逆に皇帝によって罷免された人物であった。姚文元は、海瑞を廬山会議大躍進運動を批判した彭徳懐と見立てて、それを罷免した皇帝を毛沢東と思わせて暗に批判しているものだ、と呉晗を非難したのだった。実は、1961年に初演されたこの芝居を見た毛夫人の江青(もと女優で演劇界に通じていた)が、毛沢東にその内容を話し、それが自分への批判になることを恐れた毛沢東が姚文元に論文を書かせたのだった。姚文元論文は『人民日報』などに転載されると、賛否両論が沸き起こった。しかし、年末から翌年にかけて、他の幾つかの文芸作品に対し、ブルジョワ的立場に立ちプロレタリア階級の階級闘争に障害があるという批判が相次いで出され、文学だけでなく史学、哲学、法学、経済学どの分野に及んでいった。毛沢東も学術においても革命が必要だと述べ「文化革命」を提唱したが、多くの人はそれが社会全体に及びものとは思わなかった。
5.16通知 ところが、1966年5月16日、共産党中央政治局拡大会議で毛沢東は中央文化革命小組を設置し、ブルジョワ思想や修正主義の取り締まりにあたることを提起した。この毛沢東が自ら起草した5.16通知で初めて「プロレタリア(無産階級)文化大革命」という旗を掲げることが示された。同時に問題となったのが北京市の当局者彭真が、海瑞免官批判記事を北京の新聞に転載することに反対したことだった。5月23日の政治局会議で彭真は反革命思想を持つ「反党グループ」であるとして職務を停止された。おなじころ総参謀長羅瑞卿は人民解放軍で林彪と対立したため厳しく批判され、ビルから飛び降りて自殺を図り命をとりとめたが骨折した。中央書記処書記の陸定一はかつて大躍進で餓死者が出たことに疑義を呈したことがあったため、ブルジョワとの妥協を図ったとして解任された(陸定一の夫人が林彪との関係が悪かったことが直接の原因とも言う)。いずれも党内の上級幹部が社会主義路線を修正しようとしている、と毛沢東に睨まれたわけだが、毛沢東は彼らを実権派と呼び、その背後に劉少奇鄧小平がいると睨んでいたのだった。
学生運動と紅衛兵の出現 学者や作家、党の上級幹部に対する批判は、たちまちのうちに下部に広がっていった。1966年5月、北京大学・清華大学など北京の大学では学生によって毛沢東を支持する大字報(壁新聞)が大量に張り出され、学長などの大学幹部を批判した。北京大学では聶元梓(ジョウゲンシ、女性)が学長陸平を激しく攻撃し、清華大学では化学科の学生蒯大富(カイダイフ)がリーダーとなった。1966年5月29日、北京の清華大学附属中学(日本の中学・高校)の中学生のなかから、腕に赤い腕章を巻いて毛沢東思想に従って戦うことを鮮明にした紅衛兵が登場、それは全国の大学生・中学生に広がっていった。これらの動きに対し毛沢東は学生運動・紅衛兵を支持し、「20世紀のパリ=コミューンだ」と称賛した。

劉少奇・鄧小平への攻撃開始

 5月28日、中央文化革命小組(略称文革小組)が活動を開始、組長は陳伯達、顧問は康生、副組長は江青、張春橋ら、組員に王力、戚本禹、姚文元など、これ以降の文化大革命を推進する中心メンバーがそろった(まだ四人組とは言われていないが、この組織が文化大革命の指導的中枢となる)。北京市党委員会を押さえていた劉少奇や鄧小平は、各大学に工作組を派遣して沈静化をはかったが、かえって学生の反発を受け、運動は広がっていった。特に劉少奇夫人の王光美が率いた工作組が、清華大学に派遣され、多数の学生を「反革命」に仕立てて弾圧しようとしたことから、紛糾が激化した。6月24日、清華大学附属中学に「プロレタリア階級の革命的造反精神万歳」という大字報が現れると、毛沢東は彼らに手紙を送り、「造反有理」の語を使って支持を表明、劉少奇らはかつての北洋軍閥や国民党と同じように学生運動を弾圧していると非難した。その非難の矛先には、学生の運動を抑えるために工作組を派遣した劉少奇に向いていた。
(引用)毛沢東のこのような厳しい批判を予想だにしなかった劉少奇は、頭を一発殴られたような衝撃を感じたが、まだ毛の真意をはかりかねていた。……工作組派遣も毛沢東の許可と指示で行ったことだ。毛沢東が工作組は方向的に間違いを犯したと言った以上、劉少奇は全力をあげてこの事態を挽回しなければならないと考えた。彼は即座に命令を下し、工作組に反干渉を止めて「黒い仲間打倒」へと方向転換するように命じた。王光美がいた清華大学と張承先のいた北京大学がまずこれを実行した。大衆の激しい反工作組感情に対して、劉少奇は工作組が体面を保ちつつゆっくり後退することで文革全体の情勢が沈静化することを望んでいた。このとき毛沢東は文革小組のメンバーを使って学生間で活発に運動させ、工作組の問題で劉少奇と大衆の対立をさらに激化させるよう目論んでいた。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.38>
 7月26日、毛沢東は文革小組のメンバーに対して、工作組派遣は誤りであったとしてその撤収を命じた。7月29日には人民大会堂で大学生と中学生の集会が開催され、劉少奇、鄧小平、周恩来も出席、工作組派遣が誤りであったことの反省を表明、最後に毛沢東が現れ、参加者と会見、群衆の興奮は最高潮に達し「毛沢東万歳!」の声が響くなか、毛沢東は退場した。おそらく悠然たるものがあったであろう。それに対して、劉少奇の国家の元首で党の副主席であるという権威はどこかへいってしまった。<竹内実『毛沢東』1989 岩波新書 p.160>

Episode 毛沢東、長江を泳ぐ

 それより前の7月16日、杭州から北京に帰る途中の毛沢東は、長江(揚子江)で遊泳した。この模様は世界中に「毛主席、長江をゆうゆうと15キロ近く泳ぐ」と報道され、『人民日報』は「毛主席のあとにしたがって大きな風波の中を前進しよう」と社説を掲げた。当時73歳の毛沢東が長江を泳ぐ姿は日本の新聞でも報道されたが、単に元気な姿を見せただけではなく、これから始まる文化大革命の激動を乗りきろうという闘志を秘めていたことまでは日本では誰も分からなかったのではないだろうか。

