天安門事件(第2次)/六四事件
1989年5~6月、鄧小平政権の中国で民主化を求める学生・市民が北京の天安門広場に結集したのに対して、中国政府が戒厳令を布き、6月4日に軍を動員して排除し多数の犠牲者が出た。総書記趙紫陽は学生に理解を示したとして罷免され代わって江沢民が就任した。これを機に中国は共産党一党独裁体制のもとで政治の民主化は進まないまま、改革開放経済政策を進めるという方向が明確となった。
概要 1989年4月~6月に鄧小平政権下の中華人民共和国政府に対して民衆による政治活動の自由、人権、言論弾圧に対する抗議などを含む民主化運動が起こった。きっかけは4月、民主化に理解のあった前総書記胡耀邦が急死し、学生・市民が彼を追悼するために天安門広場に結集して大集会を開催、政治の民主化・言論の自由などを要求したことだった。それを受けて、共産党・中国政府の最高実力者鄧小平と国務院総理(首相)李鵬らは民主化を拒否し学生の運動を抑えようとしたが、党総書記趙紫陽は学生の要求に応えて一定の政治改革を実現しようと考え、対立が生じた。4月下旬、李鵬首相が主導して学生の行動を「動乱」と決めつけたために学生側が硬化し、李鵬首相退陣、共産党打倒などをスローガンに掲げるようになった。それをうけて鄧小平・李鵬ら政府中枢は5月20日に戒厳令を布いて学生に解散を迫り、ついに6月3日深夜、戒厳部隊を北京市内に突入させ、翌4日にかけて天安門に向かう街路で戦車、銃によって学生・市民に発砲し、多数(実数は不明だが少なくとも千人以上)の死者がでて、運動は弾圧された。この1989年6月4日の流血事件を第2次天安門事件という。趙紫陽は退陣し、代わって江沢民が総書記に就任、最高実力者鄧小平による共産党一党独裁体制の下での改革開放路線が進められ、民主化運動は沈静化させられた。
北京市の中央、紫禁城の前に広がる天安門広場では1976年4月5日の周恩来首相の死去に際して追悼のため結集した学生を、文化大革命を継続しようとしていた四人組政権が警察を動員して排除した天安門事件が起こっていたので、それを第1次とし、こちらが第2次とされている。日本では天安門事件として一般化しているが、中国ではその日付から六四事件(単に六四、あるいは八九六四)と言われている。
注 党官僚の不正の多くは二重価格制を利用したものだった。鄧小平は計画経済から市場経済への転換にあたって、ソ連がそれを一挙にやろうとして失敗したことを見て、漸進的な導入を図った。その一つが二重価格制度で、工業用原材料やカラーテレビなど公共性の強い商品には統制物資として国が固定価格を定める一方、民間の自由価格も認めた。それを悪用して党の幹部がその地位を利用して統制物資を固定価格で手に入れ、それを自由市場の自由価格で販売して暴利を貪るものが現れた。彼らは「官倒(グァンダオ、官僚ブローカーの意味)」と言われ、特権階級に許された行為であったが、庶民の怨嗟の的になっていた。鄧小平の息子の鄧樸方もそれに関わっていると疑われた。<天児慧『中国の歴史11 巨龍の胎動・毛沢東VS鄧小平』2004 講談社 p.281-282>
前総書記胡耀邦の追悼 1989年4月15日、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催し、官倒などの不正の撲滅、言論の自由などとともに「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などの掲げて改革を要求した。次第に市民にも参加者増え、民主化一般の運動へと拡大していった。共産党最高実力者鄧小平および国務院総理李鵬ら政権中枢は、学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」として弾圧を主張したが、党総書記趙紫陽はかねてから議会制民主主義の導入など一定の政治改革は必要と考えていたので、学生との対話を主張した。
