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イラク/イラク王国/イラク共和国

オスマン帝国領であったが、第一次世界大戦後にイギリス委任統治領とされた。アラブ人の反発が強かったため、イギリスは1921年にメッカの太守ハーシム家のファイサルを国王とするイラク王国を成立させた。イギリスの委任統治終了に伴い1932年に完全独立を達成した。しかし国境は人為的にひかれ、その領内にスンナ派とシーア派、さらにクルド民族を含んでいたため政権は安定せず、第二次世界大戦後の1958年にイラク革命が起こりハーシム王家は倒され、イラク共和国となった。

イラクという国家

イラク地図
現在のイラク共和国とその周辺
●首都 ●主要都市 ▲主要遺跡
 イラクは、20世紀末から21世紀初頭の現代において、独裁者サダム=フセインの登場、イラン=イラク戦争、湾岸戦争、イラク戦争など重要な出来事が相次いだが、注意しなければならないのは、イラクという国家は第一次世界大戦後に登場した新しい国家であり、それ以前には地理的・政治的概念としても、民族的・文化的概念としても「イラク」は存在していなかったことである。「イラク」はイギリスによって、国家機構も国境もいわば人工的に作られた「人工国家」であった。

イラクの4地域

 現在のイラクの地は、古代メソポタミア文明の栄えた地域であり、首都バグダードはアッバース朝以来の古都として栄えた。16世紀以降はオスマン帝国とイランのサファヴィー朝、カージャール朝の勢力が接する前線として常に戦争が続いていた。長い歴史的な経緯を経て、近代では次の4つの地域が形成されている。
  • バグダード、モースル、バスラなどの都市部・・・オスマン帝国の行政拠点であり、オスマン帝国との結びつきが強かった。
  • 西部地方・・・中央政府から自立した遊牧民の居住区。シリアとの結びつきが強い。
  • 南部地方・・・シーア派イスラーム教徒の居住区。同じシーア派のイランとの結びつきが強い。
  • 北部地方・・・クルド人の居住区。イラン、トルコにまたがるクルディスタンのクルド人との結びつきが強い。

イラク(1) イギリスによる委任統治

イギリスの進出

 第一次世界大戦前から、イギリスはオスマン帝国支配下にあったメソポタミア地方に強い関心を持った。それは「インドへの道」を確保する上で必要な地域であったからであり、特にドイツのウィルヘルム2世が3B政策を掲げバグダードまでの鉄道建設に着手したことに強く反発した。大戦中はオスマン帝国がドイツ側についたため、イギリスはインド総督府を中心にして、中立国イランへの働きかけを強め、ペルシャ湾岸に進出、拠点を設けて、バスラを攻撃占領した。メソポタミア戦線では補給の問題もありイギリス軍は苦戦したが、1917年3月にはバグダードを占領、さらにモースルなどの北部に進出した。モースルはフランスとの秘密協定サイクス=ピコ協定ではフランスの勢力圏とされていたが、石油の埋蔵が予測されたので、イギリスがいち早く占領に動いた。

イギリスの委任統治

 「アラブの反乱」といわれたアラブ民族主義による独立の気運は第一次世界大戦の終結によっていっきに盛り上がり、ハーシム家フセインの三男ファイサルは1919年、ダマスクスに入ってシリアの独立宣言を行った。同時にフセインの次男アブドゥッラーがバグダードで独立を宣言した。しかし、イギリス・フランスはそれらを認めず1920年4月のサン=レモ会議で、戦前の密約を継承してオスマン帝国領のアラブ地域を分割して委任統治とすることで合意した。さらに同年8月、オスマン帝国が連合国との間で締結したセーヴル条約によって、この地はイギリスの委任統治領とされることとなった。 → オスマン帝国領の分割案

(2)イラク王国

イラク王国の名目的成立

 このように勝手にイギリス・フランスによって線びきされたことに対し、アラブ民族による反対運動が盛り上がり、とくにイラク南部のシーア派を中心とした大規模な反乱が起こった。そこでイギリスは反乱を抑えるため、1921年3月にカイロで会議を開催し、シリアのダマスクスからフランス軍に追われていたファイサル(ヒジャース王国のフサインの三男)を国王として迎えるという妥協策を画策した。こうして、1921年イギリスの委任統治の下でハーシム家のファイサルを国王とするイラク王国が成立した。
 なお、アブドゥッラーは、イラク国王とは認められなかったため、1920年11月、軍隊を率いてヨルダン川東岸地域(トランスヨルダン)に進出すると、イギリスはかれを懐柔するため21年に委任統治領パレスチナの一部をトランスヨルダン首長国として、その首長(後に国王)とした。

