ガザ地区
1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領した。2004年に撤退し、パレスチナ人の自治が行われることになったが、イスラエルはイスラーム原理主義勢力のハマスがこの地域を拠点にテロ活動をしているとして、攻撃を加えている。
ガザ地区 GoogleMap
ガザの歴史
中心都市ガザは東地中海に面した港として早くから繁栄した。前12世紀頃、ギリシア方面から東地中海に進出して、活発な交易活動を行った海の民がこの地に都市を築いたのが始まりと考えられている。前332年には、東方遠征途上のアレクサンドロスがレヴァント地方に南下し、エジプトに入ったが、その途中でガザは攻撃されている。パレスティナ地方ではガザだけが頑強に抵抗した。町は海から4キロ離れ、潟と砂地に囲まれた丘の上にあり、アレクサンドロスは周囲に土壇を築きその上から攻城兵器で攻撃し、2ヶ月に及ぶ包囲戦の末、男性住民は全滅し、女子供は奴隷に売られた、という。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.122>
イスラエルの軍事占領
1967年の第3次中東戦争で、イスラエル軍が軍事占領し、以後ユダヤ人の入植が進み、パレスチナ人との間の衝突が続いた。広さは約360平方km、奄美大島ほどにすぎないが90万人のパレスチナ人が難民が生活し、その地をイスラエルの入植者が奪い、人口密度は世界で最も高い地域になっている。 → パレスチナ問題Episode 世界有数の人口稠密地帯
(引用)1948年のイスラエル建国と第1次中東戦争を機に、パレスチナを追われたアラブ人が難民となってガザ地区に押し寄せ、戦争前の8万人から24万人に急増し、応急のテントが仮設され、海岸の崖を切り抜いた穴に収容された。これがやがて難民キャンプとして広がり、現在は人口150万の8割が八つの難民キャンプで生活するなど、世界有数の人口稠密地帯となってしまった。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.141>
パレスチナ人の抵抗とオスロ合意
1987年12月にはガザ地区のパレスチナ人の自発的暴動(第1次インティファーダ)が起こり、はげしいイスラエルの軍事占領に対する抵抗運動を展開した。冷戦終結後の1993年のオスロ合意でパレスチナ暫定自治が成立、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファトが帰還した。しかしその後イスラエルに右派政権が出現したため対立は継続した。2000年9月28日にはイスラエルの野党リクードの党首シャロンがイェルサレムのイスラーム聖地に立ち入ったことに端を発して第2次インティファーダが起こった。この時期になるとガザ地区ではイスラエルとの妥協を拒否するイスラーム主義集団ハマスがPLOの主流派で世俗主義のファタハを上回るようになった。
2001年の9.11同時多発テロ起きると、アメリカの「テロとの戦争」に同調したイスラエルは、ガザ地区・ヨルダン川西岸のイスラーム過激派を制圧するとして軍事行動を行い、戦車を侵入させた。このようなイスラエルの高圧的姿勢は次第に国際的な反発を強め、アメリカはイラク戦争を進める一方で中東和平の構想を具体化する必要に迫られ、パレスチナ和平のためのロードマップ作成に乗りだした。
イスラエルのガザ撤退
2004年1月イスラエルのシャロン首相は一方的にガザ地区の入植者と軍隊の撤退を発表したが、それは残るヨルダン川西岸の確保と引き替えという面が強いと言われている。2005年8月22日、予定通りイスラエルはガザ地区から撤退した。シャロン首相がガザ地区からの撤退を決断したのは、表向きには約8000人のユダヤ人入植者を守るために投入される軍の経費が国家財政にとって大きな財政負担となっていたことがあげられている。2005年8月、退去を拒否する入植者たちを軍と警察が強制退去させる映像は世界のメディアに大々的に報じられ「イスラエルは和平のために大きな犠牲を払っている」というイメージを印象づけた。シャロンは「平和を求める指導者」像を世界にアピールした。しかしパレスチナ側では、シャロンの撤退劇の新のねらいは平和ではなく、“占領”を続けることにあると見抜いた。パレスチナ社会のオピニオンリーダーの一人で「パレスチナ人権センター」代表のラジ・スラーニは「入植地撤退後も、ガザ地区の社会的・経済的な窒息状態は明らかです。ガザ地区はヨルダン川西岸から分断され、外の世界からも孤立させられる。イスラエルが海も空も陸の境界もコントロールするからです」と述べており、その予言は的中した。<土井敏邦『ガザの悲劇は終わっていない』2009 岩波ブックレット p.3-4>