学生運動、動乱と認定される しかし、趙紫陽が北朝鮮訪問で北京を留守にした4月26日、鄧小平・李鵬は学生の行動を「動乱」と断定し、『人民日報』社説という形で発表、直ちに行動を収めるよう迫った。学生はこの当局の姿勢に動揺するとともに強く反発、急きょ北京に戻った趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、学生らに理解を示した。こうして共産党内に鄧小平ら長老派と李鵬ら保守派に対する趙紫陽ら改革派の対立がはっきりとしたが、趙紫陽に同調する者はなく、政権内で孤立した。
五・四運動70周年 1989年は1919年の五・四運動から70周年にあたっており、5月4日は記念集会も重なって多くの市民・労働者が加わり、五月上旬から中旬にかけて、運動は拡大し天安門広場で百万人といわれる大集会が連日開かれようになった。集会参加者には政府機関のものも含まれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。学生たちは広場にテントを設け、ハンガーストライキに入った。広場の中心には美術学校生徒が作った大きな張りぼての「自由の女神像」が立てられた。この年はフランス革命から200年に当たっていたのでその記念集会も7月に予定されていた。
ゴルバチョフの訪中 しかもちょうどこのとき、長く対立していたソ連との関係が修復され、1989年5月15日にゴルバチョフが訪中しており、鄧小平・趙紫陽らとも会談した。会談取材のために世界中から集まった外国人記者は、天安門の学生運動の様子も取材し、世界中に伝えた。この年は東ヨーロッパ諸国で一連の東欧革命が起こっており、2月にはポーランドの民主化運動のなかで連帯が公認されて社会主義国家での一党独裁が否定されたことに鄧小平は神経を尖らせていた。またゴルバチョフは同年末にマルタ島でアメリカ大統領ブッシュとともに冷戦の終結を宣言、そしてソ連自体が1990年には複数政党制導入に踏み切り、1991年にはソ連共産党の解党から一気に年末のソ連邦解体へと向かうこととなる。同じ社会主義国がこのように劇的に消滅しつつあることを鄧小平は我がことのように受け止め、同じようにならないようにするために、民主化には妥協しない、と決意したに違いない。
5月20日、ついに鄧小平・李鵬は首都北京に戒厳令を布いた。これは、中華人民共和国建国以来、初めてのことであり、緊張感が一気に高まった。戒厳部隊として秘かに全国から数十万の部隊が召集され、北京を包囲したが、解放軍兵士は国民に銃を向けることはないだろうと楽観視する見方もあった。天安門広場を占拠する学生・市民らは戒厳部隊の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに戒厳軍兵士への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。一部では激昂した市民が兵士に暴行を加える事態も発生した。戒厳令施行から約二週間、当局は鎮圧行動に出ることができず(慎重にチャンスを待ったのか)、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。
同じ1989年6月4日、遠く東ヨーロッパのポーランドでは最初の自由選挙が行われワレサの率いる連帯が圧勝し、民主化は輝かしい勝利をおさめ、その波は次々と東ヨーロッパ社会主義圏に波及する。同じ社会主義国でまったく異なった事態(鄧小平が恐れていた事態)が進行していたのだった。
→ <「没収逃れた写真2千枚あった 天安門事件の真相写す」朝日新聞デジタル 2019/6/5>
この「タンクマン」(戦車男)はNHKカメラマンも動画として撮影に成功している。その撮影秘話と、戦車男といわれた青年のその後についての記事がある。それによると青年はその後、兵士に取り押さえられ連行されたが、名前やその後についても不明だという。何人かの名前が推定され、その後についても処刑されたとするもの、釈放されたとするもの、はたまた軍当局のやらせだったという説まであって、実名も含めて真相はいまだに判っていない。<六四回顧録編集委員会編『証言天安門事件を目撃した日本人たち』2020 ミネルヴァ書房 p.106-112>