Episode 「不可能な国」の原点

 イラクは人為的な国境線の中に、スンナ派とシーア派とクルド人が含まれ、しかもメソポタミアから見ればよそ者にすぎないハーシム家のファイサルをイギリスからあてがわれて国王として作られた国家であり、いわば「人工国家」であった。ジャーナリスト阿部重夫氏の『イラク建国』は、そのようなイラクを「不可能な国」と評し、その後のサダム=フセインの登場、湾岸戦争、イラク戦争の淵源をそこに求めている。同書は歴史書ではないがイラク建国に関わった様々な人物の行動を紹介している。その一人、ガートルード=ベル(1868-1926)という女性がイラク建国に深く関わっていた。ベルは女性でアルプスの登山や単身アラビア砂漠の探検などで活躍し、冒険家として知られており、そのアラブに対する知識を評価されて1917年のイギリス占領直後のバクダードに招かれ、占領行政に深く関わることになった。いわば「アラビアのロレンス」の女性版で「砂漠の女王」とも言われ、アラブ側からも一目置かれた女性であった。
 1921年3月、イギリスの植民地相チャーチルは、委任統治を安定を図るために、カイロに中東問題の専門家を集めて秘密会議を開いた。その本音は、委任統治領にかかる費用を抑えたいということにあった。その会議で、委任統治領をイギリスに有利に線引きした上で、アラブ人の国王としてハーシム家のファイサルを迎えるというアイディアを出したのがガートルード=ベルだった。会議に参加していたロレンスもファイサルを推した。ファイサルはイギリスの後押しで「アラブの反乱」を起こしたフセインの四男で、メッカでヒジャース王国を立てたフセインに代わってダマスクスを攻略し、シリア国王を名乗ったが、イギリスとシリア分割を密約していたフランスが圧力をかけたため、ダマスクスを追い出されていた。イギリスもフランスの要求を飲まざるを得なかったが、ファイサルのメンツを立てる必要もあった。チャーチルがフセインの次男のアブドゥッラーはだめか、と問うと、ベルもロレンスも、軍人として人望のあるファイサルの方がいいというので、ファイサルをイラク国王にすることが決まった。
 ベルとロレンスの意見が分かれたのはクルド人の扱いだった。ロレンスはクルド人居住地(クルディスタン)はイラクと分離してイギリス高等弁務官の直轄領とすべきだと主張した。それに対してベルは、「この青二才!」とぴしゃりとたしなめ(ベルの方が10数歳年上)、クルディスタンの一角モースル州はイラクに含めるべきだと主張した。その理由は、多数を占めるシーア派を抑えるためにはスンナ派だけでは不安で、押さえとしてクルド人勢力を使う必要がある、というものだった。モースル州に油田が発見され、イギリスにとってはベルの先見性が利益をもたらしたが、クルド人問題ではロレンスの危惧したとおりになった。カイロ会議はイラクにとってはクルド人問題という最大の不安定要素を抱え込み「不可能な国の原点」となったのだった。<阿部重夫『イラク建国―「不可能な国家」の原点』2004 中公新書 p.192-200>

イラク王国の完全な独立

 イラク王国はイギリスの強い影響力の下で成立した国家であったが、人工的に国境線が引かれたため、その領内に多数派のスンナ派以外にシーア派を含み、さらに多数のクルド人を含むこととなった。ハーシム家の国王はアラブ民族主義による国民統合を図ったが効果は上がらず、分裂要素を常に含んでいたため、強力な軍事統制に依存せざるを得なくなっていった。また、同じハーシム家の王をいただくトランスヨルダンとともに「肥沃な三日月地帯」を統合する構想を打ち出した。
 第一次世界大戦後に委任統治期間が終了しアラブ諸国の独立が続くことになったが、イラク王国が正式に独立が認められたのは1932年10月であった。独立国家となったことにより、国際連盟に加盟した。

