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中東問題/パレスチナ問題

第二次世界大戦後、パレスチナへのイスラエル建国によって、アラブ人とユダヤ人の対立は深刻となり、1970年代初頭までにアラブ側はエジプトを盟主としてイスラエルとの4次にわたる戦争を展開した。

 中東・イスラーム世界は、現在世界の不安定要素となる二つの問題が存在する。一つは、イスラエル建国にともなうアラブとイスラエルの対立というパレスチナ問題であり、もう一つがペルシア湾沿岸諸国であるイランとイラクの関係であり、イラン=イラク戦争・湾岸戦争・イラク戦争へとつながっている。この二つの問題には、宗教対立、民族対立に加え、冷戦期までには米ソ二大国の、冷戦終結後にはアメリカの大国としての介入から来る問題が絡んでいる。この二つの流れは密接に関係しているが、ここでは主としてパレスチナ問題を軸にその過程をまとめる。

(1)中東戦争 1940~70年代初頭

 パレスチナ問題は、パレスチナにおけるユダヤ人国家イスラエルと、アラブ系パレスチナ人およびアラブ諸国の対立を軸とした国際紛争である。1948年のイスラエル建国時のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)から始まる4次にわたる中東戦争が続き、なおも対立を続けている。

パレスチナ問題の原因

 ユダヤ人アラブ人は、ユダヤ教イスラーム教という宗教でも対立するが、本来はこの両者はともにセム系民族であり、ともに一神教という共通点があり、イスラームではユダヤ教を「啓典の民」として認めているので、共存していたものである。
 この両者の対立が始まったのは、もっぱら19世紀末に始まるユダヤ人のパレスチナへの帰還を進めるシオニズムと、それを利用して第一次世界大戦において対オスマン帝国(ドイツ・オーストリアの同盟側に参戦していた)戦略を有利に進め、中東に足場をかためて「インドへの道」を確保しようとする帝国主義下のイギリスの外交政策によるものであった。イギリスは大戦中にユダヤ人に対しパレスチナでの「ホームランド」の建設を認めるバルフォア宣言とともに、アラブ人には対トルコ反乱を条件に独立を認めるフセイン=マクマホン協定を結ぶという「二枚舌外交」(大戦後の中東をフランスと分割することを約束したサイクス=ピコ協定を加えれば「三枚舌外交」)を行い、パレスチナでのユダヤ人とアラブ人双方の権益に口実を与えたのだった。大戦後、パレスチナ委任統治となり実質的にはイギリスが植民地統治したが、ユダヤ人の移住が多くなりアラブ人との紛争が激しくなると、アトリー内閣は委任統治期限の終了と共に撤退し、問題解決を国際連合に預けることとなった。

中東戦争の展開

  • 第1次中東戦争 1947年11月、国連はパレスチナ分割案を決議し、解決を図った。それを受け入れたユダヤ人が1948年5月14日にイスラエルを建国したが、その分割はアラブ人側に不利であったため、アラブ連盟が反発し、翌5月14日パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発した。戦争は全面的なイスラエルの勝利となり、エジプト王国などアラブ連盟軍が敗北、イスラエルは事実上、パレスチナを占拠して国家を建設した。アラブ系住民はパレスチナ難民となって近隣のヨルダン、レバノン、シリアなどに逃れた。この時土地を失ったアラブ難民にとってはこれが現在に続く苦難の始まりであったので、イスラエルが独立宣言をした5月14日を「大災厄(ナクバ)」として記憶している。また、敗れたアラブ諸国は、王政や豪族連合体の諸国で、戦闘能力も結束力も弱いことを露呈した。そのことはアラブ側に深刻に受け止められ、まず1952年にエジプトで自由将校団による王制打倒のエジプト革命が行われて共和政となり、イラクにも波及、アラブ側にも大きな転機となった。こうしてパレスチナ問題はパレスチナにとどまらず、イスラエル(及びその背後の英仏、アメリカ)対アラブ諸国の中東全域を舞台とした戦争に発展していく。
  • 第2次中東戦争 1956年10月29日に勃発した第2次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言したところから、反発したイギリス・フランスがイスラエルと共にエジプトを攻撃して始まった。英仏軍の支援を受けたイスラエル軍はシナイ半島を占領したが、国際世論はアメリカ・ソ連のいずれもイギリス・フランスを非難し、英仏とイスラエルは国際的に孤立したため撤退、エジプトのスエズ運河国有を認めた。エジプトのナセルは戦争では敗れたが実質的な勝利を得て、アラブ世界の英雄として認められ、以後のアラブ勢力はナセルを中心に展開される。ナセルは1958年、シリアとアラブ連合共和国で合同しアラブ世界の統合を目指したが、その試みは1961年にシリアが離脱したため失敗した。
  • 第3次中東戦争 パレスチナ難民の中からイスラエルを敵視し、アラブ人による国土の奪還を目指すパレスチナ解放機構(PLO)がエジプトとシリアの支援によって、1964年5月に結成された。それをイスラエルは強く警戒したが、国際世論がアラブよりになり、英仏も直接的にイスラエルを支援できなくなると、イスラエルはみずから空軍など軍事力の強化に走り、1967年6月5日第3次中東戦争を仕掛け、6日戦争と言われる短期間に、シナイ半島ヨルダン川西岸ガザ地区などを占領する一方的勝利を収めた。これでナセルの権威は失墜し、間もなく死去した。
  • 第4次中東戦争 ナセルに代わったエジプトサダト大統領は、1973年10月6日にイスラエルに対する奇襲攻撃を成功させ、世界を驚かせた。この第4次中東戦争では、緒戦においてはじめて敗北したイスラエルは間もなく反撃したが、今度はアラブ諸国が「アラブの大義」を掲げて結束し、石油戦略を展開、有利な休戦に持ち込み、シナイ半島のエジプトへの返還の見通しとなった。しかし、ガザ地区やヨルダン川西岸にはイスラエル人の入植が進み、そこからの撤退は認めなかった。

