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ナセル

1952年に自由将校団をひきいて王政を倒し、エジプト共和国を樹立するエジプト革命を成功させた。1956年から大統領として独裁的実権を握り、スエズ運河国有化などを実行、第2次中東戦争を戦う。アラブ民族主義の立場からシリアを統合しアラブ連合共和国を樹立、同時に国際的には第三世界のリーダーとしても活躍した。1967年、第3次中東戦争に敗れ、指導力を低下させ、70年に死去。

ナセル
Jamal Abd al-Nasir
1918-1970
 エジプトだけでなく、20世紀後半の戦後世界の、とくに第三世界のリーダーとして重要な人物。英語表記は Gamal Abdel Nasser 正確には、アブド=アンナースィル。ナーセルとも表記するが、日本では「ナセル」が一般化した。パレスチナ戦争(第1次中東戦争)に軍人として従軍し、エジプト軍の敗北を体験、ムハンマド=アリー朝の王政の腐敗を断つ必要を痛感し、革命運動を準備した。
 その後、エジプト革命(1952年)を成功させエジプト共和国を樹立して社会改革を進めるとともに、AA会議、スエズ運河国有化、第2次中東戦争、アラブ連合共和国結成と立て続けに世界を驚かす行動力を示した。ナセルは「アラブの英雄」と言われただけでなく、ネルーや毛沢東、周恩来らと共に1950~60年代の戦後世界で最も注目された人物の一人だった。しかし、第3次中東戦争の敗北で一挙にそのカリスマ性が崩壊し、アラブ世界で指導力が急速に低下した。

エジプト革命

 ナセルは士官学校の仲間と語らって青年将校を中心とした自由将校団を組織、年長のナギブ中将をその団長とした。1952年7月、クーデタを実行してエジプト王国のファルーク国王を追放してエジプト革命を成功させた。
 同年9月、ナセルら自由将校団はナギブを首相として農地改革に着手、封建的な大土地所有を禁止し、王族の土地財産を無償で没収した。さらにファルークの継嗣の即位を否定してムハンマド=アリー朝の王政を廃止し、1953年6月18日エジプト共和国を成立させた。大統領はナギブ中将が就任、ナセルは表面にはでずに副首相に収まった。

独裁権力の獲得

 しかし、穏健派のナギブに対し、ナセルは積極的な社会改革を主張して対立していった。初代大統領としてナギブの人気が高いことを恐れたナセルは、1954年2月、革命評議会の決定としてナギブを解任した。ところが世論はナギブ支持に傾き、3月に各地でデモやストライキが起き、革命評議会はやむなくナギブ解任を撤回した。これはナセルにとって「三月危機」と呼ばれる政権の危機となった。
 ナセルは大きな賭に出た。3月25日、革命評議会は国民に対して革命の終結を発表、革命評議会の解散を宣言した。すると翌日から各地で革命の継続を求めるデモやストライキが起こり、ナセルはその声に応える形で革命評議会が政権に復帰することを表明、その政権を正当化した。その上でまもなくナギブの首相・大統領の職を奪い自宅に軟禁した。
  ナセルは自ら首相に就任、軍隊・労働組合・職能団体・大学・メディアなどを統制下におき、1956年6月23日には国民投票を実施して大統領に選出された。並行してイギリスのエジプト占領軍の撤退交渉を粘り強く続け、1954年10月19日に全面撤退の合意を成立させた。国民的な悲願であったイギリス軍の撤退を実現させたことでナセルの人気は高まり、その国民的支持を背景に絶大な権力を獲得し、それ以後、1970年に急死するまでその地位にあった。<以上、池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 による>

Episode カリスマ指導者の登場

(引用) 1954年10月26日、イギリス軍の完全撤退を祝う集会がアレクサンドリアのマンシーヤ広場で開かれた。もともと演説はあまり得意でなかったが、ナセルは集まった群衆の前に進み演説を始めた。その時突然、ナセルをめがけて8発の銃弾が撃たれた。一瞬の沈黙のあと、間一髪で銃弾を逃れたナセルは、おもむろに起ち上がった。そして、極度の緊張と興奮のなかで即興の演説を続けた。

もしガマール・アブドン・ナーセルが死んでも、私は満足である。なぜなら、あなた方すべてがガマール・アブドン・ナーセルであるから(三度繰り返す)。あなたがたが(エジプトの)栄誉を守り、自由を守り、尊厳を守るから。……私の血はあなた方のもの。私の魂はあなた方のもの。私の心はあなた方のもの……。