ハマスの台頭と経済封鎖
しかし、ガザ地区にはヨルダン川西岸のPLO主流派ファタハのアッバス政権の和平推進路線に反対するイスラーム原理主義系のハマスが台頭し、2006年1月には選挙で勝利して政権を握った。同年、イスラエル側ではシャロンが急死し、代わったオルメルト首相はハマスをテロリストとして交渉を認めず、和平は中断し、アメリカも同調して経済断交に踏み切った。このためハマスの統治するガザ地区は孤立し、経済的な危機に陥ったが、ガザではエジプトとの国境線の地下にトンネルを掘り、そこから食料、医薬品、武器などを補給して凌いだ。イラン、カタールなどがハマス支援に動いたと言われている。 → イスラエルによるガザ地区の封鎖については、ロイターニュースの記事を参照。ガザ地区の「トンネル経済」 ガザとエジプトの間には1000を越えるトンネルが掘られ、地下で働く労働者は約6000人におよび、食事を提供するレストランも何軒か存在するという。トンネルを通じて密輸されるのは、必需品の食料品、飲料水、衣服、化粧品、薬品、日用雑貨から冷蔵庫、コンピューターなどの電化製品、セメント、食肉加工用の家畜に至るまでありとあらゆる商品であり、パイプラインを引いてディーゼル油を輸入したケースもある。イスラエルは武器や武器の部品が含まれているとして、トンネルに攻撃を加えたが、数が多すぎて効果はなかったという。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社学術文庫 p.352>
ハマスが武力制圧 パレスチナの分裂
ハマス内閣の発足後、ガザ地区ではハマスとファタハ両派の治安部隊が散発的衝突を繰り返し、2007年6月には前面衝突に発展した。アッバス議長は同日、事情事態を宣言してハマスのハニヤ首相を解任し新首相に指名した。しかし、ハマスは武力制圧に成功し、ファタハ幹部はヨルダン川西岸に退去しした。こうしてパレスチナは、ファタハの支配するヨルダン川西岸とハマスの支配するガザ地区とに分裂してしまった。<船津靖『パレスチナ――聖地の紛争』2011 中公新書 p.243-245 などによる>ガザ戦争
2008年12月、イスラエルは1週間にわたってガザ地区に対して空爆を行い、ハマスの幹部3名を含むパレスチナ人400人以上を殺害した。しかしハマスは反撃し、射程40キロメートルの手製ロケット弾カッサーム砲弾でイスラエルに砲撃を加え、イスラエル人4名が死亡した。イスラエルは翌2009年1月、イスラエル南部の安全を確保するためとして地上部隊を侵攻させた。ハマスはカッサーム弾1000発以上保有していたが、その3分の1が破壊されたという。ハマスは、軍事部門カッサーム隊を中核に武装勢力1万5千が地下壕に潜ってイスラエル軍と戦い、損害を与えた。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.134>戦闘は1月17日に終わった。その2ヶ月後、ガザ市の「パレスチナ人権センター(PCHR)」が発表した3週間の戦闘でのパレスチナ人の犠牲者は、死者1417人、うち一般住民926人、中でも313人は18歳未満の子供であった。イスラエル側は「ハマスによるロケット弾攻撃への報復」と主張したが、攻撃開始の翌日、イスラエルの有力紙『ハアレツ』は、ガザ攻撃は6ヶ月前から極秘裏に準備されていた、と暴露した。表ではその時期にハマスとの停戦交渉が始まっていたが、11月4日にイスラエル軍はガザ地区南部に侵攻してハマスの戦闘員6人を殺害、その報復としてハマスはロケット弾攻撃を再開した。イスラエル側はハマスの攻撃を意図的に誘発し、今回のガザ攻撃の名目としたのではないかとの見方は少なくない。イスラエル国内では「長引くハマスのロケット弾攻撃に、ついに堪忍袋の緒が切れた」ためという政府の言い分が国民に浸透し、攻撃開始10日後の世論調査ではユダヤ系市民の94%がガザ攻撃を支持した。しかしこのガザ攻撃の背景には、少なくとも2005年夏の「ユダヤ人入植地とイスラエル軍のガザ地区からの撤退」まで遡る必要がある。<土井敏邦『ガザの悲劇は終わっていない』2009 岩波ブックレット p.2-3>
ガザでの戦闘激化