★中東戦争の年代をまとめて覚える 

中東問題/パレスチナ問題(2) 1970年代

エジプトを中心としたアラブ諸国とイスラエルの対立を軸とした中東問題は1973年の第4次中東戦争で終わり、70年代はパレスチナ解放機構(PLO)のゲリラ闘争がその主役となった。70年代前半はそのテロ活動が最も活発に展開されたが、70年代後半から「二国家共存」路線の模索が始まる。

 第1次、第3次の中東戦争によってイスラエル占領地から追われたアラブ系のパレスチナ難民は増え続けた。その解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO)は1964年にナセルなどの支援で結成されたが、1969年に最も過激なファタハを率いるアラファトが議長に就任してから、パレスチナの解放と難民の帰還を目指す反イスラエル闘争の中心勢力として、ゲリラ活動を本格化させた。

アラファトの登場

 1969年にPLO議長となったアラファトは、当初、パレスチナの東のヨルダンのパレスチナ難民キャンプを拠点とし、旅客機のハイジャック、爆破などの過激なテロ活動を指導し、周辺のアラブ諸国を巻き込みながらイスラエルに対する攻撃を強めていった。

ヨルダン内戦

 ヨルダン王国政府はPLOが王政打倒に向かうことを恐れ、1970年9月16日にPLO排除をねらいその拠点の難民キャンプを襲撃、一般市民もふくめて多数の犠牲者が出た。このヨルダン内戦(パレスチナ人は「黒い9月」といった)は、アラブ同士の戦いとなったので、エジプトのナセルが和平交渉を仲介しようとしたが彼の同月28日に急死のためまとまらず、やむなくPLOはレバノンに本拠を移動させた。

PLOによるテロ活動

 1970年代前半は、PLOによるイスラエル、およびイスラエルに同調するアメリカなどの諸国に対するテロ活動が最も激しく展開された。1972年5月のイスラエル・ロッド空港でのテロ事件(日本赤軍と称するグループが空港を襲撃した)、同1972年9月の「黒い9月」によるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などが相次いだ。
 エジプトでアラブの盟主としてナセルを継承したサダト大統領は、1973年10月6日にイスラエルに対する奇襲攻撃を実行して第4次中東戦争を起こしたが、緒戦では勝利したもののイスラエルの反撃を受け、からくもアラブ諸国の石油戦略によって停戦に持ち込むことができた。イスラエル占領地の奪還ができなかったエジプトはイスラエルとの和平を模索することに転じていくとともに、中東でのエジプト主導によるアラブ陣営の戦略は頓挫することとなった。
 1974年10月にはアラブ首脳会議(モロッコで開催されたアラブ・サミット)で、アラブ諸国はPLOをパレスチナ人の唯一の正統な代表であることを認め、同時にヨルダンヨルダン川西岸の統治権を放棄したことで、PLOはその地を領有する国家としての実態を手にすることができた。またアラファト議長が国連で演説するなど、PLOが国際的に認められる動きが出てきた。

レバノン内戦

 PLOが拠点を移したレバノンでは、キリスト教マロン派などのPLOに対する反発が強まり、1975年4月13日からレバノン内戦が始まった。内戦は泥沼化し、シリアが介入してPLOを攻撃、PLOは再び苦境に立たされることになった。
エンテベ空港事件 1970年代にはパレスチナ解放を叫ぶテロリストによるハイジャック事件で、イスラエルが最も強硬な姿勢を示したのが、1976年6月に起こったエンテベ空港事件である。6月27日、イスラエルのベングリオン空港発パリ行きのエールフランス機がゲリラ4名(女性一人を含むドイツ人はバーダー=マインホフのグループ、パレスチナ人2名はPFLP(パレスチナ解放戦線。PLOの中の最も過激なグループ)。4人が乗っ取った機はアフリカ・ウガンダのエンテベ空港に着陸した。その現地でゲリラ2名が合流し、イスラエルに拘留されている仲閒の釈放などを要求した。ウガンダの独裁者アミン大統領は当時は反イスラエルであったのでゲリラに協力した。イスラエルでは首相ラビン、国防相ペレスらが対応を協議、煩悶の末、武装救助隊を突入させることを決意、7月4日、空路エンテベに飛んだ特殊部隊がゲリラを急襲して殺害、人質209名を救助した。このときイスライル兵で犠牲となったのはヨナタン=ネタニヤフ一人であったが、この作戦での英雄として称賛された。彼の弟が後の首相ベンヤミン=ネタニヤフである。この作戦はアラブ=ゲリラによるハイジャック事件で人質救出に成功した例としてよくとりあげられるが、イスラエルの強硬姿勢が目立つ。自国の空港にいきなり外国軍隊が奇襲してきたので、当然アミン大統領は激怒し、国連安保理にも訴えた。しかしアミンは独裁者として国際的に孤立していたので、どの国もイスラエルを非難することは無かった。