 この有名な演説は、今もなお当時を知る人々の胸に刻まれている。ナセルはこの事件を境に、演説で人びとを深く魅了し感動させるカリスマ的指導者となった。<池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 p.38>
 ナセル狙撃事件の犯行はムスリム同胞団によるものと断定され、6人が逮捕されて死刑となり、多数が投獄された。この弾圧によってムスリム同胞団は壊滅的な打撃を受けた。

アジア=アフリカ会議

 ナセル政権は1954年にスエズ運河のイギリス軍を撤退させることに成功したが、1955年2月にはエジプト革命勃発に対応して共産化を防止するためのバグダード条約機構がアメリカをオブザーバーとし、イギリス・イラク王国・トルコなどによって結成されるなど、エジプトにとって脅威となる国際的な動きがあった。それはナセルの目を国際社会に向けさせることとなり、その活躍舞台が一挙に広がることとなった。同1955年4月、インドネシアのアジア=アフリカ会議(AA会議、バンドン会議)に参加し、ネルーティトースカルノ周恩来と並び、第三世界のリーダーとして知られるようになった(この時点ではまだ首相。大統領就任は56年6月)。アジア=アフリカ会議では平和十原則をとりまとめる上で盡力した。
 またイスラエルに武器援助を続けるアメリカを牽制してソ連から武器を買い付け、中華人民共和国とも国交を樹立して冷戦下のアメリカの「封じ込め政策」を妨害した。アメリカは一貫してナセルを危険視することとなる。

スエズ運河国有化と第2次中東戦争

 ナセル大統領はエジプトの農業の安定のための治水、工業発展のための電力供給源としてナイル川上流にアスワン=ハイダムを建設する計画を立て、その資金援助を西側諸国に要請していた。アメリカは当初、投資を約束していたが、ナセル政権がソ連から武器輸入を決めたり、バグダード条約機構に反対、中華人民共和国を承認するなど、東西冷戦の中で東寄りの姿勢を採るようになったことを警戒し、投資を撤回した。世界銀行も当初の支援約束を撤回した。
スエズ運河国有化宣言 1956年7月26日、ナセルはスエズ運河国有化を宣言、世界に衝撃を与えた。それはエジプトの国土にある運河を自国が管理して利益をアスワン=ハイダム建設に充て、会社を国有化することで生じる不利益は補填するという当然のものであったが、運河会社の株のほとんどを所有するイギリス(イーデン首相)・フランス(第四共和政)は強く反発し、イスラエルを動かしてスエズ運河を目指して侵攻させ、スエズ戦争(第2次中東戦争)が始まった。
スエズ戦争(第二次中東戦争) 第2次中東戦争(スエズ戦争)では、ナセルのエジプト軍は緒戦でイスラエル軍の奇襲を受け、シナイ半島を占領されるなど不利な闘いを強いられたが、国際世論はアメリカのアイゼンハウアー大統領が英仏・イスラエルの出兵を非難(アメリカにとってはスエズをどこが管理するかは問題ではなかった)、ソ連(フルシチョフ首相)もエジプト支持を明確にしたので、イギリス・フランス・イスラエルは国際的に孤立し、軍を撤退させざるを得なかった。その結果、英仏はスエズ運河のエジプトによる管理を認めたので、ナセルは戦いには敗れたものの、国際世論を味方にしてスエズ運河国有化に成功した。こうしてナセルはエジプトのみならず「アラブの英雄」として一躍有名となった。

中東諸国の動揺

 ナセルのエジプトがスエズ運河の国有化に成功したことはアラブ世界に大きな影響を与え、各国でナセル主義とも言われるアラブ民族主義が活発になり、イラク王国ヨルダン王国サウジアラビア王国などの王政国家や、レバノンのようなアラブとキリスト教徒の民族対立を抱える近隣の中東諸国に大きな動揺が拡がった。

アラブ連合共和国の成立

 1958年2月にはシリアと合同してアラブ連合共和国を結成し、アラブ世界の主導権を握った。
 この国家統合は、シリア側から希望したと言われている。シリアは1946年にフランスから独立してからも複雑な民族対立を抱え、バース党や共産勢力などが争って内乱状態が続いていた。シリアからの統合要求に対してナセルは、連邦制ではなく完全統一とすること、ナセル政権のもとで政党は解散することなどの条件を示し、それが完全に受け入れられたので合意した。大義名分はアラブ民族の統合ということであり、オスマン帝国滅亡後、西欧諸国によって分断されたアラブ民族の統一の第一歩を実現したとされ、それを実現させたナセルはこのとき得意の絶頂にあった。<池田美佐子『ナセル』世界史リブレット 人シリーズ 2012 山川出版社 p.54-58>
レバノン暴動とイラク革命 アラブ連合共和国の成立は、アラブ民族主義の高揚を意味し、アラブ民族統一の第一歩と考えられたので、周辺のアラブ諸国に強い影響を与えた。もともとシリアから分離独立したレバノンでは1958年5月8日にアラブ系住民がアラブ連合共和国への参加を要求して暴動を起こすと、マロン派キリスト教徒の大統領がアメリカ軍の派遣を要請してレバノン暴動が起こった。また1958年7月14日イラク革命が起こって、ハーシム家の国王一家が殺害され、アラブ民族主義を標榜する政権が成立した。

