ピカソ
20世紀を代表する画家。1910年代に革新的な立体派(キュービズム)の絵画を創出した。1937年のナチスによる無差別空爆を非難して大作「ゲルニカ」を発表した。戦後も長く活躍し、1973年に死去した。
Pabro Picasso(1881-1973) スペイン南部のマラガに生まれ、バルセロナなどで育ち、独学で画家となった。1904年にパリに出て、モンマルトルの「洗濯船」と言われた小さなアトリエで創作に打ち込んだ。初期の「青の時代」といわれた沈鬱な作風から1906年ごろからの「ローズ(バラ色)の時代」を経て、次第に独創的な作品を生み出していった。
立体派(キュービズム) 」の最初の作品として評価されるのは1924年ごろであった。
1911年ごろ、モンパルナスに移ったピカソは、詩人アポリネールやその恋人で画家のローランサンなど若い芸術家と交わりながら、大きな転機を迎えていった。そして彼の絵画を理解した若い画商と運命的な出会いがあった。
ピカソは第一次世界大戦中の1917年、詩人のジャン=コクトーに誘われてロシア=バレー団に加わり、ローマを訪れ、ヨーロッパの古典芸術の原型にじかに接し、古典の要素を積極的に採り入れ、このころから美術市場でも人気画家として見られるようになった。
戦後の1924年、ピカソの絵画に刺激を受けた詩人アンドレ=ブルトンとルイ=アラゴンは、「アヴィニヨンの女たち」を機関紙『シュルレアリスム革命』で紹介し、20世紀の新しい芸術運動としてのシュルレアリスム(超現実主義)の主導者と見なされるようになった(ただし、現在ではキュービスムとシュルレアリスムは区別されており、ピカソはシュルレアリスムの画家とは見なされていない)。
彼らは台頭するファシズムに対抗するために共産主義に傾斜していった。この間、ピカソの私生活は、何人もの女性と交渉をもち、結婚と離婚を衝動的に繰り返していたが、そのようなスキャンダルごとに女性を題材とした作品を創造していった。
ピカソは現代で最も知られた画家として、油絵、版画、陶芸、彫刻などあらゆるジャンルに渡って創造的な作品を多作し、1973年4月8日、91歳で死去した。その多額な遺産は、何人かの正妻と愛人、それらの間に生まれた遺児に分配された。<以上、瀬木愼一『ピカソ』2003 集英社文庫 による。同書には、ピカソの創作の秘密とも言える、多くの女性との愛憎の歴史が詳しく述べられている。>
キュービズムの誕生
大きな転機となったのは1907年の「アヴィニヨンの女たち」であった。この作品の題材はバルセロナの娼婦たち(フランスのアヴィニヨンではない)であり、それまでの自然主義や印象派の絵画と全く異なっていたので、一般に受け入れられることはなく、のちに「1911年ごろ、モンパルナスに移ったピカソは、詩人アポリネールやその恋人で画家のローランサンなど若い芸術家と交わりながら、大きな転機を迎えていった。そして彼の絵画を理解した若い画商と運命的な出会いがあった。
(引用)彼(ピカソ)の視線は自然の形態をそのまま受けとめることに満足せず、その大胆な解体へと向かい、解体過程そのものを画面に表示するという史上にまったく前例のない冒険を推し進めていた。それを狂気とし、また破滅と見なし、そのうえ女性関係をめぐるスキャンダルにも顔を背に向けて離れていく昨日までの仲間が少なくなかったこの時期に、思いもよらない一人の若いドイツ人が彼に歩み寄って来た。株取引の職歴はあるが、絵画はこれまで見るだけで、若干買ったことがあるという程度の青年で、ピカソより年下だった。<瀬木愼一『ピカソ』2003 集英社文庫 p.63>このカーンワイラーは「アヴィニヨンの女たち」をみて感動し、全面契約を申し出て、ピカソの作品を買い上げ画廊に展示した。彼はピカソの発見者、キュービズムの画商といわれ、生涯の理解者として重要な人物となった。
ピカソは第一次世界大戦中の1917年、詩人のジャン=コクトーに誘われてロシア=バレー団に加わり、ローマを訪れ、ヨーロッパの古典芸術の原型にじかに接し、古典の要素を積極的に採り入れ、このころから美術市場でも人気画家として見られるようになった。
戦後の1924年、ピカソの絵画に刺激を受けた詩人アンドレ=ブルトンとルイ=アラゴンは、「アヴィニヨンの女たち」を機関紙『シュルレアリスム革命』で紹介し、20世紀の新しい芸術運動としてのシュルレアリスム(超現実主義)の主導者と見なされるようになった(ただし、現在ではキュービスムとシュルレアリスムは区別されており、ピカソはシュルレアリスムの画家とは見なされていない)。
彼らは台頭するファシズムに対抗するために共産主義に傾斜していった。この間、ピカソの私生活は、何人もの女性と交渉をもち、結婚と離婚を衝動的に繰り返していたが、そのようなスキャンダルごとに女性を題材とした作品を創造していった。
「ゲルニカ」の告発
1937年、ピカソはパリ万国博覧会でスペイン館の壁画の制作に当たることになった。すでに前年7月、スペイン戦争が勃発しており、1937年4月26日にヒトラーのナチス=ドイツはバスク地方の田舎町ゲルニカを爆撃した。ゲルニカは軍事拠点ではなく、誰も予想しなかった爆撃であったが、それはフランコ軍を支援したヒトラーが、共和国側の戦意を挫くために行った戦略爆撃だった。ピカソはパリでその知らせを受け、壁画のテーマを決め、下描き作業に入った。現在もその過程で描かれたモチーフのデッサンが多数残されている。共産党に入党
しかし、スペイン戦争は人民戦線の内部対立もあって敗れ、スペインにはフランコ独裁政権が成立したため、ピカソはその後も祖国スペインに戻ることができなかった。その後、共産党メンバーと接触がつづき、1944年8月にパリが解放されると、10月にフランス共産党への入党を公表した。その理由を「彼らがいちばん勇敢だった」と説明している。その後も平和運動への取り組みが評価され、50年にはソ連から「レーニン平和賞」を受けている。ピカソは現代で最も知られた画家として、油絵、版画、陶芸、彫刻などあらゆるジャンルに渡って創造的な作品を多作し、1973年4月8日、91歳で死去した。その多額な遺産は、何人かの正妻と愛人、それらの間に生まれた遺児に分配された。<以上、瀬木愼一『ピカソ』2003 集英社文庫 による。同書には、ピカソの創作の秘密とも言える、多くの女性との愛憎の歴史が詳しく述べられている。>