エジプト・イスラエルの和平

 そのような中、エジプトのサダト大統領は大胆な転換を行い、まず1977年にイスラエルを電撃訪問して議会で演説し、次の1978年9月には、アメリカのカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とのエジプト=イスラエルの和平で合意し、1979年3月26日エジプト=イスラエル和平条約を締結した。
 これによってエジプトとイスラエルの間の戦争は終わりを告げたが、パレスチナにおけるイスラエルの存在を認めることになるこの和平は、PLOや他のアラブ諸国が強く反発し、エジプトはアラブ世界で孤立し、対イスラエルのアラブの足並みは大きく乱れることとなった。

中東問題/パレスチナ問題(3) 1980年代

1979年のエジプト・イスラエルの和平成立で、両国間の戦争は終結したが、その後80年代にはPLOを中心としたパレスチナ人ゲリラ組織とイスラエルとの激しい衝突が続いた。

 パレスチナ問題は、4次にわたる中東戦争を経て、1979年のエジプトのサダト大統領がイスラエルを承認し、エジプト=イスラエル和平条約が成立した。その後の対立軸は、PLOに代表されるパレスチナ=ゲリラ組織とイスラエルとの「戦争という形態をとらないが実質的には戦争である」状態へと転換した。
 アラブ側、イスラエル側にもそれぞれ相手の存在を認め、和平して共存しようという動きも見られるようになるが、双方にすぐに相手を徹底的に排除するまで戦おうという原理原則を主張する勢力が現れて、和平の機会は壊されていった。 全面的な戦争は起こっていないが、完全な中東和平への道のりはかえって困難になってしまった。

PLO対イスラエル

 エジプト=イスラエルの和平は、パレスチナでの当事者であるパレスチナ解放機構(PLO)を除外しての和平であったので、PLOのアラファト議長は激しく反発した。その拠点をヨルダンからレバノンに移していたPLOは、レバノンから盛んにイスラエルに対するテロ攻勢をかけるようになった。
イスラエルのレバノン侵攻  一方イスラエルは、エジプトとの和平で南方での戦力配置を北方に転用することが可能となり、レバノンを拠点にイスラエル攻撃を繰り返すPLOに対する全面作戦に踏み切った。1982年6月レバノン侵攻に踏み切り、PLOに対して徹底した攻撃を仕掛けた。これを第5次中東戦争と呼ぶこともある。その結果、PLOはベイルートを維持できなくなり、チュニジアに本拠を移動させた。
 PLOの主流ファタハとアラファト議長は、パレスチナの地を離れたことによって主導権を失い、従来のテロ戦術から、タハは外交手段による国際的な地位の向上を目指し、並行してイスラエルとの和平を模索するようになった。しかし、PLOの和平路線に対して原理的なイスラエルとの戦いを継続すべきであるという、新たな過激グループも出現し、パレスチナ解放を巡る方向性に分裂の傾向が現れてきた。

インティファーダ(民衆蜂起)

 このようなパレスチナ側の運動の手詰まりを打開したのが、1987年12月ガザ地区のパレスチナ人民衆の中から始まったインティファーダ(民衆蜂起)であった。いままでの軍隊同士の闘いではハイテク武装したイスラエル軍が圧倒的に有利であったが、女性や子供も含む民衆が武器を持たずに立ち上がるという形態にはイスラエルも手を焼き、中東和平を望む国際世論を無視できなくなった。

PLO・アラファトの方向転換

 また一方で1988年、PLOはパレスチナ国家樹立を宣言するとともに議長アラファトが国連総会で演説してイスラエルの存在を認め、テロ活動停止を表明し方向を転換し、1990年代の和平交渉の時代につながっていく。
アラファトの「二国家共存」構想  1988年にアラファトの提唱した「二国家共存」構想とは、イスラエル国家の存在を承認し、パレスチナの地で共存しようというものであった。具体的には、
  • パレスチナ全体の78%をイスラエルに譲り、残りの22%に相当するヨルダン川西岸ガザ地区に限定した「ミニ国家」を建設する。
  • パレスチナ問題を単なる難民問題と規定した国際連合の第242号決議を受諾する。
  • PLOの憲法である「パレスチナ民族憲章」では非合法とされてきた、1947年の国連パレスチナ分割決議第181号を受け入れる。
  • PLOは、将来、西岸・ガザが解放された場合、パレスチナ人の唯一正統な代表となる。
というもので、かなり思いきってそれまで敵対していたイスラエルとの妥協を図ろうとしたものであった。アラファトはこの構想にもとずいて中東和平プロセスを、暫定自治 → イスラエル軍の段階的撤退 → 東イェルサレムを首都と定めたパレスチナ国家樹立、へと進めることを想定していた。
 1994年、ガザに帰還したアラファトは、次に西岸のヘブロン、ナブルス、ベツレヘムを経てイェルサレムに到達することを予言した。こうして中東和平の焦点は、果たしてイスラエルがこの提案を受け入れ、西岸・ガザから撤退するかどうか、にかかってきた。