タンクマンが戦車を止めたシーンを含め、天安門事件を捉えた生々しい映像はNHKスペシャル「天安門事件 運命を決めた50日」(2019/6/9放送)NHKオンデマンド(有料)でも見ることができる。
結局、鄧小平の狙ったとおり、「動乱」と決めつけられた学生は激昂して「共産党打倒」と叫ぶようになり、それは鄧小平に武力弾圧と趙紫陽を失脚させる口実を与えることになった。こうして学生と趙紫陽は敗北し、中国の民主化への道は途絶え、それに対する不満を抑えつけるように鄧小平は(なりふり構わず)経済成長を目指す路線を邁進する。このように捉えれば、1989年第2次天安門事件(八九六四)は、中国が90年代から現在に至る経済大国への道に向かう分水嶺であったといえる。
日本でも多くの「中国専門家」がこの事件で社会主義国中国が終わるのではないか、と推測した。東欧革命で東ヨーロッパの社会主義国が次々と倒れ、まもなく1991年8月、ソ連共産党も解党し社会主義の本家のソ連が崩壊したことから、中国および中国共産党も同様な崩壊過程が始まるのではないか、と見た専門家も多かった。しかし、中国はそうはならず、ソ連亡き後、唯一の社会主義を標榜する大国として生き残った。とはいうものの、中国と中国共産党の掲げる「社会主義」そのものが変化してしまったことも事実である。
事件に遭遇した日本人たち また、当時北京で事件に遭遇した日本人は、一般観光客は少なく、ゴルバチョフ訪中を取材に来た記者や、作家の水上勉を団長する文化交流団のほか、その多くは中国に進出していた大手商社や銀行、自動車、製鉄などの企業の現地駐在員だった。6月4日、軍が行動を開始すると、、内戦になるのではないかという恐れから、多くの日本人が急きょ帰国することになったが、空港は大混乱に陥った。そのとき、JALは政府の要請に従い日本人で正規の搭乗券のあるものだけを搭乗させ、外国人や搭乗券の無いものは拒否した。しかしANAの現地係員は独自の判断でカウンターに並ぶ人を日本人、外人の区別なく、臨時にワープロで搭乗券を発行し、費用は後払いでよいとして搭乗させたので多くの人が出国できた。これは日本政府の命令や国際ルールに反することだったが、人道的な現地判断としてとがめられることはなかった。<六四回顧録編集委員会編『証言天安門事件を目撃した日本人たち』2020 ミネルヴァ書房 p.215~ 当時全日空北京支社員尾坂雅康さんの証言>
このとき日本の企業は駐在員を帰国させながら、事態が回復されたと見るや(経済制裁が出されているにもかかわらず)直ちに中国政府との取引を再開しようと活発に動いた。日本企業にとって、共産党政権であろうがなかろうが利益を回収できればいくらでも融資し、取引するのに値するのであった。企業の動きは機敏だったが、彼らの目から見れば、この時日本大使館は邦人保護ではあまり役立たなかったと証言しており、むしろそこに棄民体質さえ感じ取っていた人もいた。<前出、『証言天安門事件を目撃した日本人たち』に多くの証言がある。>
北京市の中央、紫禁城の前に広がる天安門広場では1976年4月5日の周恩来首相の死去に際して追悼のため結集した学生を、文化大革命を継続しようとしていた四人組政権が警察を動員して排除した天安門事件が起こっていたので、それを第1次とし、こちらが第2次とされている。日本では天安門事件として一般化しているが、中国ではその日付から六四事件(単に六四、あるいは八九六四)と言われている。
背景と経緯