(3)文化大革命の展開 1966/8~66/12

司令部を砲撃せよ

文化大革命

ハルビン市の紅衛兵集会にひきだされた黒竜江省党第一書記

 1966年8月1日から12日まで北京で中国共産党第8期中央委員会第11回総会(11中全会)が開催された。8月1日は人民解放軍の創立記念日で、創設39周年にあたっていた。会議には毛沢東・林彪派と劉少奇・鄧小平派双方が参加し、劉少奇は自分の行動を弁解する発言をしたが、毛沢東の発言を批判することはなかった。毛沢東の発言は決定であり、最高指示であった。この日を境に毛沢東と劉少奇の対立は誰の目にも明確となった。
 5日には毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題する大字報を発表して、劉少奇・鄧小平を名指しはしなかったものの、大躍進運動を批判したのは「反動的ブルジョワ階級の立場に立ち、プロレタリア革命を否定することだ」として「形式は左で内容は右」の誤った動きである、と最大級の非難を浴びせた。
8期11中全会決議 1966年8月8日に11中全会は「プロレタリア文化大革命に関する決定」という16条を全員一致で採択し、中国共産党が新たな革命に取り組むことを明確にした。この革命の目標として掲げられたポイントは次の二点だった。
  • 資本主義の道を歩む実権派を叩き潰す(実権派とは名指しはされていないが劉少奇・鄧小平を指す)。
  • 旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣面の「四旧」を打破し「四新を創造」することと、大衆の選挙による新しい権力機構の創設。
つまり、プロレタリア階級による階級闘争をめざし、資本主義への逆戻りを許さず、そのための実権派から権力を奪うこと、同時に全面的な文化・社会・政治の変革を目指すことがプロレタリア文化大革命である、と明示されたのだった。なお、2項目の「大衆の選挙による新しい権力機構の創設」は、結果的には実現しなかった。

権力闘争へ

 それを受けて江青らは、ブルジョワ階級を代表する劉少奇・鄧小平らの司令部と、プロレタリア階級を代表する毛沢東らの司令部の二つの司令部は並び立たず、ブルジョワ司令部は打倒すべきだと述べた。劉少奇・鄧小平につながるものとして、朱徳(延安以来の毛沢東の同志で紅軍の指揮官)、陳雲(紅軍の将軍)、鄧子恢、薄一波なども批判された。その結果、共産党政治局序列では劉少奇は第二位から第八位に降格、林彪が第二位に昇格し唯一の副主席となった。周恩来は文化大革命支持の立場を明らかにし、その後も党常務委員で毛沢東・林彪に次ぐ第三位を保持した。鄧小平はこの段階では毛支持を表明し、常務委員として生き残っていた。
 対外政策では、アメリカ帝国主義は全世界人民の共同の敵であるとし、ベトナムを全面的に支援するが、ソ連の指導部はマルクス・レーニン主義を裏切り修正主義を推進しているので断固反対、また米ソ協調を押し進めているとしてベトナム支援でのソ連との共同行動はとらない、と論じた。そこでは「毛沢東思想は現代の偉大なマルクス・レーニン主義であり、全党・全国人民のすべてで学習しなければならない」と強調された。

高揚する文化大革命

 1966年8月、北京で開催された11中全会で「プロレタリア文化大革命に関する決定」がなされたことと並行して、文化大革命を支持する紅衛兵が続々と北京に集結、天安門広場で大集会が繰り返して開催された。1966年8月18日、天安門広場で「文化大革命祝賀大会」と銘打った集会が開催され、約百万の大群衆を前に壇上には毛沢東が登場して紅衛兵を激励した。この壇上から林彪は毛沢東を「偉大な指導者、偉大な教師、偉大な統帥者、偉大な舵取り」と持ち上げ、これ以降毛沢東を「四つの偉大」とする神格化が定着した。集会後、紅衛兵は隊列を組み、踊りながら市中を行進し、市や各種団体で権力をふるっていた人物を実権派、資本主義に走ったゆたかな商人などを走資派、古い儒教思想を教える学者や仏教寺院の僧侶を守旧派として批判集会に引っ張り出し、自己批判を迫って断罪した。これらの高い地位にあり、社会でも尊敬される立場であった者が反革命とされて、三角帽子を被せられ、引きずり回され、暴力をふるわれた。そのため自ら命を絶った者も含め、多くの犠牲者が出た。彼らは自らの行為を「造反有利、革命無罪」という理屈で合目的化し、自らを奮い立たせたのだった。
紅衛兵の破壊活動 このような紅衛兵の動きは、1966年夏から、67年、68年と続き、北京だけでなく、上海などの都市、さらに農村部までまで広がっていった。北京や上海に全国から集まってくる紅衛兵には、その旅費と食事代が国から支給されるなどの優遇措置が取られていた。
(引用)紅衛兵の威力が発揮されたのは、8月20日の夜であった。日本の新聞は、北京きっての繁華街・王府井(ワンフーチン)では「破壊と混乱の嵐が吹き荒れた」と報じた。紅衛兵の若者たちは老舗や道路の名前を封建的、ブルジョワ的であるといって、はしごやハンマーで勝手に看板を壊し、改名し始めた。たとえば、「東交民巷」を「反帝路」に、「王府井」を「革命大路」に、ロックフェラー財団が創立した「協和医院」を「反帝医院」にし、医師たちはブルジョワ思想をもち、高給をとり、ぜいたくな生活をしていると、一般民衆の前で紅衛兵たちに非難された。
 多くの知識人の家宅捜索が行なわれ、家具や書物が紅衛兵によって没収され、著名な大学教授や文学者が「妖怪変化」の名札をぶらされげられて、街を引きずりまわされ、闘争大会で侮辱され、批判を受けた。こうした苛酷な迫害の中で多くの人が犠牲となり、小説家の老舎もその一人であった。このころから定期刊行物など多くの出版物の発行が停止された。<安藤正士・太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』1986 岩波新書 p.60-61>
一文学者の受難 中国現代の作家としても高名な老舎は、『駱駝祥子(らくだのシャンツ)』などで日本でもよく知られていた。その作品は北京(北平と言われた頃の)の庶民生活を一人の車夫を通して描いた作品、中国の現代文学では魯迅とともに高く評価されている。その老舎が文化大革命の犠牲になった。1966年8月23日に一気に高揚した文革の中で、老舎は「反革命分子」として紅衛兵によって批判集会に引きずり出され、殴られて頭から血を流し、昏倒した。すると態度が悪いという理由でさらに虐待が深夜まで続いた。翌朝、傷だらけの体で家に帰りつき、カラカラになった喉を一杯の水でうるおしただけで、北京市内の太平湖で入水自殺した。8月24日、享年67歳だった。なぜヤリ玉に挙げられたのかというと、彼はかつて『北京文芸』の編集責任者であったことがあり、1961年1月号にプロレタリア文化大革命の発端となった呉晗の『海瑞免官』を掲載したことがあった。そのことからいわれのない罪の追求をうけたのだった。<老舎/立間祥介訳『駱駝祥子』1980 岩波文庫 解説 p.404 などによる>
紅衛兵運動を動かした力 このようなつるし上げを受けたのは老舎だけでなく、女流作家丁玲は書きかけの原稿を没収され、巴金も家に乱入されて妻が殴打され、フランス文学の翻訳家傅雷は軟禁された上で夫婦で自殺し、画家劉海粟は書画のコレクションを奪われるなど数知れない。さらに紅衛兵は仏教寺院を襲撃して仏像を破壊した。山東省曲阜の孔子廟には北京師範大学の集団が押しよせ、孔子像とその墓を粉々に砕いた。
 このような人命・人権を無視した行動、文化財を破壊する行動は、彼らの自発的な意志から行われたのだろうか。子細にその動きを見ていくと、紅衛兵の集団行動は必ず文革の指導部である文革小組(江青や張春橋、康生、陳伯達ら)の発した指令に基づいており、さらにそのもとには毛沢東か林彪の「お墨付き」があってのことだった。彼ら指導部は自らは手を汚さず、紅衛兵や造反派の労働者の暴力行為を激励、支持、容認していた。しかし、やがて運動は彼らの思惑をはずれ過激化の様相を呈していく。するとそれをコントロールするようになる。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.56~ は、詳細にその経過を語っている。>