参考 エドワード・サイードの「パレスチナとは何か」

 エドワード・W・サイード(1935~2003年)はイェルサレムに生まれ、幼少時にアメリカにに移住したパレスチナ人。文学・思想・マスコミなどを学びコロンビア大学教授などを務め、日本でもその主著『オリエンタリズム』は広く知られている現代の重要な思想家のひとり。サイードが『パレスチナ問題』、『イスラーム報道』などとともにパレスチナについて語ったのが『パレスチナとは何か』1986。写真家ジャン・モアの写したパレスチナの情景に添えて、自分の体験を交えてパレスチナとは何か、パレスチナ人とは何かを自由に語っている。その中から、サイードがパレスチナ人という立場で1948年から1986年までの動きについて語った部分があるので、参考のためにやや長いが引用します。
(引用) 1948年にイスラエルが建国された。パレスチナは破壊され、パレスチナからの大いなる強奪が開始された。1956年には、エジプトが、英仏とイスラエルによる侵略を受け、当地にあった地中海東部沿岸諸国の人々(イタリア人、ギリシア人、ユダヤ人、アルメニア人、シリア人)の大きな共同体から立ち退かされることとなった。アブド・アン==ナーセル〔ナセル〕の擡頭は、アラブ的ナショナリズム復活の展望を拓いて、すべてのアラブ人――――とりわけパレスチナ人――――を熱狂させたが、シリアとエジプトの連合が1961年に挫折した後は、いわゆるアラブの冷戦が、本格的に始まってしまった。サウジアラビア対エジプト、ヨルダン対シリア、シリア対イラク・・・・・・といった具合にである。難民、移民労働者、移動政党といった新種の人間集団が、アラブ世界を縦横に往来した。私たちパレスチナ人は、シリアとイラクのバース党〔的汎アラブ〕主義、エジプトのナセル主義、レバノンのアラブ民族運動などの政治的活動に没入していったのである。
 1967年の中東戦争〔第三次〕の後、ほどなくアラブの石油ブームが起こった。パレスチナ人のナショナリズムは、この時初めて中東における独立した勢力として勃興したのである。私たちの未来が、あの時ほど希望に満ちてたものと思われたことは一度もなかった。しかしながら、政治の舞台に私たちが登場したことは、やがて非常に多くのやや不健全な諸現象を、実際に引き起こしたのではないにせよ、鼓舞することとなった。そうした諸現象とは、すなわりイスラム原理主義、マロン派キリスト教のナショナリズム、ユダヤ教徒の狂信的な行動である。新しい消費文化とコンピューター化された経済が、アラブ世界における貧富、新旧、特権の有無といった驚くべき不均衡の数々をいっそう悪化させた。すると、1975年にレバノンで内戦が始まり、レバノンの諸派、パレスチナ人、アラブや外国の諸勢力は、互いに敵対関係を強めたのである。アラブ人の生活の知的・政治的な神経中枢としてのベイルートは崩壊した。私たちにとってそれは、パレスチナ解放機構をその心臓部に据えた唯一の重要で、相対的ながら独立性を有するパレスチナ的ナショナリズムの中心の終焉であった。ワンワル・アッ=サーダート〔エジプト大統領サダト〕はイスラエルを承認し、キャンプ・デイヴィッドでの合意は、中東における連合関係を骨抜きにし、地域の力の均衡を粉砕した。1979年のイラン革命の後に勃発したのはイラン=イラク戦争であった。1982年のイスラエルによるレバノン侵攻は、サブラーとシャーティーラーのパレスチナ難民キャンプでの虐殺により同胞の数がいっそう減少したがゆえに、パレスチナ人の活動家の数を却って増加させることになった。1983年の末になると、パレスチナ人は互いに戦い合っており、シリアとリビアは、直接介入に及び、PLOの支持者たちに抗して異端派のパレスチナ人たちを援助した。しかしながら、私たちの政治的宿命に特有のアイロニーだとはいえ、1985年半ば、私たちはサブラーとシャーティーラーにおいて団結し、シリアの後援を受けるシーア派の軍事組織〔アマル〕の反乱を一掃しようとして闘ったのである。<エドワード・W・サイード『パレスチナとは何か』2005 岩波現代文庫 原書は1986刊、日本初刊は1995>

中東問題/パレスチナ問題(4) 1990年代

1991年の湾岸戦争以降、アメリカの中東における発言力が増し、アメリカ主導の和平交渉が進んだ。しかし、PLOを排除した交渉は成功せず、ようやくPLOとイスラエルが直接交渉を行い、93年にパレスチナ暫定自治協定が成立してパレスチナでの「二国共存」による和平へと前進した。

 第二次世界大戦直後に始まったパレスチナ問題は、4次にわたる中東戦争を経て、1979年のエジプト=イスラエル和平で大きく解決に向かうかと思われたが、かえってアラブ間の足並みが乱れて、1980年代のパレスチナ問題は複雑かつ深刻なものになった。続く90年代から現在までの動きは次のようなものであり、基本的には解決に向けての進展はなく停滞した。

湾岸戦争

 1991年湾岸戦争は、アラブ側が一枚岩になりきれないことを明らかにし、アメリカの中東に対する発言権を強めた。とくにイラクのサダム=フセインは、クウェート侵攻はイスラエルのパレスチナ占領に対抗する戦略であるとして、「リンケージ」と称してイスラエルをミサイル攻撃した。イスラエルは隣接しない国からの空爆にパニックになり、防毒マスクが飛ぶように売れた。結局アメリカがイスラエルに強く自重を求め、アラブ諸国もイラクに同調しなかったので、全面対決にはならなかった。アラブ諸国がイラクと同調しなかった中で、PLOのアラファト議長はイラク支持を表明したために、アラブの中での国際的地位が低下した。