文化大革命が一応、1976年の毛沢東の死去、四人組の逮捕で終わりを告げ、77年に復帰した鄧小平が主導する四つの現代化と改革開放が開始されて10年以上が経った。その間、経済活動の自由化が進んだが、そのため貧富の格差が広がり、さらに改革によって利権を手にした党官僚が私腹を肥やす(注)などの側面が目立ちはじめ、民衆の中に不満が鬱積していた。にもかかわらず、一方で鄧小平が打ち出した「四つの基本原則」の枠を越えることは許されず、共産党政権を批判する言論の自由や、結社の自由は認められなかった。共産党指導部の中には前総書記胡耀邦のように、政治的な民主化の必要を認めた者もいたが、その胡耀邦は政権内で孤立し、1987年に失脚してしまった。鄧小平に民主化の期待をかけていた知識人や学生の中に、次第に失望が広がっていった。注 党官僚の不正の多くは二重価格制を利用したものだった。鄧小平は計画経済から市場経済への転換にあたって、ソ連がそれを一挙にやろうとして失敗したことを見て、漸進的な導入を図った。その一つが二重価格制度で、工業用原材料やカラーテレビなど公共性の強い商品には統制物資として国が固定価格を定める一方、民間の自由価格も認めた。それを悪用して党の幹部がその地位を利用して統制物資を固定価格で手に入れ、それを自由市場の自由価格で販売して暴利を貪るものが現れた。彼らは「官倒(グァンダオ、官僚ブローカーの意味)」と言われ、特権階級に許された行為であったが、庶民の怨嗟の的になっていた。鄧小平の息子の鄧樸方もそれに関わっていると疑われた。<天児慧『中国の歴史11 巨龍の胎動・毛沢東VS鄧小平』2004 講談社 p.281-282>
前総書記胡耀邦の追悼 1989年4月15日、リベラルな指導者として人気の高かった胡耀邦前総書記が死去すると北京の学生・知識人たちは追悼集会を催し、官倒などの不正の撲滅、言論の自由などとともに「独裁主義、封建主義打倒」「憲法の基本的人権擁護」などの掲げて改革を要求した。次第に市民にも参加者増え、民主化一般の運動へと拡大していった。共産党最高実力者鄧小平および国務院総理李鵬ら政権中枢は、学生運動を「党の指導と社会主義を根本から否定することである」として弾圧を主張したが、党総書記趙紫陽はかねてから議会制民主主義の導入など一定の政治改革は必要と考えていたので、学生との対話を主張した。
学生運動、動乱と認定される しかし、趙紫陽が北朝鮮訪問で北京を留守にした4月26日、鄧小平・李鵬は学生の行動を「動乱」と断定し、『人民日報』社説という形で発表、直ちに行動を収めるよう迫った。学生はこの当局の姿勢に動揺するとともに強く反発、急きょ北京に戻った趙紫陽は「学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主運動である」と発言し、学生らに理解を示した。こうして共産党内に鄧小平ら長老派と李鵬ら保守派に対する趙紫陽ら改革派の対立がはっきりとしたが、趙紫陽に同調する者はなく、政権内で孤立した。
五・四運動70周年 1989年は1919年の五・四運動から70周年にあたっており、5月4日は記念集会も重なって多くの市民・労働者が加わり、五月上旬から中旬にかけて、運動は拡大し天安門広場で百万人といわれる大集会が連日開かれようになった。集会参加者には政府機関のものも含まれ、北京の交通や日常生活は麻痺した。学生たちは広場にテントを設け、ハンガーストライキに入った。広場の中心には美術学校生徒が作った大きな張りぼての「自由の女神像」が立てられた。この年はフランス革命から200年に当たっていたのでその記念集会も7月に予定されていた。
ゴルバチョフの訪中 しかもちょうどこのとき、長く対立していたソ連との関係が修復され、1989年5月15日にゴルバチョフが訪中しており、鄧小平・趙紫陽らとも会談した。会談取材のために世界中から集まった外国人記者は、天安門の学生運動の様子も取材し、世界中に伝えた。この年は東ヨーロッパ諸国で一連の東欧革命が起こっており、2月にはポーランドの民主化運動のなかで連帯が公認されて社会主義国家での一党独裁が否定されたことに鄧小平は神経を尖らせていた。またゴルバチョフは同年末にマルタ島でアメリカ大統領ブッシュとともに冷戦の終結を宣言、そしてソ連自体が1990年には複数政党制導入に踏み切り、1991年にはソ連共産党の解党から一気に年末のソ連邦解体へと向かうこととなる。同じ社会主義国がこのように劇的に消滅しつつあることを鄧小平は我がことのように受け止め、同じようにならないようにするために、民主化には妥協しない、と決意したに違いない。
戒厳令
