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フランス共産党

1920年に社会党から分離しコミンテルンのフランス支部として結成された。1935年からは人民戦線を結成。第二次世界大戦でレジスタンスの中心となり勢力を拡大し、戦後も大きな政治勢力となった。

 フランスでは19世紀末以来、社会主義や労働運動はいくつかの政党、労働組合に分裂していた。その中にはマルクス主義を掲げる政党もあったが、帝国主義の脅威が強まる中、1905年に二つの社会主義グループが統合して第2インターナショナル支部としてフランス社会党(正式名称はインターナショナル・フランス支部、一般に統一社会党と言われる)が成立した。ここにはマルクス主義者も参加したが、主導権は穏健な社会主義者ジャン=ジョレスが握った。しかし、第一次世界大戦が勃発すると第2インターナショナルは各国の社会主義政党がそれぞれ自国の戦争参加を支持したため、事実上解体してしまった。

社会党からの分離

 フランス社会党では大戦中のロシア革命の成功からマルクス主義派の力が強まり多数派を形成するようになっていた。1919年、レーニンの主導によるコミンテルン(第3インターナショナル)が設立されると、各国に対してボリシェヴィズムに基づいた前衛=革命政党の結成を促す指導が強くなり、フランス社会党でもそれに応じた左派の多数派が、1920年12月にコミンテルンに加盟することを決議、コミンテルン支部として活動することになった。これがフランス共産党の始まりであり、少数派の社会民主主義者が社会党としてとどまった。労働組合の労働総同盟(CGT)も100万を超える組合員がいたが、こちらは共産党系は少数派で、22年に分離して統一労働総同盟(CGTU)を結成して分裂した。

社会ファシズム論

 発足当初、フランス共産党は党員が14万(社会党は4万)を数えていたが、本家のソ連とコミンテルンによる干渉に対する反発が強まり、党勢は伸びなかった。1928年にはスターリンとコミンテルンは、「社会ファシズム論」を提起して、ボリシェヴィズム以外の社会主義勢力が社会民主主義路線(暴力革命を否定し、議会制民主主義の枠内での政権獲得による社会改良を目指す路線)をとることは、資本主義ブルジョワ政治権力に妥協し、それに協力するに過ぎず、帝国主義段階でのファシズムの一形態であると断定した。従ってコミンテルンは社会党などの社会民主主義勢力を労働者階級にとっての階級敵であるとして、激しく攻撃した。それに対して社会党は、スターリンとソ連による干渉は自由と独立を損なうものとして反発を強めた。こうして共産党と社会党は論争と同時に激しい中傷合戦を繰り返し、その影響を受けて労働組合運動も混乱、衰退の傾向を強めた。一方、当時政権を握っていた急進社会党(社会主義政党ではなくブルジョワ中間派を基盤とした共和主義政党)は汚職事件(1933年のスタビスキー事件)などで揺れており、王党派や国粋主義者などの右派ファシズム勢力が共産主義の恐怖と議会政治の腐敗を材料に台頭してきた。

人民戦線戦術に転換

 1929年の世界恐慌の影響はフランスにはすぐにはおよばず、経済は比較的安定していた。しかし、ドイツで1933年にヴェルサイユ体制打破を掲げるヒトラーが権力を掌握、ナチスドイツの脅威がフランスに及んでくると、フランス国内でも右派が台頭し、1934年2月6日には汚職事件への抗議を口実にファイズム団体がパリのコンコルド広場で騒擾事件を起こし、議会政治そのものが危機にさらされるようになった。知識人や労働組合の中に社会党・共産党が対立を停止し、統一戦線をつくることを望む声が強くなり、2月12日には初めて社会党・共産党が共同でゼネストを指導し、成功させた。共産党のドレーズはさらに同年6月には共産党全国協議会を開催し、「いかなる犠牲を払っても」統一戦線を結成することを決議、社会党との間で同年7月14日に協力関係を成立させた。

人民戦線の成立

 フランス共産党の指導者トレーズは積極的に動き、社会党のレオン=ブルムとの協定に続き、さらにブルジョワ自由主義派である急進社会党のダラディエとも手を結んで、フランス人民戦線の結成を模索した。ブルジョワ政党である同党は共産党との提携に慎重であったが、1935年5月、ドイツの動きが強まる中、スターリンが仏ソ相互援助条約の締結に応じ、フランスの国防方針を支持したことから一挙に人民戦線の同意に転じた。そして6月、共産党・社会党・急進社会党の三党による「人民連合全国委員会」が結成され、同年7月14日のパリ祭に、「パンと平和と自由」をスローガンに三党と労働総同盟などの労働団体、人権同盟、反ファシスト知識人監視委員会など50団体が集結した。この動きを受けてモスクワのコミンテルンは7月25日、コミンテルン第7回大会を開催して方針を大きく転換し、反ファシズム人民戦線戦術をとることを決定した。フランス人民戦線という「実験」を成功させたフランス共産党は、国際共産主義運動の中でも有力な存在となった。

人民戦線内閣に協力

 1936年の総選挙で人民戦線は多数を占め、レオン=ブルム内閣が成立したが、共産党はソ連の影響力が誇大に宣伝されることを避け、入閣せず閣外協力にとどまるという柔軟な姿勢をとった。ブルム内閣は労働者の待遇向上の施策を次々と実施し、成果を上げていったが、この頃からドルとポンドの切り下げによるフランス経済の低迷が明確となり、内閣が当初否定したフラン切り下げに対する産業界と急進社会党の要求が強まり、それに反対する共産党との意見対立が次第に深刻になっていった。内閣を崩壊に追い込んだのは経済問題とともにスペイン戦争に対する支援問題であった。ブルム首相と共産党はスペイン共和国政府支援を主張したが、イギリスと並んで不干渉政策を主張する社会党右派や急進社会党との意見の違いが大きくなり、結局正式な支援はしないことになった。共産党員は個人の資格で義勇兵として支援に向かったが、スペイン戦争がフランコ派の勝利に帰したことによってフランス人民戦線も後退せざるを得なくなった。

レジスタンス

 1939年8月23日に突如、独ソ不可侵条約が締結されたため、ソ連を支持していた共産党は立場を失い孤立せざるを得なくなった。しかし、第二次世界大戦中にドイツ軍の侵攻とフランスの降伏にともなう軍事支配、それに協力したフランスのヴィシー政府に対するレジスタンス(抵抗運動)の中心となって活動したのは共産党であった。

戦後の共産党

 戦後のフランス第四共和政が成立、1946年の総選挙がおこなわれると、共産党は第1党に進出し、ド=ゴール内閣を支えることになった。しかし、憲法制定に関して対立したためド=ゴールは辞任し、政治は混乱した。おりから東西冷戦が本格化するなか、共産党は1947年にコミンフォルムに加盟し、そのソ連寄りの姿勢を中道諸党派から批判されるようになった。第四共和政下でストライキが多発し、共産党の指導に反発する勢力との対立が激化、1947年5月、閣外に追われ、野党となった。その後、冷戦下では長い低迷が続いたが、1977年に社会民主主義との協力などの姿勢をとる、いわゆるユーロ=コミュミズムに転じ、1981年にはフランス社会党との選挙協力を復活させ、ミッテランを社共統一候補として建てて大統領選挙に勝ち、政権に協力することとなった。

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