Episode 忠の字おどり

 文化大革命は庶民の生活にも様々な影響を与えた。文革開始間もなく、だれもが小さな赤い本「毛沢東語録」をもち、毛沢東バッジをつけ、朝晩、語録を朗唱したり、それに節をつけた語録歌を歌った。中には「忠の字踊り」や「忠の字豚の飼育」などといった奇々怪々なこともあった。
(引用)「忠の字踊り」とは「毛沢東語録歌」のメロディーに合わせて体を揺らし、腕を伸ばしたり足を動かしたりして、指導者に対する忠心をあらわすものである。最も熱狂的だったときには、老若男女の別なくみなが踊らなければならなかった。かつて瀋陽駅では忠の字踊りを踊らないと汽車に乗せてもらえないという事態が起こり、じいさんばあさんまでが従わざるを得なかったことがある。<厳家祺・高皋『上掲書』 p.244>
 「忠の字豚の飼育」は、貴州省の特産の豚の額の毛を刈り込んで「忠」の字を浮き上がらせ、豚にも忠心があることを示したことを言う。このような「文化の強制」は王朝時代の弁髪や纏足に変わりはない。それが「四旧打破」を唱える紅衛兵たちがやったこととはとても思えないが、現実のことだった。

紅衛兵の分裂と先鋭化

 「四旧打破」を叫ぶ紅衛兵の暴力行為に晒された共産党の幹部の中に、次第に反発が強まり、各地で武装した反紅衛兵の民衆と衝突事件も頻発した。紅衛兵は北京の中央文革小組の指導のもとで、北京、ハルビン、西安、上海などで連絡ステーションを設けて反紅衛兵派との闘争を進めたので、流血事件は全国に波及、対立は深刻になっていった。共産党地方幹部の中には労働者を組織して紅衛兵に対する抵抗を試みた者もいたが、紅衛兵運動は毛沢東と中央の革命推進派の保護によって半ば公認で実権派告発と破壊活動を進めていった。
 運動が先鋭化する中で、紅衛兵の内部にも組織問題が起こってきた。8月には組織条例を作り、紅衛兵は労働者、農民、兵士、革命幹部、革命烈士の「紅五類」の子弟の中の先進分子によって構成されるとし、旧地主、旧富農、反動分子、悪質分子、右派分子の「黒五類」の子弟は紅衛兵になれない、と規定した。このような出身血統主義原理に対して、文革の理念に反するという批判も起こったが、両親の政治的行動を個人の記録として公安機関に保存され、それによって就職や地位が決定されるという制度が定着していった。
 「黒五類」が加わるようになった紅衛兵運動は、内部対立という矛盾を含みながらますます先鋭化した。中央文革小組は紅衛兵運動をコントロールするため、11月での集会を続けて開催し、毛沢東・林彪が接見して彼らの忠誠心を鼓舞するとともに沈静化を図った。11月25,26日に250万人を集めて最後の紅衛兵集会とし、紅衛兵たちにこれ以後は現地に帰って革命を行うこと、列車など各種交通機関で北京に来ることを停止、12月20日までの現地への旅費は無料とするが、それ以降は自弁とするなどの通達を出した。こうして紅衛兵運動は、最初の盛り上がりを終えるとともに、地方での造反派どうしの対立や紅衛兵どうしの武闘へと変質していく。<安藤・太田・辻『同上書』 p.63-70>

劉少奇と鄧小平の自己批判

 共産党中央の文革推進派は、紅衛兵運動に対する反発が強まるのを抑えるためにも、革命運動の徹底を図る必要を感じ、1966年10月9日~28日、中央工作会議を開催した。その会議で中央文革小組組長の陳伯達は基調報告を行い、文化大革命では毛沢東の大衆解放路線が正しく、紅衛兵運動を批判するのはブルジョワ反動路線であると決めつけた。同時に紅衛兵を出身階級によって区別するのも誤りとして、「黒五類」の参加の道も開いた。
 この会議では、劉少奇と鄧小平は正式な自己批判に追いこまれた。劉少奇は1962年に大躍進の総括にあたり、それを失敗と断定して調整政策を実施、人民公社を弱体化させたのは右翼的な誤りであったと認め、その他の政策的誤りを自己批判し、毛沢東と林彪、陳伯達の指示を全面的に受け入れると表明した。鄧小平も陳伯達の報告を認め、劉少奇と自分が反動路線を代表しているとして二人の誤りを徹底的に自己批判し、毛主席のプロレタリア階級路線に全面的に従うことを表明した。
 しかし、この会議では二人の自己批判は認められず、追求はさらに続いた。同年末の12月27日には北京の工人体育館で十万人の紅衛兵が集まり、劉少奇・鄧小平批判大会が開かれ、二人は徹底的な攻撃を受け人格を否定され、極度の消耗に陥った。このころには人民日報も多くの壁新聞も「反動的ブルジョワ路線を歩む劉少奇・鄧小平打倒」を公然と掲げ、毛沢東の革命の第一目標がこの二人にあることが世界中に示された。