非同盟諸国首脳会議

 さらに1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトー、インドのネルーとともに非同盟諸国首脳会議を呼びかけベオグラードで開催し、第三世界のリーダーの一人としての存在感を増していった。
 ナセルの人気は、その華々しい国際的な活動によるところが多かった。国内では、ナセルの社会主義寄りの姿勢に対して、イスラーム法に基づいた政治を掲げるイスラーム原理主義者集団として台頭したムスリム同胞団が批判を強めた。ナセルはそれらの反体制運動を厳しく取り締まった。またソ連・東欧諸国とは友好関係を続けたが、国内での共産主義勢力については厳しく弾圧した。

アラブ連合共和国の破綻

 しかし、エジプトとシリアの国家統合によって成立したアラブ連合共和国は、3年ほどしか持たず1961年9月28日にシリアで軍部クーデタが起こり、離脱した(エジプトはその後もアラブ連合共和国の国号を用いた)。この統合は対等なものではなく、シリアがエジプトの支配下に入るという基本的な中味であり、首都もカイロに置かれ、シリアは完全にナセルの統治下に入り、エジプトと同様な農地改革などの社会改革も実施されるというものであったので、シリアの特に保守派には反発が強かったのだった。このクーデタでシリアの親エジプト勢力であったバース党は勢いをなくし、同時にナセルのアラブ世界での権威にも陰りが見え始めた。
 その後ナセルはエジプト国内の社会改革に専念し、学校の建設などの教育の普及などにつとめて成果を上げていったが、そのつまづきは中東の国際情勢の緊迫からもたらされることになった。

第3次中東戦争とその死

 エジプトと分離したシリアであったが、その後再びアラブ民族主義政党バース党のアサドがクーデタで権力を奪い、親エジプトに転じた。1960年代にヨルダン川の水利などを巡ってイスラエルとの対立が厳しくなり、軍事衝突が起こるとエジプトに支援を要請した。ナセルはそれに応えて、イスラエルの港のあるアカバ湾の入り口を封鎖した。ナセルはイスラエルとの全面戦争は想定していなかったが、1967年6月5日、イスラエル軍はエジプトに対する奇襲攻撃を開始、第3次中東戦争が勃発した。
 エジプト軍はシナイ半島を占領されるという敗北を喫し、ナセルは敗戦の責任をとって辞任を決意したが、国民の辞任反対の声が強く、街頭でデモを繰り返して辞意の撤回を迫ったため、ナセルも大統領にとどまることにした。しかしその指導力はエジプト国内でも、アラブ世界でも次第に低下していった。権威の回復に苦慮しながらシナイ半島の奪還の機会を探る内に、ナセルは1970年9月28日に急死した。このときは、1970年9月16日に起こったヨルダン内戦(「黒い9月」)でのヨルダンとパレスチナ解放機構のアラブ人同士の争いを仲裁しようとした最中だった。ナセルの死によりアラブ人同士の対立も収拾がつかなくなり、中東情勢は混迷の度を増すことになった。エジプトの次期大統領にはナセルの副官であった自由将校団以来の盟友であるサダトが就任した。

ナセル主義の要点

 ナセルは、ナセル主義といわれる独自の路線で、1950~60年代のエジプトを統治し、第三世界のリーダーを務めたが、その柱は次の三点にまとめられる。
  1. 積極的中立主義 東西冷戦下において、アメリカ・イギリス・フランスなどの西側資本主義陣営にも、ソ連などの東側共産主義陣営にもくみせず、自主独立の道を歩み、第三世界の諸国と連携をする。 → 非同盟主義
  2. 汎アラブ民族統合の理想 ヨーロッパ植民地主義はアラブ民族を人為的に12以上の国に分裂させた。そのために兵力で優勢に立つにもかかわらずイスラエルの建国を許し、石油資源は外国の資本と世襲王政に支配されている。このような分裂状態を終わらせ、アラブ民族を統一することを理想とした。 → アラブ民族主義
  3. 社会主義 貴族と大地主に支配され、外国資本と結びついている古い王制国家を打倒し、社会を近代化して人々を富ませるには、国家が基幹産業と公共資本を管理し、富を分配するマルクス主義的な社会主義経済が有効であると考え、農地改革や銀行の国有化などを行った。<藤村信『中東現代史』1997 岩波新書 p.38>

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