印刷 | 通常画面に戻る |

サダム=フセイン

1979年からイラク大統領。独裁権力を握り、1980~88年のイランとの戦争、1990年にクウェート侵攻を強行。1991年の湾岸戦争でアメリカに敗れた。その後も独裁政権を維持したが、2003年にはアメリカ軍の侵攻したイラク戦争で敗れて捕らえられ、2006年に処刑された。

Saddam Hussayn
1937-2006

 サダム=フセインはイラク共和国大統領(在任1979年~2003年)でバース党の当主として、スンナ派を基盤として独裁的な権力を握り、イラン=イラク戦争(1980~88年)ではシーア派イランと戦った。このときは化学兵器の使用などの疑惑で批判された。さらに1990年、隣国クウェート侵攻を行い、冷戦終結後の世界に衝撃を与え、91年にはアメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラクに侵攻し、湾岸戦争となった。この戦いでは敗北したが大統領職に留まった。1998年には大量破壊兵器の保有疑惑に対する国連査察を拒否し、空爆を受けた。2001年に9.11同時多発テロが起きると、アメリカはイラクが実行犯テロリストを匿い、大量破壊兵器を開発しているとして2003年にイラク戦争を開始、バグダードに侵攻したアメリカ軍によって捕らえられた。イラクでの裁判によって、2006年に死刑となった。東西冷戦後の20世紀末から21世紀初頭にかけて、世界を揺るがし、独裁者から戦争犯罪人として裁かれるという変転をとげた人物であった。

イラクの情勢

 サダム=フセインは1937年、イラク北部のティクリートで生まれた。ここはスンナ派地域で、バース党の有力者が多かった。サダムは叔父の影響で反英闘争に参加するようになり、20歳でバース党に入党、59年のカセム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送った。帰国後も地下活動に従事し、68年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢された。バクルがティクリート出身であったからといわれている。サダムは軍人ではなかったが、巧みな権謀術数で古参党員や軍人を排除し、糖尿病のバクルに替わってバース党の実権を握った。

サダム=フセインの独裁政治

 1979年にバクルが引退して大統領を継承すると、バース党独裁色を弱め、国民議会を再開したりクルド人の自治を認めるなど「民主化」のポーズをとって国民の支持を得た。しかしその権力の実態は、石油を国営会社で独占してその利益をばらまき、軍と治安組織を押さえて反対派に対しては諜報監視網をめぐらして弾圧する「恐怖の共和国」であった。クルド人やシーア派に対して化学兵器をしようして弾圧する一方、「サダム病院」や「サダム空港」を建設し、国の隅々まで肖像を掲げさせて、国父として振る舞うのがその手法であった。<酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002>

イラン=イラク戦争

 1979年2月11日イラン革命が勃発、イラン=イスラーム共和国が成立したが、革命による混乱が続いた。革命がシーア派ホメイニ師の指導で起こされたため、イラクなどアラブの多数派スンナ派諸国はその波及を警戒するなかで、翌1980年9月、フセイン政権はイランとの国境線で広範囲に侵攻を開始、イラン=イラク戦争となった。イラン領内の石油資源の獲得を目指すのも開戦の目的のひとつであったと思われるが、フセインの領土拡張の野心の表れでもあった。
 イラク軍は当初、イラン領内で全面的に侵攻を成功させたが、イランが次第に態勢を盛り返し、強い愛国心と反イラク・反米感情を持つ青年層が戦争に参加して激しく抵抗するようになり、イラク軍は次第に後退、ついには逆にイラン軍がイラク領内に攻め込んできた。この間、イラク国内のクルド人がイラン側について反抗した。このような不利な情勢のもとで、フセイン政権は毒ガス(化学兵器)の全面使用を行った。特に1988年3月16日クルド人地区のハラブジャでは約5000人の死者を出し、後に国際的な非難を浴びることとなった。
 アメリカはイラン革命でアメリカ大使館占拠事件が起きたこともあってイラクを支援、軍事支援を行い、またソ連は当時アフガニスタン侵攻を行いイスラーム原理主義勢力と戦っていたため、同様にイランの革命勢力の拡大を警戒してイラクを支援した。このような国際情勢のもとでフセイン政権はイランとの戦争を継続したが、激しい抵抗のため戦争は長期化した。しかし、隣国シリアがイランを支援して石油パイプラインを閉鎖し、さらにイラン軍が国境を越えてバスラに迫るという形勢逆転が起こり、国際連合も停戦を勧告、1988年8月9日にイラン・イラク軍事監視団を派遣、20日に停戦が発効した。