(4)文化大革命の混迷 1967~1968

反文革の動き

上海コミューンの混乱 上海では1967年1月、北京から派遣された紅衛兵と、現地の造反派労働者を組織した王洪文らが、共産党上海市委員会が賃上げ要求を掲げストライキをしている労働者を容認しているのは経済主義で文化大革命の路線と対立するとして攻撃し、混乱状態に陥った。2月初め、造反派は市の権力を掌握して上海人民公社(上海コミューン)を樹立した。北京の中央文革小組の陳伯達、江青らは上海コミューンを支持、同様な奪権闘争は黒竜江省や山東省でも起こった。毛沢東も上海の造反派を称賛したため、各地の造反派による奪権闘争が広がった。上海コミューンは2月23日、上海市革命委員会に改称され張春橋が主任となった。それ以後革命的な大衆、軍人、幹部の三者が結合した「革命委員会」が各省単位で新たな権力機構を形成していった。それに対して造反派を批判する労働者も多く、彼らは上海ディーゼル機械工場を拠点に連合組織を作って抵抗した。両派はそれぞれ武装して闘争を繰り広げたが、王洪文は8月4日、ディーゼル機械工場に対する総攻撃を決行し、クレーン車や放水車を動員してようやく鎮圧した。
 この上海で始まった「一月の嵐」と言われた武装闘争の波は全国の造反派に広がり、労働者どうしが殺し合うセクト闘争へと変質していった。一部では機関銃や迫撃砲まで使用されて犠牲者が増加、内戦さながらの武装闘争は1970年ごろまで各地で続き、無数の犠牲者が出た。
 同時に毛沢東と党中央は秩序維持のための一連の措置として、軍の政治への全面的な介入を決定し、それまでの軍が文化革命に介入することを禁じた措置を取消、「軍は必ず断固として、プロレタリア革命派の側に立ち、断固としてプロレタリア革命左派を支持し、援助しなければならない」と通達した。
二月逆流 文化大革命の激化に対して共産党の毛沢東・林彪以外の元老たちは、当初困惑していたが、次第に抵抗するようになり、一時は激しく反発した。1967年2月16日、周恩来が懐仁堂で打合会を開催すると井崗山以来の革命幹部である譚震林や陳毅が口々に文革の行き過ぎを非難した。元老たちが騒いでいることを知った毛沢東は癇癪を爆発させ、「俺は出ていく。林彪も出ていく!陳伯達、江青を銃殺すればいい!……(文革を押さえるのに)それでも足りないと思うなら、思い切ってアメリカとソ連に一緒に来てもらえ!」と怒鳴った。元老たちの反撃は「二月逆流」といわれて、地方の党組織をうごかし、各地で造反派弾圧が行われ、軍も出動する事態となった。この官僚と軍による造反派弾圧に対して毛沢東はそれらを「反革命」と断じ、さらに大衆動員を強めて反撃した。<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.19>
 4月以降は二月逆流への反動が始まり、再び劉少奇・鄧小平ら実権派批判が盛んとなった。9月には中南海(北京の党上級幹部居住区)からの「反革命分子」「黒い集団」の一斉追放が決定され劉・鄧らの家族も追放されたが、このとき副総理習仲勲を父にもつ習近平も反動学生とされ69年から7年間、陝西省の農村に下放された。<天児『同上書』2013 p.75>
武漢事件 1967年7月20日、武漢で保守派組織「百万雄師」と造反派が衝突し、滞在中の毛沢東が上海に難を避けて逃れる、という事件がおこった。百万雄師は武漢の軍と保守派が結成した反文革勢力であり、造反派を虐殺するなど流血事件を起こしていた。毛沢東は自ら武漢問題を解決しようと乗り込んだが、7月20日、保守派は軍の一部も加わって武装し、大デモを組織、造反派の学生を捕らえ、毛沢東の滞在する東湖賓館に押しよせた。毛の周辺は緊迫し、周恩来は飛行機を手配、急いで脱出して上海に逃れた。北京に戻った毛沢東は歓迎集会に迎えられ、直ちに武漢の反乱部隊鎮圧を命じた。その結果、「百万雄師」は解体され反乱は鎮圧されたが、各地の造反派大衆組織も武闘を繰り広げ、8月22日には北京のイギリス代理公使事務所が焼き打ちされるなど、エスカレートした。毛沢東はこの事件をうけて軍の掌握と同時に紅衛兵などの過激な運動もコントロールする必要があることを痛感し、9月16日は「革命造反派のリーダーと紅衛兵の若者に、今やまさにお前たちが誤りを犯すかも知れない時だと告げねばならない」と述べた。<楊継繩『同上書』 p.21-23>

劉少奇・鄧小平の失脚

 毛沢東の狙いであった劉少奇・鄧小平からの奪権は1966年12月までにほぼ達成されたが、現実に国家の最高の地位である国家主席を権力の座から追い落とすために、さらに徹底した批判が加えられた。1967年2月の党長老たちの二月逆流や、反造反派の武漢事件を抑えつけた毛沢東は劉・鄧打倒を徹底しなければならないことを決意し、毛沢東を支える勢力が林彪と文革小組の江青、張春橋、陳伯達、康生たちであることが明確になった。二月逆流に対する反撃によって葉剣英、陳毅、徐向前、賀竜などの戦前からの将軍連中を黙らせた彼らの矛先は最後の劉少奇・鄧小平に向けられた。
 1967年4月1日には『人民日報』は初めて劉少奇を「党内最大の実権派、中国のフルシチョフ」と名指しで批判する記事を掲載、それは毛沢東・林彪・江青らの最後の攻勢が始まったことを意味していた。この間、劉少奇の家族に対する陰湿な嫌がらせが続いた。同年8月5日は天安門広場で百万人を集めて劉少奇・鄧小平・陶鋳らを非難する集会が行われた。この時点でも劉少奇はまだ国家主席であったが、国家の最高位にある人物としての尊厳はすでに奪われていた。
 1968年10月には劉少奇は国家主席その他のすべての役職を解任され、共産党からの「永久除名」となった。すでに衰弱が進行していたが北京から追放されて開封に送られ、翌69年11月に事実上の監禁状態のまま、病死した。鄧小平は除名ではなく、留党監察とされた後、トラクター工場などでの労働に従事した後、73年に最初の復活を遂げる。国家主席劉少奇を倒したことで毛沢東の奪権闘争という目標は達成できたと言えるが、代わって林彪が毛沢東の後継者とまで言われるようになる。

文革の曲がり角

林彪・江青の台頭  混迷の中から生まれた革命委員会は1968年のチベットと新疆を最後に全国の省、自治区に成立した。それは革命的大衆、軍人、幹部の三者が結合した権力機構として作られたが、現実にそのトップ(主任)や委員になった者は軍人が多かった。中央では劉少奇・鄧小平は年内に完全に失脚し、その系列の古参幹部も多くが姿を消し、毛沢東のもとで権力の中枢に坐ったのは林彪と毛夫人江青であり、中央文革小組のイデオローグがそれを支えた。またこの年から毛沢東は秩序回復を目指し、紅衛兵急進派や武闘派などに対する抑圧策に転じた。7月27日には労働者・兵士からなる「毛沢東思想宣伝隊」が組織され、紅衛兵運合の中心だった清華大学に進駐し、急進派のリーダー蒯大富(カイダイフ)らの抵抗を排除して制圧した。翌日、毛沢東・林彪・周恩来は各大学の紅衛兵の指導者を召集して、武闘の停止を命じた。これによって紅衛兵運動は沈静化に向かい、多くの若者は労働体験に取り組むために農村に向かった(この動きを下放といった)。
 こうして1968年は毛沢東自身による文革の収束が図られた年であったと言える。同時に毛沢東は劉少奇・鄧小平から奪った権力を、自己のコントロールの下で次に誰に補佐させようかと具体的に考え始めた。そこで明確に浮上したのが、毛沢東への個人崇拝を臆面もなく掲げた林彪と、毛沢東の妻であるという立場をフルに活用してのし上がった江青の二人だった。しかし、この二人の登場は文化大革命を終結させるどころか、さらに混迷させ、長期化させる曲がり角となった。
上山下郷運動 1968年12月、『人民日報』は毛沢東の「知識青年が農村に行って貧農・下層農民の再教育を受けることは必要である」という言葉を発表した。毛首席の言葉に従うことが革命であると信じた多くの青年が、その日のうちに荷物を背負い農村に向かった。この「上山下郷運動」は翌69年から本格化し、まだ卒業していない学生たち、まだ幼い中学生までもが家長の願いに頑なに背き、農村や生産建設兵団に参加するために都会を後にした。この動きは文革終結後も続けられたが、現地での生活は決して平坦ではなかった。
 1968年夏の中国の若者の状況について、文化大革命の時期に青年時代を送り、後に中国民主化運動に加わった厳家祺げんかき高皋こうこう夫妻は、30年後に振り返って著書で次のように述べている。
(引用)1968年夏、文革はすでに丸二年を経過し、学生たちは硝煙がたちこめる文革の烈火に巻き込まれて、文革が個人にとっていったいどんな意味があるのかを考える時間も精力もなく、ただ文革は若い学生たちの「必修科目」なのだということしかわからなくなっていた。ごく少数の学生は文革は一生の職業になりうるという考えを決して否定していなかったことも認めざるを得ない。とりわけ当時は、文革はさらに二回、三回、四回と行っていかなければならないと繰り返し宣伝されていたのだから。しかし、大部分の学生は徐々に文革中に現れたショッキングな現象に反感を抱き、派閥闘争に嫌気がさし、この異常な「学習」生活をや役終わらせ本当の人生の道のりを歩みたいと願うようになった。だが、卒業したらどこに行けばいいのか、これは文革時代の中国では、容易に解決しがたい問題だった。文革は「文化」を破壊する革命であり、工場、企業、役所、学校は知識や文化を必要とせず、大学の卒業生を必要としていなかった。文革を「必修科目」にしていた中学の卒業生(引用者注、日本の高校卒業生にあたる)にとっては、文革は進学の機会を奪い、都市部で就職する機会をも失わせるものであった。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.261-262>
 このような状況のもとで「上山下郷運動」に加わって「貧農・下層中農の再教育」を受けることは、当時の「知識青年」にとってすすむ主要な道となった。