和平気運の高まり

 湾岸戦争によって中東での主導権を握ったアメリカブッシュ(G.H.W)(父)大統領は、1991年10月末、スペインのマドリードにソ連ゴルバチョフ大統領との共催という形で主要国とイスラエルを招聘して中東和平会議を開催した。冷戦終結後の米ソ二大国主導による国際秩序の安定を狙ったもので、この会議で初めてイスラエル代表と、パレスチナ代表が顔を合わせた。しかし、パレスチナ代表は単独ではなく、レバノンとの合同代表という形を取り、しかもイスラエルの強い反対でPLOはパレスチナ代表から除外された。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.105-107>
 そのため、パレスチナ問題に関する具体的な前進は得られず、会議は閉幕した。一方で会議に招聘されなかったPLOのアラファト議長も、国際的に存在をアピールする必要に迫られた。なお、この時すでに8月、ソ連派保守派クーデターに失敗、12月にソ連邦が解体したため、ソ連としての国際会議参加はこれが最後となった。

オスロ合意

 そのような変化の中で、ノルウェーのホルスト外相の仲介でPLOとイスラエルの当事者間の秘密の話し合いが初めて行われ、1993年に中東和平に関するオスロ合意に基づき、アメリカのクリントン大統領のもとでPLOアラファト議長とイスラエルラビン首相の両代表が握手しパレスチナ暫定自治協定が成立、1994年5月にパレスチナにはパレスチナ暫定自治行政府(実体はPLO)が設立されることになった。これによってヨルダン川西岸ガザ地区でのパレスチナ人による“暫定自治”(先行自治ともいう)が始まった。このように1990年代はパレスチナ問題に関して和平気運が盛り上がった時期であったが、しかしこの状況は長続きしなかった。
積み残された難問 オスロ合意は「二国家共存」を原則的に認めたが、具体的な争点は積み残したままであった。未解決の問題で最も双方の主張に隔たりがあるのはつぎの三点であった。
  1. イェルサレム問題 イェルサレムはイスライルとパレスチナ国家がいずれも首都とすると主張した。第三次中東戦争以来イスラエルが実効支配している東イェルサレム(旧イェルサレム)はユダヤ教徒、イスラーム教徒のいずれにとっても聖地であったので、その管理をどうするかが最大の難問であった。
  2. パレスチナ難民の帰還問題 中東戦争の結果として生じた多数のパレスチナ人の難民は和平と共に故郷に帰ることを強く希望した。しかしもしイスラエルがそれを認め、イスラエル国内にパレスチナ人が多数になれば、「ユダヤ人の国家」という理念が危うくなる。イスラエルはそれは絶対認められないことであった。
  3. ヨルダン川西岸のイスラエル人入植地問題 イスラエルはガザ地区のイスラエル入植地は後に後に撤収することにしたが、ヨルダン川西岸からは撤退を拒否している。この地はユダヤ人にとって約束の地の一部であり、第3次中東戦争の犠牲の上に奪還した入植地は手放すわけにはいかない、というのが特にイスラエルの右派・強硬派の主張だった。イスラエル政府としても支持を失いたくないため、入植地撤退には応じず、パレスチナ人の自爆テロから守るという口実で壁を作り、まったく交流がたたれた状況になっている。
オスロ第二合意 オスロ合意に基づく交渉は、まず自治の実施と拡大から着手され、1994年5月の「カイロ協定」でガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで自治の先行実施が決まり、自治区での警察権の移行が行われた上で、同年7月、アラファトが25年ぶりでパレスチナに帰還した。さらに1995年9月にはオスロ第二合意が成立して自治地区の拡大とパレスチナ自治政府の議会と統治機構議長の選出が決まった。96年に実施された選挙でアラファトは統治機関の議長(大統領にあたる)に選出された。しかし、イスラエルは自治区以外に広い入植地の行政と警察権を維持していた。