クウェート侵攻と湾岸戦争

 9年にわたったイラン=イラク戦争によって国力を消耗したイラクのフセイン政権は、国力回復の機会を待った。イラン=イラク戦争ではクウェートはイラクを支援して資金援助をしたが、フセイン政権が戦後にその返却に応じようとしなかったことに反発していた。フセイン政権は原油価格の値上げを図ったが、クウェートは薄利多売を主張して値下げするという石油政策でも対立した。そのような情勢の中で、フセインは、1990年8月クウェートに侵攻を行った。その口実はクウェートはもともとイラクの一州であったのをイギリスが強引に保護領にしたのだから、奪回するというものだった。
東西冷戦の終結という国際情勢 イラン=イラク戦争から2年しか経っていないのにフセインが戦争に踏み切った背景には、1989年に東欧革命によってソ連の力が激減し、冷戦が終結したことが挙げられる。フセインは米ソ両大国が介入できないと踏んで開戦に踏み切った(アメリカもイラン=イラク戦争の経緯からフセインの行動を容認すると判断したと思われる)。
湾岸戦争 しかし、国連加盟国であり独立した主権国家であるクウェートを一方的に攻撃したことは、激しい国際的な非難を巻き起こした。アメリカのブッシュ(G.H.W=父)大統領は冷戦終結後も世界の警察官的役割を果たす必要があると考え、国連安保理の決議に基づき多国籍軍を編制、1991年1月、イラク攻撃に踏み切って湾岸戦争となった。
 イラク軍は圧倒的なアメリカ軍を中心とする多国籍軍の攻撃によって後退を重ね、国連決議を受け入れてクウェートから撤退した。戦争は僅か100数十日で決着がついたが、アメリカはクウェートを解放したが、イラク本土には侵攻せず、フセイン政権はそのまま温存されることとなった。

イラク戦争

 2001年の9.11同時多発テロの後、アメリカのブッシュ(子)大統領は、イラクがテロ集団を隠匿し、大量破壊兵器を所有しているとして非難し、2003年にはサダム=フセインの退陣と亡命を要求したが拒否されたため2003年3月20日イラク戦争に踏み切った。イラクに侵攻したアメリカ軍によって、サダム=フセインは同年12月13日に拘束された。2005年からのイラクで始まった裁判の結果、シーア派などに対する「人道に対する罪」を犯したとして06年12月30日に処刑された。

Episode サダム=フセインのモデル

 イラクのサダム=フセイン大統領は、自らを戦争の英雄として国民に訴えるために三人の歴史上の英雄をモデルとした。まず、12世紀に十字軍からイェルサレムを解放したサラディン(サラーフ=アッディーン)。この人物はクルド人であったので、対イラン戦においてクルド人を動員するのに役だった。ついで、7世紀にササン朝ペルシアをカーディシーヤの戦いで破った第2代カリフのウマル。イラン=イラク戦争は「サダムのカーディシーヤ」と呼ばれた。さらに「対イスラエル」という点では古代にバビロン捕囚を行った新バビロニア帝国のネブカドネザル2世に擬せられた。<酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002 p.83-84>

2006.12.30 フセイン裁判と処刑

 サダム=フセイン元イラク大統領に対する裁判は、国際法廷ではなくバグダードのイラク高等法廷で2005年10月から始まった。罪状は、イラン=イラク戦争中の82年のドゥジャイル村でのシーア派住民148名の虐殺、クルド人に対する化学兵器による虐殺(アンファル作戦)など全部で13件に上っていたが、2006年11月5日、高等裁判はドゥジャイル村事件のみで「人道に対する罪」を犯したと認め死刑判決を出した。12月26日にはフセインの控訴を棄却して、わずか4日後の30日に処刑した。<『朝日新聞』2006.12.31 などによる>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

酒井啓子
『イラクとアメリカ』
岩波新書 2002