世界史の中の1968年

 1968年、中国の文化大革命の嵐は頂点に達するとともに、徐々に混迷の度合いを深めていったが、世界史的にも1968年1月南べトナム解放民族戦線によるテト攻勢でベトナム戦争は転機を迎え、4月には東欧社会主義圏でドプチェクによるチェコスロヴァキアの民主化運動であるプラハの春が始まり、それが1968年8月にソ連軍の干渉したチェコ事件で抑圧されてしまった。そのような中で、世界では紅衛兵の「造反有理」と同じ叫びが広がっていた。それは同時多発的に起こった学生運動であり、フランスでは1968年5月、パリの学生が蜂起した五月危機(五月革命)がド=ゴール退陣の引き金となり、西ドイツでも大衆運動が社会民主党ブラント政権を出現させた。アメリカ合衆国でも大学でのベトナム反戦運動と黒人解放を目指す公民権運動と結びついて高揚し、その中でキング牧師が暗殺されるという事件も起こった。日本も例外ではなく、日大や東大など多くの大学で大学紛争がひろがり「造反有理」の声が飛び交い、高校生にも古い権威の否定の風潮が広がった。日本では全共闘運動は時期的にも紅衛兵運動と重なっており、強く影響を受けた。しかし、文化革命の実態はまだ知られておらず、多くの知識人・学生は肯定的に捉え、毛沢東を「国家廃絶、階級廃止」をめざす革命指導者とみなす、「革命幻想」にとらわれていた。

(5)文化大革命、後半段階へ 1969~1971/9

林彪の実権掌握

 1969年4月、北京で開催された中国共産党九全大会は議長を毛沢東が務め、林彪が政治報告を行い、プロレタリア文化大革命を毛沢東の継続革命論に基づいて勝利したと総括した。この大会は「勝利の大会」といわれ、文化大革命の節目となったので、当初はこの年を以て文革は終わったとも評価された。しかし、実際には新たな権力闘争が始まり、また国際情勢も悪化してたこともあって混乱は収束されず、文革の後半段階へと入っていくこととなった。
後継者に指名される 1969年4月の九全大会で共産党規約の改定を行い、林彪を毛沢東の後継者と明記するという異例の措置を取った。また人事においても林彪は唯一の副主席であり、政治局常務委員は毛、林と陳伯達、周恩来、康生の五名のみ(66年の8期11中全会では11人)となり、政治局員江青(毛沢東夫人)、葉群(林彪夫人)、張春橋、姚文元ら造反派と、軍人の占める比重が高くなった。そこで明確になったのは毛沢東・林彪・江青に権力が集中したことであった。
ソ連軍との武力衝突 ソ連が1968年8月にチェコスロヴァキアに侵攻(チェコ事件)したことは、中国にとってもその軍事的脅威を強く意識させることとなった。ついにソ連軍との軍事衝突が、1969年3月中ソ国境紛争がウスリー川の中洲での珍宝島事件によよって現実のものとなった。それを受けて毛沢東は、ソ連との戦争に備える必要から国境地帯での地下壕の建設などを指示するとともに、文化大革命の収束をはかることを考えるようになったと思われる。

林彪事件

 毛沢東は国内では劉少奇など実権派を打倒し、林彪を後継者に指定することによって、文化大革命を収束させ、ソ連との武力衝突、アメリカのベトナム侵略に立ちむかう意図があったと思われるが、その思惑は意外なことから崩れることになった。毛沢東と林彪の関係はまもなく悪化し、急速に最悪の事態へと転換したのだ。1970年3月、毛沢東が憲法改正を提起して、1968年の劉少奇失脚以来空席になっていた国家主席の廃止を提案すると、林彪は毛沢東を実権から遠ざけて政権を独占しようとしたのか、林彪は毛沢東を天才と持ち上げる演説を行い、逆に毛沢東の国家主席への就任を要請した。毛自身がそれを拒否し、林彪案に賛成した陳伯達を批判した。このわかりにくい動きは、林彪は国家主席を復活させ、毛が辞退することを見込んで自らその地位につこうという筋書きを描いていた、と解釈されている。その野心を毛が見抜いたのか、二人の関係は他人にはわからないところで悪化していったようだ。
林彪のクーデタ未遂事件 この「国家主席設置」問題から、毛沢東は林彪を警戒するようになったが、いつものように直接批判するのではなく、林彪を支持した陳伯達をまずヤリ玉に挙げるという方法をとった。陳伯達は江青など文革推進派のメンバーだったので、江青などをも不安にさせた。また林彪とその一派、妻の葉群や息子の林立果と林彪派の軍人は強い危機感を抱いた。特に空軍司令官であった林立果は早い時期に毛沢東を倒し、権力を奪取する必要があると思い詰め、軍事クーデタを立案していたという。それは毛沢東が武漢地方への視察旅行からの帰りを狙い、列車を爆破しようというもの(関東軍の張作霖爆殺事件を参考にしたとも言われている)だったが、しかし、その計画はどうやら漏れていたらしく、毛を乗せた列車は猛スピードで予定より早く北京に着いてしまった。
九・一三事件 林彪の墜落死 1971年9月13日、林彪らが国外逃亡を謀り、失敗してモンゴル上空で墜落死するという林彪事件がおこった。林彪とその家族ははじめ中国南部に行って反撃するつもりだったが、周恩来にその逃亡計画も察知され、空軍を押さえられたために実行できず、やむなく滞在していた北戴河飛行場に駐機中のトライデント機のパイロットを脅し、強制的に離陸し、北を目指したが途中のモンゴル上空で事故がおこって墜落し、全員が死亡したとされている。北に向かったのはソ連を目指していたのではないかと解釈されているが、そのアテはあったのかどうか、事故がなぜ起こったか、撃墜されたのではないか、などの謎は残っている。<林彪事件に付いては厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』上 1996 岩波書店初版 p.290-321、楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.42-52 が詳しい。>