オスロ合意に対する反発

ヘブロン乱射事件 オスロ合意に反対する勢力の過激な動きは、早くも1994年2月25日、イスラエル占領地のヨルダン川西岸ヘブロンで起こった。ラマダン期間中のイスラーム教安息日の金曜にヘブロンのイブラヒム・モスクに集まって礼拝をしていたパレスチナ人に向かって、ユダヤ人のユダヤ教過激派が自動小銃を乱射、8歳の子どもを含む29人が射殺され100人以上が負傷した。ヘブロンはユダヤ、アラブの共通の祖先、族長アブラハムの墓所があり、ダビデ王が即位した所でユダヤ教徒にとっての聖地である。ユダヤ人が「マクペラの洞窟」と言っている墓所には後にムスリムがイブラヒム・モスクを建てた。第三次中東戦争でヨルダン側西岸をイスラエル軍が占領し、ヘブロンの近くに入植地を作り、ヘブロン中心部にも勝手に住み着いて、両者は一触触発の情況になっていた。実行犯バルーフ・ゴールドシュタインはアメリカ国籍を持つ35歳のユダヤ人医師でシオニズムを掲げるユダヤ人過激派組織「カハ」の幹部であり、襲撃の狙いはオスロ合意を破壊し、パレスチナ人を追いだすことだった。<船津靖『パレスチナ――聖地の戦争』2011 中公新書 p.74>
 ユダヤ人過激派の挑発に対し、パレスチナ人はただちに反撃してイスラエル軍に火炎瓶などを投げ、3日間で約20人が死亡、ハマスなどの反和平派はオスロ合意反対を叫び、PLOアラファトも暫定自治交渉を中断させざるを得なくなった。オスロ合意が入植地問題の交渉から棚上げしていた点を突かれたのであり、その欠陥が明るみに出たことによって、和平反対派は勢いづき、ハマスのテロに大義名分を与える結果となった。それに誘発されたようにハマスは「自爆テロ」という新たな抵抗手段を実行するようになり、それがさらにイスラエル人を恐怖に陥れて報復を行うという悪循環が始まる。
自爆テロの始まり 1994年4月6日、イスラエル北部の町アフラのバス停で停車していたバスに後続の乗用車が突っ込み運転手もろとも爆発、バスの乗客7名(3人の少女を含む)が死んだ。直後にハマスが犯行声明を出し、自爆したのは19歳の青年であることを明らかにして彼が「イスラエル軍に殺された弟の恨みを晴らす」と家族に告げたビデオを公開した。4月13日にもバスの後部座席で爆発が起き6人が死亡した。そのころイスラエルではホロコースト犠牲者を追悼する国家式典が行われており、リクード出身のワイツマン大統領は自爆テロをユダヤ人に対する新たなホロコーストであると非難した。

中東問題/パレスチナ問題(5) 2000年~現在

1990年代、中東問題は和平の機運が盛り上がり、二国共存で解決の方向に向かうと思われたが、2001年の同時多発テロ、湾岸戦争の勃発で大きく変化し、混乱の度合いを増すこととなった。パレスチナ側にはハマスなどの新たな過激派組織が台頭、イスラエルにもリクード党の強硬路線が現れ、互いに妥協を拒否する勢力が実権をにぎるようになった。そのため平和共存は否定され、なおも双方によるテロ、武力攻撃、空爆が相次ぎ、犠牲者が出続けている。

対立の再燃

 世界は1989年の東西冷戦の終結、1991年のソ連崩壊という大きな節目を迎えていた。湾岸戦争でのアメリカ軍の進駐に反発したアラブ過激派のイスラーム原理主義運動が盛んになり、パレスチナの中にもアラファトなどPLO幹部の和平路線に反発する新たな勢力としてハマスが台頭した。一方のイスラエルでも和平を進めてきた労働党政権のラビン首相が1995年11月4日にユダヤ教急進派に暗殺されて和平機運が後退した。イスラーム教・ユダヤ教双方の原理主義者はいずれもオスロ合意の「二国家共存」を認めず、相手を徹底的に排除することを掲げたことで、和平機運は急速に衰えた。
オスロ合意の最終的な破綻 2000年7月にアメリカのクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長がワシントン郊外のキャンプ・デーヴィッド首脳会談を開催、オスロ合意で積み残された交渉に臨んだが、イェルサレム首都問題、パレスチナ難民帰還権問題などで双方の妥協が得られず、決裂した。これは1993年以来のオスロ合意が破綻したことを意味し、中東・パレスチナ問題は再び混沌とした対立の時期へと戻ってしまった。

パレスチナ問題の混迷

 2000年9月28日にイスラエル右派のリクードの党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教徒が管理する神殿の丘に立ち入ったことに対して、パレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こり、再び対立の時代に戻ってしまった。この運動はイスラーム原理主義の流れをくむハマスが行い、和平路線を採る主流派ファタハとの対立がさらに深まった。

21世紀の情勢

 2001年にはイスラエルに右派リクードのシャロンが首相に就任、対パレスチナ強硬路線が強まった。同2001年9月の同時多発テロをアラブ過激派の犯行と捉えたアメリカは「テロとの戦争」を掲げてアフガニスタンに侵攻を行った。世界の耳目がアフガニスタンに向かう中、シャロン政権はアメリカの「テロとの戦争」に同調してPLOに対する対決姿勢を強め、テロリストの侵入を防ぐという安全保障フェンスとしてユダヤ人入植地とパレスチナ人居住区の間に隔離壁を建設し、さらにたびたびパレスチナ自治区に軍事侵攻し、ヨルダン川西岸ラマラの自治政府を包囲し、2002年2月にはアラファト議長を軟禁状態においた。
アメリカ主導のロードマップ アメリカブッシュ(子)大統領はイラク戦争を遂行する上で、その大義のためにはパレスチナ和平を進める必要があり、2002年6月、パレスチナ和平実現に向けての包括的な合意を提言、その前提としてアラファトのPLOをパレスティナから排除することを求めた。2003年、ブッシュ大統領の仲介によりイスラエルのシャロン首相、パレスチナ自治政府のアッバス首相のアカバ会議がもたれ、中東和平ロードマップを作成、国連もそれを支持することとなった。
イスラエルのガザ撤退 アメリカ・EU・ロシア・国連の四者が進めるロードマップに対し、シャロンもそれに従い、強硬姿勢を転換させた。シャロン首相はガザ地区からの入植者と軍隊の撤退に合意し、2005年8月には撤退を実行した。一方前年の2004年11月にはPLO議長のアラファトが死去し、穏健派と見られたアッバスが後継者に選出され、和平交渉の進展が期待された。