パレスチナ戦争での敗北

 ハーシム家のイラク王国は、第二次世界大戦まで続き、1945年3月にはエジプト王国などとともにアラブ連盟(アラブ諸国連盟)を結成した。アラブ世界はユダヤ人の入植というパレスチナ問題で激動し、イラク王国もイスラエル建国に反発してアラブ連盟諸国と共同して1948年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)を戦った。しかし、イスラエル軍との戦いは敗北に終わり、遅れた王政国家というイラクの実情が表面化し、王政に対する批判が起こってきた。1955年には対共産圏軍事同盟であるバグダード条約機構(METO)に加盟し、本部はイラクのバグダードに置かれた。

(3)イラク共和国

第二次世界大戦後、イラク王国はパレスチナ戦争で敗北したことで動揺が深まり、エジプト革命の影響を受けて1958年にイラク革命が勃発、王政が倒れて共和制となった。1963年には民族主義政党バース党が権力握った。

イラク革命

 第二次世界大戦後のアラブ社会に激変をもたらした1952年のエジプト革命以後、ナセル主義の影響がイラクに及び、1958年にバグダードでイラク革命が起こり、国王ファイサル2世などは処刑されて王政が倒されてイラク共和国となった。共和国となったイラクは、翌59年にはバグダード条約機構(METO)を脱退した。そのため、この機構は、本部をトルコのアンカラに移し、中央条約機構と解消した。

イラクの混乱

 しかし成立したイラク共和国は、アラブ民族主義、共産党、クルド人勢力など方向性の違う勢力によって構成されていたため、間もなくエジプトへの対抗心の強いカセム政権は親エジプト的でナセルとバース党に近いアレフ大佐と対立、アレフ大佐を逮捕し、バース党を弾圧した。カセムはイラクの石油資源をエジプトに支配されるのを嫌った。

湾岸戦争の起源

 1961年、イギリス保護領であったクウェートが独立すると、イラクは石油資源の確保を狙い、その領有を主張し軍を国境に集結させたが、イギリス軍が増強されたため併合に失敗した。カセム政権は軍からも見放され、63年2月、バース党のクーデターによって捕らえられ、処刑されて終わった。
 イラクにはバース党政権が続き、1979年にサダム=フセインが大統領となる。サダム=フセインは、クウェートは本来イラクの領土であったと主張してその奪回の軍事行動を実行することとなる。ここで注意しておかなければならないのは、サダム=フセインのクウェート侵攻は、決して突発的な、あるいは個人的な野望だけではなかったと言うことである。

イラク(4) サダム=フセイン政権

1979年、バース党政権を継承したサダム=フセインは独裁的な軍事政権を樹立、イラン=イラク戦争、さらにクウェート侵攻という好戦的な姿勢を強めていく。

  イラク共和国は1979年からサダム=フセインの率いるバース党の独裁支配下におかれた。サダム=フセインは1980年9月~88年のイラン=イラク戦争1990年8月クウェート侵攻を引き起こして国際的に孤立し、91年に湾岸戦争でアメリカを中心とする国連軍の攻撃を受けた。その後もフセイン政権は存続したが、2003年、アメリカのブッシュ(子)大統領は、イラクが大量破壊兵器を隠匿しているとしてイラク戦争を開始、サダム=フセインはアメリカ軍によって拘束された。戦後はアメリカを中心とする軍隊が駐屯し治安維持にあたり、選挙によって成立した新政権(マリキ首相)のもとでサダム=フセインに対する裁判が行われ、2006年12月に処刑された。しかし、イラクは、東部を中心に多数を占めるシーア派の支持する現政権に対して、西部で多数を占めるスンナ派は現在もサダム=フセイン支持を変えておらずバグダードの現政権をアメリカの傀儡と非難し、内戦状態が続いた。また東北部のシリア、トルコとの国境地帯にはクルド人の居住区があり、独立運動(クルド人問題)も起きているが、現在は一定の自治が認められてイラク現政権を支持している。
 イラク戦争では、日本(小泉内閣)は2003年7月、イラク特措法が国会で強行採決のすいに成立、非戦闘地域における人道的復興支援と安全確保の支援のため、自衛隊を派遣することとなった。2004年1月からイラク南部のサマーワに宿営地を設け活動を開始した。時限立法で当初2007年までの予定が延長され、2009年に撤収した。
 問題の淵源は、中東を支配していた英仏が第一次世界大戦後に委任統治するためアラブ地域を分割する際、民族や宗教の違いを無視して英仏に都合の良い分割を強行し、そのためにイラクという宗派の違い、民族の違いを内包する国家が人為的(しかも住民の選択ではなく外国の手で)に作られたことにある。