(6)アメリカとの関係改善 1971/7~1972

 林彪事件の真相は分かっていないが、背景にはその頃、中国とアメリカが手を結ぶという変化が同時進行していた。毛沢東はソ連との軍事的対立で優位に立とうとして1971年7月キッシンジャーと接触し、アメリカとの接近を極秘裏に進めていた。林彪事件の2ヶ月前のこの動きが林彪の立場と相容れなくなったのかも知れない。
国際連合への加盟 林彪事件の翌月の1971年10月には中華人民共和国が国連の中国代表権を承認され、国際社会に登場するという劇的変化が生じている。これは、それまで反対してきたアメリカ及びアメリカに追随していた日本が、中国代表権を台湾から中華人民共和国に変更することに賛成に回ったために実現したことだった。
ニクソン訪中 さらに約束された歴史上初めてのアメリカ大統領の訪中であるニクソン訪中は、1972年2月に実現し、それまで両国間の軍事的対立の最大懸案であった台湾問題をアメリカが台湾と断交することで解決した。さらに9月には日本の田中首相が訪中して日中共同声明を発表するなど、文革の合間の毛沢東=周恩来による積極的な外交が行われた。
 この中国とアメリカの急速な接近は、中国は文化大革命の収束がはかれない中で、軍事的緊張の続くソ連にたいする強力な牽制になること、アメリカにとってはベトナム戦争の終結は北ベトナムの背後にある中国との関係を修復することが有効であること、など双方の利害が一致したのが理由であった。

(7)周恩来・鄧小平VS四人組 1973~1976

九・一三事件、つまり林彪事件後、中国共産党内部には深刻な路線の対立が生じた。毛沢東・江青らは文化大革命を維持し、継続革命を続けなければならないと考え、周恩来ら実務官僚は文革の行き過ぎを是正し、国内秩序と経済を回復しなければならないと考えた。文化大革命後半の1971年9月~76年9月までの5年間は、基本的にはこの二派の対立軸が存在した。

鄧小平、最初の復活

 林彪事件の後、毛沢東に対する個人崇拝は続いたが、その権威のもとでの政治の実権は側近といえる江青とそのグループが握るようになった。一方で文化大革命の初期に批判されて失脚した実務的な幹部の復活が始まった。とりわけ注目されたのが1973年3月鄧小平が復活したことだった。鄧小平の復活は毛自身が望んだとも、周恩来が要望したとも言われているが、文革の収束と経済の再建の手腕を期待されたことには間違いない。その鄧小平の復活に危機感を持ったのがプロレタリア文化大革命の理念である階級闘争の継続、資本主義の復活阻止を依然として掲げていた江青グループ、つまり四人組であった。
四人組の台頭 毛沢東夫人という立場から強い発言力を持った江青と、その周辺の張春橋、姚文元、王洪文の四人が四人組と言われていた。彼らはもともと上海を拠点に文化、学術面で活躍し上海グループとも言われており、文革当初から毛沢東の指示によって党の理論、宣伝部門を握っており、党組織上の基盤や軍の支持はなかったものの、革命のイデオローグ(理論集団)として強い発言力を持っていた。

批林批孔

 周恩来は四人組と復活した鄧小平ら実務派の調整役としての働きをしたが、共通するのは林彪を極左集団として批判する立場だけで、その政治手法や理念の違いは次第に明確になっていった。その中で江青らはまず周恩来批判を強め、1974年1月に「批林批孔運動」として本格化した。これは林彪を批判すると同時に、中国の古い思想である孔子を批判することで暗に周恩来を攻撃するものであった。
 毛沢東は、1974年7月、初めて「四人組」ということばを使い、彼らが派閥をつくろうとしていると警告した。同時に、文革初期に否定された走資派・実権派が復権し、資本主義経済に歩もうとする動きにも強い不快感を示した。しかし、文革の行き過ぎに疑問を持つ実務官僚を背景にした周恩来、鄧小平らは着実に地位を占め、いわば実務はと文革派は毛沢東という重しの下で微妙なバランスを維持していた。
周恩来の「四つの現代化」演説 1975年1月、共産党の十期二中全会が開催され、鄧小平は副主席、中央政治局常務委員に選出され、次いで周恩来はすでに癌に冒されていたが同1975年1月13日からの第4期全人代第1回会議で政府活動報告を行い、今世紀までに「農業・工業・国防・科学技術の四つの現代化」(近代化とも言う)を全面的に実現することを提起した(「四つの現代化」は文化大革命後に鄧小平によって改めて提唱される)。
水滸伝批判 周恩来・鄧小平が経済の再建に着手しようとしたことに対し、四人組は文化大革命を否定するものとして激しく反対し、周・鄧は国際資本家の代理人で買弁ブルジョワジーであると非難し、毛沢東もそれに同調するようになった。毛沢東は今度は『水滸伝』を取り上げ、その主人公宋江を投降主義として批判することで、暗に鄧小平が資本主義に降伏していると非難した(水滸伝批判運動)。このような中国共産党内の対立軸が明白になった1976年を迎え、その年は周恩来・朱徳・毛沢東が相次いで死去、唐山地震も起こったことで文字どおり、激動の年となった。

文化大革命の終了

1976年の周恩来・毛沢東の死去によって情勢が大きく変化し、文革推進派の四人組が逮捕され、実質的に革命運動が終了した。翌77年に新執行部の華国鋒が文化大革命は大勝利のうちに終了したと正式に宣言した。しかし、復権した鄧小平は華国鋒に代わって実権を奪取すると、1978年に改革開放路線を打ち出し、そのもとで文化大革命の総括が進められ、1981年の「歴史決議」によって文化大革命は誤りであったと明確に否定された。

周恩来の死と天安門事件(第1次)

 1976年1月8日周恩来が死去(72年から癌で病床にあった)した。15日に人民大会堂で追悼大会が開催され鄧小平が党副主席・副首相として弔辞を述べたが、これを最後に鄧小平は公式の場から姿を消した。周恩来の後任には毛沢東の提案によって73年に政治局入りしたばかりの公安相華国鋒が首相代行に就いた。
天安門事件(第1次) 北京の天安門広場の中央に立つ人民英雄記念碑に続々と花輪が集まってきた。記念碑の裏面の文字が周恩来の筆であったことから人々が周首相を偲んで置いたのだった。4月4日は物故者を偲ぶ清明節であったため花輪がさらに増え、そこには周恩来をたたえ、四人組を非難する文が増えてきた。中には毛沢東の最初の妻の楊開慧を讃えるものもあった。それは現毛夫人の江青へのあてこすりであった。4日当日は数十万の人で天安門広場が埋まるという状況になった。江青らはこれを組織的、計画的な反革命であると危険視して華国鋒はそれに動かされて5日早朝から花輪の撤去を開始した。クレーン車まで繰り出して撤去作業が進むと、それを知った市民が続々と広場に集まり「花輪を返せ」と叫び抗議した。広場からの退去を命じる当局の宣伝カーは民衆によってひっくり返された。騒ぎは収まらず夕方には司令本部の建物に火が付けられ騒乱状態になると夜9時半に労働者民兵と公安警察が弾圧に乗りだし、惨劇が繰り広げられた。これが1976年4月5日天安門事件(第1次)であった。
 毛沢東と共産党は急きょ人事を改め、華国鋒を党第一副主席および首相に任命し、鄧小平は一切の職務から解任された。この事件は当初は「反革命の政治事件」とされたが、78年には評価が変わり、革命的な民衆による「四・五運動」と言われ、処分された関係者の復権もはたされた(この点は、第2次天安門事件が現在も反革命的な民衆暴動として非難されていることと好対照である)。
 7月6日には朱徳が亡くなった。朱徳は中国共産党の初期から主に軍事畑で活躍、八路軍を率いて抗日戦争を勝利に導き、瑞金・長征・延安を通して毛沢東を支えた革命家だった。アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス=スメドレーの『偉大なる道』は朱徳を主人公にした中国革命の優れたルポルタージュとして知られている。
 8月28日には河北省の唐山で大地震が発生、24万人以上の死者が出るという大惨事となった。一帯は重要な工業地帯であるので経済にも大きな被害を与え、揺れは北京にまで及んだので人々は何か大きな変動が起きるのではないか、という不安に襲われた。

