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天安門事件(第2次)/六四事件

1989年5~6月、中国の鄧小平政権の人権抑圧に不満を持つ民衆が決起したが、政権は軍隊を出動して弾圧、中国の民主化運動弾圧、人権抑圧にたいする国際的非難が強まった。

 1989年5月~6月に鄧小平政権下の中華人民共和国政府に対して起こされた、北京の民衆による政治活動の自由、人権、言論弾圧に対する抗議などを含む民主化運動。中国政府国務院総理(首相)の李鵬は党の実力者鄧小平の意向に沿い、戒厳令を敷き、6月には戒厳軍を動員して市民を弾圧、国際的な批判を受けた。1989年6月4日をピークとして天安門広場での衝突となったので、天安門事件(1976年4月5日の周恩来首相の死去に際しておこった天安門事件を第1次とすると、こちらが第2次となる)といい、またその日付から六四事件(単に六四、あるいは八九六四)と言われる。

背景と経緯

 同年4月、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催したが、「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などを叫ぶ民主化一般の運動へと拡大していった。鄧小平は学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」と決めつけたが、学生はこの当局の決定に反発、また党総書記趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、党内の対立(鄧小平ら長老派、李鵬ら保守派と、趙紫陽ら改革派)が表面化した。五月上旬から中旬にかけて、運動は拡大し天安門広場で百万人といわれる大集会が開かれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。学生たちは広場にテントを設け、ハンガーストライキに入った。ちょうどこのとき、ソ連のゴルバチョフが訪中していたのでこの様子は外国人記者の取材を通して世界中に伝えられた。5月18日、趙紫陽は天安門に自ら赴き、学生たちと面会し「来るのが遅かった」という言葉を残して、以後、公の場から姿を消した。

戒厳令

 5月20日、建国史上初めて首都北京に戒厳令が施行された。これに対して学生・市民らは当局の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに戒厳軍への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。戒厳令施行から約二週間、当局は鎮圧行動に出ることができず、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。6月3日未明ついに戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、その死者は4日までに一説では2000名前後、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口をふさいでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。6月4日は、後にこの事件を六四天安門事件というようになるなど、記憶される日付となった。

Episode 天安門事件「タンクマン」撮影秘話

第2次天安門事件
第2次天安門事件 戒厳令下の北京で、軍の戦車隊の前に一人の青年がたちはだかって抗議した。
 第2次天安門事件が世界に報じられたとき、一枚の報道写真が強い印象をあたえた。それがこの写真である。戦車の前に一人たつ若者を捉えたこの写真は「タンクマン」と呼ばれて有名になり、翌90年の世界報道写真賞を受賞した。撮影したのはニューズウィークの報道カメラマン、チャーリー・コールだった。コール氏はその後事故で右足を怪我して、日本の長野で暮らしていたが、2019年9月、64歳で亡くなった。友人がコール氏から聞いた話によると、この写真は天安門広場に面したホテルのバルコニーから300mmのレンズで撮ったもので、撮影からほどなく、部屋に入ってきた当局者に連行され、カメラのフィルムは引き出されてしまった。だが、この写真が写っていたフィルムは、トイレのタンクのふたの裏にテープで貼って隠していたため無事だった。それを下着に入れてAP通信の北京支局までたどり着き、電送してもらったという。現役引退後は、横田基地生まれでだったので日本が好きで、長野で暮らしながら地獄谷の「スノーモンキー」の撮影を楽しんでいた。<『朝日新聞』2019年12月26日の記事による>
 → <「没収逃れた写真2千枚あった 天安門事件の真相写す」朝日新聞デジタル 2019/6/5

影響と意義

 この事件は「六四天安門事件」ともいわれ、おりからのゴルバチョフの訪中にあわせて北京に来ていた外国報道機関によって世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義への挑戦」「人権弾圧」と受け止めたアメリカなど西側諸国は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第三次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月のベルリンの壁の開放も中国への国際圧力を強めることとなった。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 などによるまとめ>
 日本でも多くの「中国専門家」がこの動乱で社会主義国中国が終わるのではないか、と推測した。東欧革命で東ヨーロッパの社会主義国が次々と倒れ、まもなく1991年8月、ソ連共産党も解党し社会主義の本家のソ連が崩壊したことから、中国および中国共産党も同様な崩壊過程が始まるのではないか、と見た専門家も多かった。しかし、そうはならず、ソ連亡き後、中国は唯一の社会主義大国として生き残った。とはいうものの、それは中国と中国共産との掲げる「社会主義」そのものが変化していく重大な岐路となったことも確かである。

その後の民主化運動

劉暁波のノーベル平和賞受賞 天安門事件が起きたとき、学生を指導した一人が劉暁波であった。彼は北京師範大学で中国文学を学んだ後、アメリカに留学していたが、1989年6月、天安門事件が起きたことを知って急遽帰国して運動に加わり、他の知識人たちとともに学生たちを指導し「反革命宣伝扇動罪」で投獄された。1991年に釈放されると、国内で人権保護と民主化を訴える活動を開始した。たびたび逮捕されるなど弾圧を受け、2008年には世界人権宣言60周年を記念し、中国の民主化を訴える「08憲章」を発表し、中国の人権抑圧を告発、2010年に国家政権転覆扇動罪で逮捕され入獄した。その劉暁波に同年、ノーベル平和賞が与えられた。それは中国在住の中国人の初めての受賞であったが、中国政府は彼の出国を認めず、12月の授賞式は本人不在の中で行われた。劉暁波のことば「私には敵はいない」が代理人によって読み上げられた。そのなかで劉暁波は、「私は期待する。私が“文字の獄”の最後の被害者になることを」と述べた。文字の獄とは、清朝時代をはじめとする中国の歴史で続いた思想弾圧のことである。
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書籍案内

安田峰俊
『八九六四―
天安門事件は再び起きるか』
2018 KADOKAWA>

ジャーナリストが事件を知る人へのインタビューをもとに第2次天安門事件を再構成。

李鋭/小島晋治編訳
『中国民主改革派の主張
中国共産党私史』
2013 岩波現代文庫>

胡耀邦や趙紫陽に近かった著者が、権力内側から見た第2次天安門事件。

六四回顧録編集委員会編
『証言天安門事件を目撃した日本人たち』
2020 ミネルヴァ書房>

事件当時、北京にいた外交官、商社員、記者、駐在員などの生々しい目撃談。