ポスト・サダム=フセインのイラク

 サダム=フセイン政権崩壊後、イラクではアメリカ軍による軍政支配下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)の指導で、7月に亡命イラク人らを任命した統治評議会を発足させ、憲法制定・議会開設などの準備に当たらせた。2004年6月にCPAからイラク暫定政府に行政権を移譲、2005年1月に選挙によって国民議会が成立、憲法の審議に入り、10月に国民投票によって新憲法を成立させた。2006年に憲法に基づく総選挙が実施され、議会と政府が成立した。国民議会議長にはスンナ派、大統領にはクルド人(タラバーニー氏)が選出され、同大統領が首相にシーア派のマーリキー氏を指名した。この間、アメリカ・イギリスなどが「イラク復興支援」としてそれぞれ軍を駐留させているが、追放された旧バース党員や、フセイン支持派とみられるテロ事件、スンナ派とシーア派の衝突事件、クルド人の独立要求など、多難な状況が続いている。2004年4月にはファルージャで大規模なアメリカ軍と反政府武装勢力の軍事衝突が起こり、約600人以上という民間人の犠牲者が出た。

IS国の出現

 2011年の春、チュニジアから始まった「アラブの春」といわれた民主化運動は、隣国シリアに及び、アサド政権に対する反政府活動が始まった。反政府勢力はアメリカなどの支持もあってシリア北部を中心に急速に勢力を強め、一時は首都ダマスクスに迫ったが、アサド政権はロシアの支援を受けて盛り返した。このシリアの混乱の中から、シリア・イラク国境地域に、イスラーム原理主義集団の「イスラーム国」(略称IS国)が活動を開始、西欧列強が設けた国境の否定、カリフ制の復活などを唱えた。彼らはイスラーム教正統派スンナ派の武装勢力であると標榜し、支配地域でシーア派やイスラーム教の少数派を厳しく弾圧、また外国人ジャーナリストを人質にして身代金を要求するなどで衝撃を与えた。ISは国境地帯のクルド人勢力とも衝突、またイラク領内にも深く勢力を浸透させたため、シーア派の多いイラクも反撃に出た。IS国の出現で中東情勢は混迷をきわめたが、2017年秋頃までにシリア政府軍・クルド人軍事勢力・イラク軍の包囲が徐々にIS国支配圏を狭めて行き、ほぼ制圧された状態となった。ただ、IS戦闘員の残存勢力は依然として活動を続けており、完全収束とは言えないようだ。

IS国後の状況

 またアメリカ軍(およびイギリスなどの連合軍)は依然としてイラクに5000人規模で駐屯を続けている。これは、イランを睨んだもので、アメリカはイランの核開発に神経を尖らせている。またイラク国内の親イラン組織(イラクには同じシーア派が多い)がイランと結んでアメリカ軍を攻撃しているとして、2020年1月3日、イラン革命防衛軍のソレイマニ司令官をドローン攻撃で殺害したことから緊張が高まっている。
 同年10月には首都バグダッドで、コロナウィルス対策で外出禁止令が出されているにもかかわらず、タハリール広場には多くのテントが張られ、「外出しない」座り込み形式で集会が開かれた。集まったのは10~30代の若者が多く、彼らは「腐敗した国会はいらない!」などの声を上げた。背景には政治の腐敗だけでなく、就職難などの経済の低迷がある。サダム=フセイン崩壊後のイラクでは多数派のシーア派が政権を握り、スンナ派は抑圧されるという傾向があったが、ここの集まった若者は宗派の違いを越えた共通の不満に動かされている。最近はスンナ派系のIS国を押さえ込むうえで存在感を強めているイラン系シーア派武装組織「人民動員隊」(PMF)が国軍や警察に代わって治安にも乗り出しており、政府もその勢力拡大を警戒している。アメリカも依然として親イラク組織の反米活動を警戒しており、今後の焦点はPMFの動きと、若者の中に生まれつつある宗派を超えた現状打破の活動であると思われる。<朝日新聞 2020/11/4 記事を要約>