パレスチナの分裂

 イスラエルはガザ地区からの入植者・軍隊の撤退を実現させたものの、さらに広大なヨルダン川西岸地区の占領地区ではユダヤ人の入植を進め、入植地を守るための壁の建設を強行したため、対立はなおも続いた。一方のパレスチナではイスラーム原理主義のハマスが台頭し、PLO主流派ファタハ政権の腐敗を攻撃したことで支持を伸ばし2006年1月のパレスチナの総選挙で圧勝し第1党となった。ファタハ政権が成立したが議長のアッバスはハマスの首相を解任、対立は決定的となり、ヨルダン川西岸はファタハ、ガザ地区はハマスが統治するパレスチナの分裂となった。イスラエルは、2005年頃からハマスによるロケット弾攻撃を受けていたので、ハマスをテロ組織と断定して交渉を拒否した。
 一方、イスラエルではガザ地区撤退を進めていたシャロン首相が2006年1月に脳卒中で倒れ、国内での右派の発言力が強まり、同2006年8月にはイスラエル軍がレバノン南部を実効支配しているヒズボラのテロ活動を排除するという理由でレバノン南部に侵攻した。
 2008年12月にはイスラエルは今度はガザ地区のハマスを空爆、ハマスもロケット弾で応酬するというガザ戦争が起こった。イスラエルでは2009年からはリクード党の最強硬派ネタニヤフが政権を握り、双方が妥協を拒否、対決はさらに深刻化した。

オバマ演説と中東問題

 2009年6月、オバマ大統領はエジプトのカイロ大学で演説し、戦争と抗争に明け暮れた9.11後の世界を克服し、民族・宗教間の亀裂修復を訴え「すべての人間は平等であり、人種、民族、宗教は異なっても、平和と安全のもとで暮らし、教育の機会を付与され、尊厳を持って働きたいという共通の願いを希求している」と述べた。この「新たな始まり」と題する演説でオバマ大統領は、中東問題の唯一の解決はイスラエルとパレスチナ国家の「二国家共存」が最も現実的であるとして、双方に互いを認め合うこと、特に現実問題としてはイスラエルが西岸とガザ地区から撤退を完了することを訴えた。これによって世界に中東問題が解決に向かうものと大きな期待を寄せたが、「二国家共存」は大きな障害に突き当たっている。二国家共存路線を進めていたパレスチナ側のPLOが大きく後退し、それを否定するハマスが台頭し、イスラエルでも依然としてパレスチナ国家を否定する大イスラエル主義が根強く、特にヨルダン川西岸での入植地から撤退することを頑強に拒んでいる。また、ハマスが実効支配するガザ地区は、イスラエル攻撃の拠点となっているとして激しい攻撃を加えている。現実は、「二国家共存」路線ではなく、互いに相手を抹殺して「一国家一民族」国家を目指す方向に向かって行きかねない、大きな危機に至っている。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書>
 2011年のこの危機感は残念ながら現実のものとなり、二国家共存の可能性はさらに薄くなっていった。

2021年5月 ガザ戦争

 2021年5月、パレスチナ自治区のガザ地区イェルサレムが空爆して再びガザ戦争と言われる緊迫した事態となった。きっかけは4月中旬、イスラーム教のラマダーン(断食月)の開始に当たり、イスラエル当局がイェルサレム旧市街入り口でパレスチナ人の出入りを制限したことに対してパレスチナ側が反発して暴動が起きたことだった。同じ時期にイスラエルが実効支配している東イェルサレムで、一部のパレスチナ人に退去命令が出されたこともパレスチナ側の反発を強める要因となった。それに対してガザ地区のハマスの軍事組織が5月10日夜、イスラエル軍に対してロケット弾を発射し、14日にそれに対する報復措置としてイスラエル軍がガザ地区を空爆、さらに地上部隊が砲撃を加えたのだった。これまでも何回となく繰り返された砲撃と空爆の応酬であったが、今回はエジプトが仲介に動き、2021年5月20日、停戦となった。
 このときのガザ戦争では、若者の間でのSNSによる情報拡散が事態を大きくした面がある。東イェルサレムで立ちのきを命じられたパレスチナ人の抗議に対するイスラエル治安部隊の暴力がインスタグラムに投稿され、瞬く間に広がった。一方ではTikTokにパレスチナ人の少年がユダヤ教徒を平手打ちする動画が投稿され、それが拡散されてイスラエル人の怒りを買った。互いの暴力的な動画が次々と投稿され、反発しあうという応酬が繰り返され、SNS上の情報戦の様相となった。中には偽の写真や動画が投稿されるケースもあった。ニューヨークタイムズによるとイスラエルの報道官がガザ地区からロケット弾が発射される様子としてツィッターに投稿した動画は、実際には数年前にシリアかリビアで撮られたものだとみられるという。ロイター通信によると「ガザ地区で亡くなった家族の血を掃除する少年」として投稿された写真は実際には牛の血がついた床を食肉処理場で掃除する写真で、9年前のものだったという。SNSによる情報は、大きな役割を果たしていると同時に、事態を違った方向に拡散させかねない危険性もある。<朝日新聞 2021/5/28 「世界発2021」記事より>
 SNSが若者の原動力となり、分断を越えた連帯を生み出すとともに、誤った、あるいは悪意のある投稿によって憎しみを増幅させる恐れもあることを冷静に見る必要がありそうだ。