政府部内では徹底した弾圧を主張する鄧小平・李鵬が優勢となり、孤立した趙紫陽は5月18日に自ら天安門に赴き、学生たちと面会し「来るのが遅かった」という言葉を残して、以後、公の場から姿を消し、事実上の軟禁状態におかれた。学生の興奮は次第に高まり、指導者王丹、ウアルカイシ、柴玲(女性)らは整然とした行動で政府との交渉を呼びかけ、学生と行動を共にしていた物理学者方励之は流血の事態を避けるために広場からの撤退を呼びかけた。スローガンの中には鄧小平打倒、共産党打倒といった過激なものが現れるようになった。5月20日、ついに鄧小平・李鵬は首都北京に戒厳令を布いた。これは、中華人民共和国建国以来、初めてのことであり、緊張感が一気に高まった。戒厳部隊として秘かに全国から数十万の部隊が召集され、北京を包囲したが、解放軍兵士は国民に銃を向けることはないだろうと楽観視する見方もあった。天安門広場を占拠する学生・市民らは戒厳部隊の軍事行動を阻止すべく市内に入る各要所にバリケードを築き、さらに戒厳軍兵士への直接説得活動を続けるなどして根強い抵抗を示した。一部では激昂した市民が兵士に暴行を加える事態も発生した。戒厳令施行から約二週間、当局は鎮圧行動に出ることができず(慎重にチャンスを待ったのか)、両者は対峙状況を続けた。学生・市民を支持する声は海外にも広がったが、鄧小平は一切の妥協を拒否した。
1989年6月4日
6月3日未明ついに戦車を先頭にした戒厳令部隊が出動して抵抗する学生・市民に発砲、1989年6月4日にかけて天安門広場にむかう街路で流血の惨事がひろがった(現在判明したことでは、死者は天安門広場に向かう街路での衝突で出ており、広場では学生が平穏に退去しており犠牲は出ていないという)。3~4日の死者は、その後の当局の発表でさえ、軍側も合わせて死者319名、負傷者9000名に達した。その死者数は実際にはそれよりも多く、一説では2000名に達したと言われるが、正確にはわかっていない。彼らは暴徒とされたので身元も明らかにされず、遺族への弔意もなされていない。学生を指導した活動家の多くが捕らえられ、あるいは国外に逃亡した。一般の人々は口をふさいでしまい、再び重苦しい中で日々を送ることを余儀なくされた。6月4日は、中国ではこの事件を六四(または八九六四)というようになるなど、70年前の「五四」とともに重く記憶される日付となった。同じ1989年6月4日、遠く東ヨーロッパのポーランドでは最初の自由選挙が行われワレサの率いる連帯が圧勝し、民主化は輝かしい勝利をおさめ、その波は次々と東ヨーロッパ社会主義圏に波及する。同じ社会主義国でまったく異なった事態(鄧小平が恐れていた事態)が進行していたのだった。
Episode 天安門事件「タンクマン」撮影秘話
・第2次天安門事件が世界に報じられたとき、一枚の報道写真が強い印象をあたえた。それがこの写真である。戦車の前に一人たつ若者を捉えたこの写真は「タンクマン」と呼ばれて有名になり、翌90年の世界報道写真賞を受賞した。撮影したのはニューズウィークの報道カメラマン、チャーリー・コールだった。コール氏はその後事故で右足を怪我して、日本の長野で暮らしていたが、2019年9月、64歳で亡くなった。友人がコール氏から聞いた話によると、この写真は天安門広場に面したホテルのバルコニーから300mmのレンズで撮ったもので、撮影からほどなく、部屋に入ってきた当局者に連行され、カメラのフィルムは引き出されてしまった。だが、この写真が写っていたフィルムは、トイレのタンクのふたの裏にテープで貼って隠していたため無事だった。それを下着に入れてAP通信の北京支局までたどり着き、電送してもらったという。現役引退後は、横田基地生まれでだったので日本が好きで、長野で暮らしながら地獄谷の「スノーモンキー」の撮影を楽しんでいた。<『朝日新聞』2019年12月26日の記事による>→ <「没収逃れた写真2千枚あった 天安門事件の真相写す」朝日新聞デジタル 2019/6/5>