毛沢東の死と四人組の逮捕

 唐山地震が文字どおり前触れであったように、1976年9月9日毛沢東が死去した。すでに82歳で実際にはかなり衰弱が進んでいた。しかし多くの国民には突然のことであったので、だれもが建国の父を失ったことに動揺した。それは毛亡き後の政権がどうなるか、予測のできない緊迫感を大衆も感じていたからだった。江青四人組は鄧小平批判をくり返しながら、次第に文革穏健派である華国鋒にも不満を顕わにしていた。しかし四人組は毛沢東という後ろ盾を失ったことで、誰の目にも没落は近いのでは、と見られていた。
四人組の逮捕 四人組は依然として毛沢東の指示に従い、プロレタリア文化大革命という永続革命としての階級闘争を続けよ、という原理的な発言を繰り返し、古参の幹部に対しては守旧的だと批判を加え、文革を進める立場でも現実との妥協を図ろうとする穏健派に対しては反革命だとして非難した。また長期化する文化大革命の中で多くの人が犠牲となって殺害されたり、地位を失ったことに対する恨み、さらに革命の長期化による生産力の減退、経済の混乱、生活の困窮などは、今やその元凶が四人組なのだ、という声が強まっていた。周恩来を悼み、鄧小平を待望する雰囲気が形成されていた。
 9月18日、毛沢東を追悼する大集会が盛大に行われ、壇上には共産党幹部が勢揃いしたが、その裏では雌雄を決する権力闘争が繰り広げていた。1976年10月6日深夜、華国鋒は北京警備区・中央警衛団(八三四一部隊)を動員して四人組を逮捕、身柄を拘束した。四人組逮捕はもっと後ではないかと想像していた民衆は、意外にも早く政府が逮捕に踏み切ったことで驚いた。華国鋒は毛沢東に忠実な、文化大革命の継続を主張していたが、四人組とは距離を置いていたので、このままではいずれ四人組の批判が自分にも及んでくることを自覚しており、葉剣英など軍を抑える実力者と図って、早期の決着に踏み切ったのだった。

文化大革命の終結宣言

 1977年8月、中共第11回全国大会において、華国鋒は「プロレタリア独裁下の継続革命は偉大な思想」と毛沢東路線を讃えると同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとして「第一次文化大革命が勝利のうちに終結した」と宣言し、「四つの現代化建設」(近代化とも言う)を新たな国家目標として掲げた。1966年に始まり、1970年代後半からは混迷するとともに初期の盛り上がりが治まり、沈静化していた文化大革命は、1976年の毛沢東の死去、四人組の逮捕で実質的に終わりをつげ、この1977年8月に正式に終了した、とすることができる。しかしまだ文化大革命をどう評価するか、という歴史認識は決着がついていなかった。

鄧小平の復権

 この間、1977年7月鄧小平は党中央に復権し、7月には党中央委員会副主席、副首相、解放軍総参謀長などに復職した。彼は、華国鋒が「毛沢東主席のすべての指示を変えてはならない」という教条主義的姿勢を批判、現実的な改革を実践すべきだと主張し、次第に意見の違いが明確になっていった。鄧小平の指導力が次第に強まり、1978年2月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革開放路線を打ち出した。
1978年 北京の春 この年から始まった、文化大革命中に走資派・実権派、あるいは守旧派として批判された人々の名誉回復の措置は、三年間で290万に達した。1957年の反右派闘争以来右派分子とされていた人々55万人に対しても、名誉回復がなされた。また1978年10月以降、北京その他の大都市で、天安門事件(第1次)の名誉回復、民主化の要求、中には毛沢東体制の批判の壁新聞が貼り出された。北京西単の交差点にある掲示板は「民主の壁」と言われ、またこの年を「北京の春」と言われた。それは1968年のチェコスロヴァキアでのプラハの春になぞらえたもので、民主化運動の高揚のあらわれであった。西単に張り出された壁新聞の前には多くの市民が集まり、自然にその場は自由な討論会場となり、民主化について話し合われた。
 12月5日に張り出された壁新聞は「第五の現代化」と題して、周恩来と鄧小平が提唱した「四つの現代化」に加えて五つ目の現代化として政治の民主化が必要だと訴え、人々の関心を集めた。これは文革初期に紅衛兵だった魏京生が書いたものだった。魏京生は翌年雑誌『探索』を創刊して民主化・自由化を主張したが、反革命分子として逮捕されてしまった。魏京生はその後も仮釈放、逮捕を繰り返し、中国の人権活動家として広く知られるようになった。しかし、「北京の春」はその逮捕とともに低調となり、政治の民主化・言論の自由などはいまだに実現していない。鄧小平は1979年3月、四つの基本原則として社会主義、共産党の指導、プロレタリア独裁、マルクス=レーニン主義・毛沢東思想をあげ、経済発展もその枠内で行わなければならないと釘を刺し、これがその後の中国で民主化運動を起こさせない呪文となっている。
毛沢東路線からの脱却 鄧小平の立場は毛沢東の指示を無批判に受け入れてきた文革期の党の体質から脱却するところにあったので、必然的に文化大革命の評価の見直しを避けずに行わなければならなかった。1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第三回総会(三中全会)は文化大革命を歴史的に、科学的に、事実を通じて見直しをすることに挑んだ会議であり、そこでの結論は、「毛沢東同志がこの大革命を起こしたのは、主としてソ連が修正主義に変わったことにかんがみ、修正主義に反対しそれを防止する見地からである。実際の過程におきた欠点や誤りについては、適切な時に経験・教訓として総括し、全党と全国人民の認識を統一するのは必要ではあるが、性急にやるべきではない」というものであった。同時に階級闘争を文化大革命のカナメとする毛沢東の「継続革命論」は、毛自身が57年に階級闘争の時代は終わったと述べていることと矛盾していることを指摘し、社会主義段階における階級闘争という思想を批判した。まとめれば、毛沢東が文化大革命を提起したのはソ連の修正主義と同じ誤りを避けるためであったが、階級闘争をカナメとする継続革命論は否定される、ということである。この三中全会での文化大革命批判は、中国共産党が毛沢東の革命路線から脱却して、現代化路線への大転換を開始したことを告げるものであった。<安藤正士・太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』1986 岩波新書 p.160-162>
文化大革命の否定 1979年には米中国交正常化を実現させ、鄧小平自ら渡米して科学技術協力協定などを締結、改革路線を定着させた。1980年には鄧小平は華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同年、劉少奇(1969年に既に死去していたが)は名誉を回復し、それと並行して「林彪・四人組裁判」が実施され、江青・張春橋・陳伯達らに死刑や懲役の判決が下された。これらは「文革否定」の決定的な動きであった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
四人組裁判 「林彪・四人組裁判」は1980年11月20日から翌81年1月25日まで北京の特別法廷で行われた。反革命集団とされた主犯16名のうち、林彪や康生、謝富治ら6名は既に死亡していたため、10名について審理が行われた。裁判は極東国際軍事裁判やニュルンベルク裁判と同じように勝者が敗者を裁くもので、しかも適用される刑法は文革後の80年に中国で始めて制定された法律であり、法的根拠に疑問のある、一種の政治ショーとして行われ、その様子は中国と全世界にテレビ映像で流された。最も目立ったのは江青で、メガネをかけた端正な容貌で裁判官・検察官をにらみつけ、最終審理では嗤いながら自作の詩を読み上げ、最後に発言を封じられると「革命無罪! 造反有理! 鄧小平一派に率いられた修正主義者打倒!」と叫んで引きずり出された。張春橋は予審から判決まで徹底的に沈黙を守り、半白の髪、伸び放題の鬚は鬼気迫る壮絶さが感じられた。あとの8名はみな罪状を認め慈悲を願う態度を取った。判決は江青と張春橋は死刑(執行延期2年)、残りは懲役16年から無期までいずれも執行猶予が着いた。江青はその後無期に減刑され、保釈されたが1991年に自殺した。