NewS 2023年10月 イスラエル軍のガザ侵攻(ガザ戦争の再発)

 2023年10月7日ガザ地区を実効支配するイスラーム原理主義集団ハマスは、イスラエルに向けてロケット弾を発射、さらに国境をブルトーザーで破壊したり、地下トンネルを利用したして陸上でも侵攻した。ロケット弾では多数のイスラエル市民が殺害され、さらに国境近くで野外コンサートをしていた人など200人以上の一般市民(イスラエル人以外も含む)が人質として連行された。
 イスラエルのネタニヤフ政権は奇襲を予測できなかったとされているが、ただちに報復を開始した。アメリカを始めとする国際社会の多くはハマスのテロ行為を非難し、イスラエルの自衛権発動を支持した。しかし、ガザ地区の民衆の悲惨な状況が報じられるようになると、イスラエル軍の地上侵攻にたいしては自重を促したり、停戦を呼びかけるなどの動きが出始めた。国連総会ではイスラエルのガザ空爆・地上攻撃に対する非難決議もなされたが、イスラエル軍はなし崩し的に地上での侵攻を行った。
 今回のガザ地区での戦争状態への突入は、まだ継続中であるので軽率に判断することはできない。世界史的にはこの項で見てきたとおり、1948年のイスラエル建国――――パレスチナ人にしてみれば「大災厄(ナクバ)」――――から始まる(勿論さらに長い前史がある)パレスチナ問題の経緯の中で見ていく必要がある。パレスチナ難民やガザ地区の人々の悲惨な生活、一方でパレスチナ人のテロにおびえるイスラエルの人々、という現実を知るとともに、何故に和平が実現しないのだろうかという疑問をこの出来事の経緯を見守りながら考えよう。 → ガザ地区イスラエルのガザ侵攻を参照。
 答えはまだないが、最近読んで参考になった本を紹介しておきます。<2023/11/11記>
 ・パレスチナ人の立場から エドワード・W・サイード『パレスチナとは何か』2005 岩波現代文庫
 ・イスラエルの立場から デイヴィッド・グロスマン『ヨルダン川西岸』1992 晶文社
               同『死を生きながら』2004 みすず書房
 ・ジョー・サッコ『パレスチナ』2023 いそっぷ社
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書籍案内

高橋和夫
『アラブとイスラエル
―パレスチナ問題の構図』
1992 講談社現代新書

1990年代初頭までなので情報としては古いが、戦後の中東問題を理解するには図版も豊富で有意義な一冊。

森戸幸次
『中東和平構想の現実
―パレスチナに「二国家共存」は可能か』
2011 平凡社新書

時事通信特派員として長く中東に滞在した筆者が、なぜ中東和平が進展しないかについて、パレスチナ人に取材した注目すべき書物。

臼杵陽
『世界史の中のパレスチナ問題』
2013 講談社現代新書

古代から現代までをカバーしてパレスチナ問題の歴史的経緯を詳細に解説。新書版にしては大部だが便利。

広河隆一
『パレスチナ(新版)』
2005 岩波新書

マロン派民兵による残虐事件を現場で目撃した著者が、写真とともにこの本で詳しくレポートしている。

山井教雄
『まんがパレスチナ問題』
2005 講談社現代新書

複雑なテーマを漫画化している。参考にはなるが、勝手なイメージを作るのではなく、文章によって概念化を図る必要がある。

酒井啓子
『<中東>の考え方』
2010 講談社現代新書

石油発見から2010年頃まで、アメリカの動きを軸に<中東>を解説。

デイヴィッド・グロスマン
/二木麻里訳
『死を生きながら
イスラエル1993-2003』
2004 みすず書房

現代のユダヤ人作家グロスマンがオスロ合意からその破綻までをイスラエル内部から語る。

エドワード・W・サイード
/島弘之訳
『パレスチナとは何か』
2005 岩波現代文庫
原書は1986年刊

パレスチナ生まれの現代アメリカの思想家が、パレスチナ問題を語る。写真豊富。

ジョー・サッコ
/小野耕世訳
『パレスチナ』
2023 いそっぷ社
原書は2001年刊

作者はアメリカの漫画家・ジャーナリスト。1991-92のパレスチナでの取材を元にコミックに仕上げた、ユニークな本。

岡 真理
『ガザとは何か パレスチナを知るための緊急講義』
2023/12/24 大和書房

Amazon Prime Video

J.バジャーリャ監督
『エンテベ空港の7日間』
2018 アメリカ映画

ハイジャックをテロリストに同情的に描く。イスラエル政府内のラビンとペレスの緊迫したやりとりも伝わる。

DVD案内

古居みずえ監督
『ガーダ パレスチナの詩』
2007 日本映画

ガザで暮らす女性ガーダを通して描く現実。迫真のインティファーダの映像も含まれているドキュメンタリー。


ハニ・アブ・アサド監督
『パラダイス・ナウ』
カイス・ネシス/アメル・ヘレル出演
2004 パレスチナ他制作

イスラエル占領下の町ナブルスを舞台に、自爆攻撃に向かう二人のパレスチナ人青年の苦悩と葛藤(かっとう)を描いた問題作。第78回アカデミー賞では、自爆攻撃の犠牲者遺族が外国語映画部門ノミネートから外すよう抗議があったなど、世界各国で上映され論争を引き起こした。

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