この「タンクマン」(戦車男)はNHKカメラマンも動画として撮影に成功している。その撮影秘話と、戦車男といわれた青年のその後についての記事がある。それによると青年はその後、兵士に取り押さえられ連行されたが、名前やその後についても不明だという。何人かの名前が推定され、その後についても処刑されたとするもの、釈放されたとするもの、はたまた軍当局のやらせだったという説まであって、実名も含めて真相はいまだに判っていない。<六四回顧録編集委員会編『証言天安門事件を目撃した日本人たち』2020 ミネルヴァ書房 p.106-112>
タンクマンが戦車を止めたシーンを含め、天安門事件を捉えた生々しい映像はNHKスペシャル「天安門事件 運命を決めた50日」(2019/6/9放送)NHKオンデマンド(有料)でも見ることができる。
影響と意義
この時、天安門で立ち上がった学生の意識は、当初は共産党政権を打倒することではなく、むしろ鄧小平の進める「四つの現代化」・「改革開放」を支持し、そのような経済の自由化は当然、政治の自由化(五つ目の現代化)にも向かうであろうと期待し、そのための「政治改革」を要求する、といったものであった。趙紫陽も、中国経済の発展のためには複数政党制も含めた政治改革は必要と考え、その時期が来たと認識していたようだ。しかし、鄧小平・李鵬は、政治改革は共産党支配が崩壊することになると危機感を抱き、「四つの基本原則」(1979年3月)を堅持する立場を崩さなかった。つまり、彼らが敵としたのは学生たちではなく、政権内で民主化路線をとる趙紫陽であり、彼を失脚させるには学生の「動乱」がさらに拡大した方が口実として都合が良かったのだった。結局、鄧小平の狙ったとおり、「動乱」と決めつけられた学生は激昂して「共産党打倒」と叫ぶようになり、それは鄧小平に武力弾圧と趙紫陽を失脚させる口実を与えることになった。こうして学生と趙紫陽は敗北し、中国の民主化への道は途絶え、それに対する不満を抑えつけるように鄧小平は(なりふり構わず)経済成長を目指す路線を邁進する。このように捉えれば、1989年第2次天安門事件(八九六四)は、中国が90年代から現在に至る経済大国への道に向かう分水嶺であったといえる。
世界はどう捉えたか
この事件は、おりからのゴルバチョフの訪中にあわせて北京に来ていた外国報道機関によって、世界中のテレビに民衆弾圧の映像が流され、「民主主義の抑圧」「人権弾圧」と受け止められた。アメリカなど「先進国」は、中国に対する「経済制裁」を課すことを決め、日本も同調して第三次対中円借款供与を中断した。中国はこれを内政干渉と反発、「中国の改革開放路線は不変である」と力説した。おりからの東欧革命の進行、11月のベルリンの壁の開放も中国への国際圧力を強めることとなった。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 などによるまとめ>日本でも多くの「中国専門家」がこの事件で社会主義国中国が終わるのではないか、と推測した。東欧革命で東ヨーロッパの社会主義国が次々と倒れ、まもなく1991年8月、ソ連共産党も解党し社会主義の本家のソ連が崩壊したことから、中国および中国共産党も同様な崩壊過程が始まるのではないか、と見た専門家も多かった。しかし、中国はそうはならず、ソ連亡き後、唯一の社会主義を標榜する大国として生き残った。とはいうものの、中国と中国共産党の掲げる「社会主義」そのものが変化してしまったことも事実である。
参考 アメリカの二枚舌
2019年6月に放映されたNHKスペシャル『天安門事件 運命を決めた50日』で、興味深いシーンがあった。鄧小平政権の民主化運動に対する武力弾圧に対し、アメリカ・日本を初め「先進国」はこぞって強く非難し、経済制裁を加えた。ところが事件のしばらく後、アメリカのブッシュ(父)大統領は秘かに鄧小平に親書を送り、経済制裁は表向きのことで、アメリカと日本は実質的な経済協力を進めることに努力する、と述べたという。アメリカ(とそれに追随していた日本)は表向きは鄧小平を非難しながら、裏では取引を継続しようとしていた。日米にとって、改革開放に向かっている中国市場は大きな魅力であり、共産党政権が安定していればそれでよい、というのが本音だったのだ。