印刷 | 通常画面に戻る |

クウェート侵攻

1990年8月、イラクのサダム=フセイン政権が突如隣国クウェートに侵攻、占領した。国連安保理決議で撤退を勧告、翌91年1月の湾岸戦争となった。

 1990年8月2日未明、突如イラク軍がクウェートに侵攻、わずか8時間でその全土を制圧した。
 イラクには、1961年のクウェートの独立の際にも、時のカセム政権がその併合を唱えて侵攻をしかけたこともあり、領土の一部をイギリスに奪われたという主張があった。サダム=フセイン大統領は、国内におけるイラン=イラク戦争からの復員兵の不満がくすぶり、クウェートが原油価格引き下げによって販路をひろげていることにも反発を強めていた。クウェートは1961年にイギリスの保護領から独立していたが、豊富な石油資源を握る王族が支配する首長制国家であり、憲法と議会は存在したが全く機能せず、イラクの侵攻を食い止める力が無かった。

湾岸戦争へ

 イラクは1988年にイラン=イラク戦争が終わったばかりであったが、クウェートに対する負債を抱えており、その解消と同時に一気にクウェートの石油資源を手にいれようという野心があったと思われる。そして1989年に東欧革命によってソ連の力が激減し、東西冷戦が終結するという世界史的な動きの中で、フセインは決して単純な領土欲からだけ戦争を起こしたのではなく、アメリカ・ソ連という二大国からの介入がないと判断したことが大きな理由ではないかと考えられる。フセインはイラン=イラク戦争ではアメリカの支援を受けていたので、ここでもアメリカは黙認すると踏んでいたとも言われている。しかし、その行為は国際秩序を揺るがすこととなり、国際連合の安保理も非難決議を出し、アメリカも動かざるを得なくなってクウェート解放をめざし、1991年1月17日湾岸戦争に踏み切り、クウェート解放を実現させた。

クウェート侵攻と湾岸戦争の歴史的意義

 ところがその時アメリカ軍がサウジアラビアのメッカなどイスラーム教徒の聖地に軍靴で踏み込んだことに、イスラーム過激派は強く反発し、それがやがて2001年の9.11同時多発テロへとつながる。こうしてみてくると、フセインのクウェート侵攻とそれに続く湾岸戦争が、東西冷戦後の21世紀の世界の混迷の出発点であったことが判る。
印 刷
印刷画面へ