2021年5月、イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザ地区に対し激しい空爆を行った。14日には地上部隊を投入したことも明らかにした。今回の空爆の発端は、イェルサレムで4月中旬、イスラーム教のラマダーン(断食月)の開始に当たり、イスラエル当局がイェルサレム旧市街入り口でパレスチナ人の出入りを制限したことに対してパレスチナ側が反発、一方でパレスチナ人の少年がユダヤ教徒の顔を叩く動画が動画アプリにアップされたことでユダヤ側がパレスチナ人排斥を叫ぶという非難の応酬が起こったことだった。同時に東イェルサレムのパレスチナ人居住区で裁判所が約500人のパレスチナ人の退去を命じたことも衝突を大きくする要因だった。イスラエルが実効支配する東イェルサレムでパレスチナ人に対する退去命令が出されたことに抗議し、パレスチナ自治区のガザ地区を支配するイスラーム過激派勢力のハマスが5月10日夜、ガザ地区からイスラエル軍に対してロケット弾を発射(イスラエル側発表だと約1800発)、14日にそれに対する報復措置としてイスラエルがガザ地区を空爆したのが今回の経緯である。ガザ地区ではラマダーン開けの祝いの日であり子どもを含む多数が犠牲になり、ハマスは激しく反発した。イスラエルは総選挙をひかえ、与党リクードを率いるネタニヤフ首相は強硬な姿勢で支持を得ようとし、ハマスはパレスチナ内部でのアッバス議長に対抗することも目指し積極的な攻撃に出たものと思われる。<朝日新聞 2021/5/15 記事より>
イスラエル軍はガザ地区への空爆と地上軍による砲撃で軍事拠点を破壊し、大きな成果を上げたと発表、一方のガザ地区保健省は死者は子ども65人を含む232人、けが人は1900人と発表した。さらに全面的な戦争にエスカレートして、第5次の中東戦争になることが懸念されたが、今回はエジプトが仲介に動き、2021年5月20日、双方代表が停戦を受け入れた。<朝日新聞 2021/5/21 記事より>
→ パレスチナ問題/中東問題(1990年代~現代)
NewS 2023/10/7 再びガザ戦争起こる
2022年2月にロシア軍がウクライナに侵攻、ウクライナ戦争として長期化し、停戦の兆しもなく国際社会の目がウクライナ情勢に釘付けになっていた2023年10月7日、ガザ地区を統治するハマスがイスラエルに対してミサイル攻撃を行い、壁を突破して陸上でも侵攻して、200人以上の人々を拉致した。イスラエルはただちにハマスのテロ行為として報復のためガザ地区を空爆し、陸上部隊による侵攻の準備に入った。アメリカのバイデン大統領はただちにイスラエル支援を表明、10月には直接イスラエルを訪問、ネタニヤフ首相を激励した。しかし、ガザ地区の住民の悲惨な状況が報道されるに伴い、イスラエルの地上部隊による侵攻で大きな犠牲が出ることが明らかであることから、早期の停戦を求める声が強まった。ガザ戦争が再開された実態であるが、地上戦となるかどうかをめぐる政治的駆け引きが展開されている。<2023/10/21 記>第4次中東戦争から50年 2023年10月7日に、世界の耳目はウクライナから一気にガザ地区に向けられた。何故、この年だったのだろうか、歴史を振り返ってみると、いくつか思い当たる節がある。まず、第4次中東戦争が起こった1973年10月6日から50年目に当たっていること。この日、エジプトのサダト大統領がイスラエル占領地の奪還を目指してシナイ半島に侵攻した。アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」と言っているが、イスラエル側はちょうどその日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。今回はその翌日に当たっているが、やはり、ハマスはユダヤ教の祝祭日を攻撃日に選んだのだろう。たしかにイスラエルにとっては、祝祭日に予期せぬ攻撃を受けた、ということになり警戒を怠っていたのか、という軍当局の責任は問われるであろう。
オスロ合意から30年 もうひとつ、2023年は、オスロ合意により1993年9月13日にパレスチナ暫定自治協定が成立してから30年目に当たる。オスロ合意はパレスチナ問題の解決は「二国家共存」の道しかない、という最終合意になるか、と思われた。しかしイスラーム原理主義にたつハマスは、この合意を真っ向から否定し、イスラエルの完全消滅を掲げた。そしてイスラエルではパレスチナの和平よりもユダヤ国家の拡張を最優先する強硬路線を国民が支持して、ネタニヤフ政権を選んだ。イスラエルから見れば、ハマスは交渉の相手になるようなものではなく、ユダヤ人を抹殺しようという過激原理主義者の殺人集団としてしか見えていないようだ。
年代の節目にはたいした意味はないのだろうが、この歴史を知れば知るほど、ガザの人々を戦火から守れという「人道的」叫びは無意味になっていまう気がする。しかし、また解決の道は歴史を踏まえたものでなければ、双方が共に納得するものにならないだろう。ウクライナ戦争とともに、世界史を学ばなければならない、また歴史を知ることのみが解決の英知を見いだす方法であると感じる。まだまだ解決は遠そうだが。<2023/11/4記>
→ 2021年5月 ガザ戦争/イスラエルのガザ侵攻