このあたりに、中国の民主化が進まなかった理由の一つがあるのかも知れない。事件に遭遇した日本人たち また、当時北京で事件に遭遇した日本人は、一般観光客は少なく、ゴルバチョフ訪中を取材に来た記者や、作家の水上勉を団長する文化交流団のほか、その多くは中国に進出していた大手商社や銀行、自動車、製鉄などの企業の現地駐在員だった。6月4日、軍が行動を開始すると、、内戦になるのではないかという恐れから、多くの日本人が急きょ帰国することになったが、空港は大混乱に陥った。そのとき、JALは政府の要請に従い日本人で正規の搭乗券のあるものだけを搭乗させ、外国人や搭乗券の無いものは拒否した。しかしANAの現地係員は独自の判断でカウンターに並ぶ人を日本人、外人の区別なく、臨時にワープロで搭乗券を発行し、費用は後払いでよいとして搭乗させたので多くの人が出国できた。これは日本政府の命令や国際ルールに反することだったが、人道的な現地判断としてとがめられることはなかった。<六四回顧録編集委員会編『証言天安門事件を目撃した日本人たち』2020 ミネルヴァ書房 p.215~ 当時全日空北京支社員尾坂雅康さんの証言>
このとき日本の企業は駐在員を帰国させながら、事態が回復されたと見るや(経済制裁が出されているにもかかわらず)直ちに中国政府との取引を再開しようと活発に動いた。日本企業にとって、共産党政権であろうがなかろうが利益を回収できればいくらでも融資し、取引するのに値するのであった。企業の動きは機敏だったが、彼らの目から見れば、この時日本大使館は邦人保護ではあまり役立たなかったと証言しており、むしろそこに棄民体質さえ感じ取っていた人もいた。<前出、『証言天安門事件を目撃した日本人たち』に多くの証言がある。>
その後の民主化運動
劉暁波のノーベル平和賞受賞 天安門事件が起きたとき、学生を指導した一人が劉暁波であった。彼は北京師範大学で中国文学を学んだ後、アメリカに留学していたが、1989年6月、天安門事件が起きたことを知って急遽帰国して運動に加わり、他の知識人たちとともに学生たちを指導したが「反革命宣伝扇動罪」で投獄された。1991年に釈放されると、国内で人権保護と民主化を訴える活動を開始した。たびたび逮捕されるなど弾圧を受け、2008年には世界人権宣言60周年を記念し、中国の民主化を訴える「08憲章」を発表し、中国の人権抑圧を告発、2010年に国家政権転覆扇動罪で逮捕され入獄した。その劉暁波に同年、ノーベル平和賞が与えられた。それは中国在住の中国人の初めての受賞であったが、中国政府は彼の出国を認めず、12月の授賞式は本人不在の中で行われた。劉暁波のことば「私には敵はいない」が代理人によって読み上げられた。そのなかで劉暁波は、「私は期待する。私が“文字の獄”の最後の被害者になることを」と述べた。文字の獄とは、清朝時代をはじめとする中国の歴史で続いた思想弾圧のことである。Episode 香港に響くテレサ・テンの歌声
香港は1984年の中英共同声明によって、1997年に返還されることが決まっていた。その香港でも天安門事件は強い関心を呼び起こした。天安門広場で学生・市民が民主化を求めて座り込み抗議活動が続くと、香港では北京の学生・市民を支援するコンサートが5月27日に開かれた。テレサ・テン(鄧麗君)らトップ歌手40人余が12時間にわたって香港島ハッピーバレー競馬場の特設ステージで次々とマイクを握った。大観衆は熱狂し1200万香港ドル(当時のレートで2億1600万円)の義援金が集まった。テレサ・テンはその時、「私の家は山の向こう」を歌った。それは抗日戦争の時期に東北地方(旧満州)を追われ、1960年代に台湾に逃れてきた兵士たちが歌っていた望郷の歌だった。「軍事独裁反対」のプラカードを首から吊した彼女は「民主万歳」と記した鉢巻を締め「民主の火を燃やそうよ、私たちの育ったところを忘れてはいけない……」と歌った。その後、6月4日の武力弾圧が現実のものになると、沢山の人が香港に亡命してきた。<『証言天安門事件を目撃した日本人たち』 p.266>