ヨルダン内戦/黒い9月
1970年、ヨルダン政府によるパレスチナゲリラ(PLO)の排除から始まった内戦。「黒い9月」事件ともいう。同じアラブ人であるヨルダンとPLOとの内戦であった。
1970年9月16日、ヨルダン(フセイン国王)政府が、同国内を拠点としてテロ活動を続けるパレスチナ解放戦線(PLO)に対して大弾圧を行った。そのことをPLO側は「黒い9月」と称し、報復としてヨルダン首相を殺害した。これは、それまでパレスチナ解放を支援していた同じアラブ人国家であるヨルダンが、パレスチナ=ゲリラ(PLO)をテロ集団として排除するという姿勢に転換したことを意味し、パレスチナ問題の中に同じアラブ同志の戦いが生じたことによってパレスチナ問題(1940~70年代)の深刻化、混迷化への端緒となった。
当初、ヨルダン政府はPLOを支援していたが、ゲリラの中にはヨルダンの王政を批判するものも現れたので、フセイン国王はパレスチナ難民とPLOの存在を、ヨルダンを危険にさらすものと考えるようになり、1970年9月にPLOに国外退去を宣告し、弾圧を加えた。首都アンマンのパレスチナ難民キャンプが戦場となり、一般市民も巻き込んで、パレスチナ人だけでも4000人近い死者が出た。この、アラブ人同士の対立を憂慮したエジプトのナセル大統領が仲介に乗り出したが、同月28日に急死し、調停は成立しなかった。結局、PLOは敗れて首都アンマンを撤退し、レバノンのベイルートに移らざるを得なくなった。
この屈辱をパレスチナ=ゲリラ側は「黒い9月」と呼んだ。さらに過激化したPLO内部のゲリラ組織ファタハは「黒い9月」グループを組織し、報復に出て翌年11月にはヨルダンの首相を暗殺した。ヨルダンはPLOと断交し、同じアラブ人同士が対立する事態となった。(両者は1985年のアンマン合意で和解する。)
「黒い9月」事件
ヨルダン王国はアラブ諸国の一つであり、パレスチナに隣接してその東に位置するため、第1次中東戦争と第3次中東戦争で生じたパレスチナ難民の多数が移住してきていた。パレスチナ=ゲリラ組織のPLOもヨルダンを拠点に活動し、イスラエルを攻撃したので、イスラエルもしばしばゲリラ鎮圧の名目でヨルダン領内に侵攻してきた。当初、ヨルダン政府はPLOを支援していたが、ゲリラの中にはヨルダンの王政を批判するものも現れたので、フセイン国王はパレスチナ難民とPLOの存在を、ヨルダンを危険にさらすものと考えるようになり、1970年9月にPLOに国外退去を宣告し、弾圧を加えた。首都アンマンのパレスチナ難民キャンプが戦場となり、一般市民も巻き込んで、パレスチナ人だけでも4000人近い死者が出た。この、アラブ人同士の対立を憂慮したエジプトのナセル大統領が仲介に乗り出したが、同月28日に急死し、調停は成立しなかった。結局、PLOは敗れて首都アンマンを撤退し、レバノンのベイルートに移らざるを得なくなった。
この屈辱をパレスチナ=ゲリラ側は「黒い9月」と呼んだ。さらに過激化したPLO内部のゲリラ組織ファタハは「黒い9月」グループを組織し、報復に出て翌年11月にはヨルダンの首相を暗殺した。ヨルダンはPLOと断交し、同じアラブ人同士が対立する事態となった。(両者は1985年のアンマン合意で和解する。)
ミュンヘン・オリンピック襲撃事件
パレスチナ解放機構(PLO)のゲリラ組織ファタハは、1970年の9月のヨルダン政府軍によるパレスチナ難民キャンプ襲撃による弾圧に対する報復を行うべく「黒い9月」と称するテロ実行部隊を組織した。71年には「黒い9月」はヨルダン首相を暗殺した。さらに過激な対イスラエルのテロ活動を計画し、1972年9月、ミュンヘン・オリンピックの選手村を襲撃してイスラエル選手9名を人質にする事件を起こし、オリンピック史上最大のテロ事件として世界を震撼させた。追いつめられたゲリラが1970年代に立て続けに極端なテロに走るという、パレスチナ問題(1940~70年代)の深刻な様相がますます深くなっていった。