文化大革命の総括

 1977年8月華国鋒による文化大革命の終結宣言でも、毛沢東の「プロレタリア独裁下の継続革命」は「偉大な思想」とされていたし、「第一次文化大革命が勝利の内に終結した」といわれており、毛沢東思想の発動としての文化大革命そのものは否定されたのではなく、しかも第1次といわれおり、再び発動されるときが来るといっている。
 この<四人組は悪い奴らだったが、やっていた文化大革命は正しかった>ととれる総括は、我々日本から文化大革命の経過を見ていて判りづらいことだった。毛沢東の後継者であると自認する華国鋒にとっては、毛沢東思想と文化大革命を否定することは自己を否定することになるので、そこまでの表現には踏み切れなかったのであろう。しかし、現実には「文化大革命は誤りであり、失敗であった」と認識されていたのであり、実際に四人組裁判と並行して四人組に協力して文化大革命を推進した文革派は、各地で中国共産党官僚(実務派)によってすさまじい反撃を受け、各地で暴力的なつるし上げが行われ、その中で多くの、特に青年が殺害されている。それは、かつての文革派・造反派によって反革命として殺害や追放された人々と同じような質と数とがあったことが明らかになっている。
 ポスト文革期に、大規模な「摘発・批判・審査」運動が実施され、全国に拡大したことは<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.105>に詳細に証言されている。
1981年 歴史問題に関する決議 そのような流れの中で、「文化大革命は誤りではなかった」と公言することは困難になって行き、その結果が1980年の華国鋒の失脚につながるのであり、代わって主導権を握った鄧小平政権によってついに1981年6月27日、「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)として採択された。その検討は80年3月から鄧小平、胡耀邦らによって慎重に行われ、何度かの修正を経て、全文3万5千字に上る長文として決議された。この「歴史決議」の重要部分を抜き書きする。
  • 1966年5月から1976年10月にいたる「文化大革命」によって、党と国家と人民は建国以来最大の挫折と損失をこうむった。
  • 歴史がすでに明らかにしているように「文化大革命」は、指導者がまちがって引き起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である。
  • 毛沢東同志は次第におごりたかぶり、実際から離れ、大衆から浮き上がり、日ましに主観主義、独断専行の作風をつのらせ、党中央の上に身を置くようになった。
  • 毛沢東が提起した「継続革命論」はマルクス=レーニン主義を誤って解釈したものである。党にはそれをとどめえなかった責任があり、背景にはソ連の「社会帝国主義化」があった。
  • 結局、文化大革命という全局的な、長期にわたる左寄りの重大な誤りは、毛沢東同志に主な責任がある。
  • しかし毛沢東同志は偉大なマルクス主義者であり、偉大なプロレタリア革命家、戦略家、理論家である。「文化大革命」で重大な誤りを犯したとはいえ、その全生涯から見ると、中国革命に対する功績は、過ちをはるかにしのいでいる。
  • 毛沢東同志にあっては、功績が第一義的であり、誤りは第二義的である。<安藤正士・太田勝洪・辻康吾『文化大革命と現代中国』1986 岩波新書 p.183-186>
 中国共産党は1976年の文革の実質的終結から、5年の歳月をかけてこの「歴史決議」を出し、自らの歴史を総括した。その要点は「文化大革命は多大な災難をもたらした」失敗であり、誤りであったのでり、また指導者=毛沢東が「まちがって引き起こした」ものであると断定した。その間違いの核心は階級闘争を常に継続しなければならない、という「継続革命論」にあった。これだけ明確に文化大革命を否定したのは、改革開放路線・「現代化」という名の資本主義化に向かうためであったのだろう。
 文化大革命の全面的な否定に比べて、毛沢東に対する評価には苦渋の判断が滲んでいる。文化大革命は否定しなければならないが、毛沢東を全否定することは共産党が中国を支配することを否定することになるからできない。そこで熟慮の結果の落としどころとされたのが、「功績が第一で、誤りが第二」という絶妙というか、中途半端というか、判ったようで分からないというか、不思議な評価であった。共産党結成から中華人民共和国建国までは毛沢東の功績として揺るぎないが、文化大革命発令とその間の国家指導者としての行動は誤りだった、ということで落ち着いたのだった。

蛇足 文化大革命後、50年

 文化大革命の勝者は誰で、敗者は誰だったか。毛沢東は間違っていた、紅衛兵は毛に踊らされた若者が騒いだだけ、なのか。結局は彼らが否定した共産党の権威主義的な官僚組織は大打撃を受けたが、ポスト文革期に復活した。そして改革開放というかけ声のもと、資本主義への道をひた走り、世界第二位の経済力を持つに至った。文革中も核開発は着実に進め、今や軍事大国としてアメリカ・ロシアに肩を並べている。中国共産党は2021年7月、結党100年を迎えたが、文革前・文革期・文革後の歴史にどのような継続性、あるいは違いがあるのだろうか。世界や日本の将来にとっても重要な要素であることは間違いが無いので、毛嫌いしたり、無視したり、反日などといった安易な断定をせず、あるいは過剰に恐れて煽るのではなく、隣人中国とつき合うしかないだろう。そのとき歴史を単に知るだけでなく、考え、探求することが必要になる。
 文化大革命を考えるとき、毛沢東が誤っていた、と言うことにされたとしても、疑問は残る。毛沢東の一見、観念的(イデオロギー)すぎると思われる継続革命論や、歴史的にかけ離れたパリ=コミューンを中国で実現しようとした人民公社運動などが、当時の中国の、特に若い世代に強く支持されたことは、今から見れば信じ難いことだ。あの熱狂は単なる個人崇拝や洗脳では語れれないものがあるはずだ。事実として10年にわたる中国のあらゆる人々を巻き込む大運動となったのはなぜなのだろうか。そしてまた何よりも、文化大革命の熱狂から50年を経た中国が、あれだけ毛沢東や紅衛兵が拒否した資本主義への道をひた走り、国の指導者は覇権主義に走っているように見える。このギャップに思考が追いつかない思いが強い。<2021/9 中国共産党結党100年の年に>