詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第7章 アジア諸地域の繁栄
3節 トルコ・イラン世界の展開
■ポイント ティムール帝国とはどのように成立し、どのような文化を有していたか。
b ティムール
- 14世紀中ごろ 中央アジアのa チャガタイ=ハン国 、東西分裂。
- 1370年 西チャガタイ=ハン国出身のb ティムール が建国。
=c モンゴル帝国の後継をかかげたトルコ=モンゴル系のイスラーム国家。 - d 西トルキスタン を統一し、e サマルカンド を復興させ、首都とする。
→ 東トルキスタンにも進出。ウィグル人を支配。 - f イル=ハン国 滅亡後のg イラン ・h イラク を領土に併合。
- 南ロシアのi キプチャク=ハン国 、さらにj 北インド に侵入。
- 1402年 k アンカラの戦い :l オスマン 軍を破り、m バヤジット1世 を捕らえる。(後出)
- n 明 (o 永楽帝 の時代)への遠征に出発(前出)。途中オトラルで病死(1405年)。
解説
ティムールは自らをモンゴル人でチンギスハーンの系統にあると称していたが、その直系ではなかったので、ハーンの称号は名乗らなかった。またモンゴル人と言っても、トルコ語系の言葉を話し、トルコに同化したイスラーム教徒であり、実質的には「トルコ化したモンゴル人」である。右図は現在のウズベキスタンの首都タシケントにあるティムール像。ティムールはウズベク人ではないがウズベキスタンでは国家の象徴的英雄として遇されている。
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Bトルコ=イスラーム文化- ティムール朝の成立によりa イラン人とトルコ人の世界が統一 。b ペルシア語 が共通言語とされる。
- それによって、イル=ハン国で成熟したc イラン=イスラーム文化 が中央アジアに伝えられる。
- 首都d サマルカンド >の繁栄。14~15世紀 中央アジアの商業・学芸の中心となる。
→ 壮大なモスクや学院(マドラサ)の建設。イラン文学、e ミニアチュール(細密画) など。 - トルコ語の文学作品(アリシール=ナヴァーイなど)が生まれる。 → B トルコ=イスラーム文化 の形成。
- f ウルグ=ベク 、サマルカンド郊外に天文台を建設。天文学、暦法も発展。 → 暗殺され、以後衰退する。
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ティムール帝国とその周辺
A ティムール B オスマン帝国 C マムルーク朝 D デリー=スルタン朝(トゥグルク朝)
a サマルカンド b ヘラート c イスファハーン d タブリーズ e バグダード f ダマスクス
g カイロ h アンカラの戦い i コンスタンティノープル j サライ k デリー
- ▲第3代のa シャー=ルフ 、都をヘラートにも設ける。 → 内紛おこり、東西に分裂。
- 中央アジア草原地帯のトルコ系遊牧民b ウズベク人 が南下し、オアシス地帯に進出。
- 1507年 ウズベク人の▲c シャイバニ がティムール朝を滅ぼし、d シャイバニ朝 が成立。
都はe ブハラ に移る。→ 16世紀 f ブハラ=ハン国 と言われるようになる。 - イランにはサファヴィー朝が成立。(後出) ・中央アジア草原地帯にはカザーフ人が国家形成。
- ▲東トルキスタン ウイグル人が17世紀後半、モンゴル系g ジュンガル に支配される。後に清朝が進出。
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- 中央アジア ウズベク系のf ブハラ=ハン国 、h ヒヴァ=ハン国 、i コーカンド=ハン国 が分立。
- 19世紀後半、ロシアの南下政策によって制圧され、実質的にロシア領となる。(13章3節)
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イ.オスマン帝国の成立と発展
■ポイント 完成されたイスラーム国家とされるオスマン帝国とはどのような国家で、どのような統治を行ったか。
A 13世紀末 a アナトリア の▲ルーム=セルジューク朝が衰退。各地にトルコ人君侯国が生まれる。
- その一つのb オスマン=ベイ が戦士集団を率いて有力となる。キリスト教勢力の脅威となる。
- 1299年 オスマン1世として建国。都はブルサ。c ビザンツ帝国 領を奪い、a アナトリア を征服。
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Bバルカン半島 に進出。- 1366年 ムラト1世 a アドリアノープル を都とし、エディルネと改称。
→ b スルタン の称号を用いる。またc イェニチェリ (後出)を創始し、新たな軍事力とする。 - 1389年 ▲d コソヴォの戦い :e セルビア などスラブ諸民族のキリスト教勢力連合軍を破る。
→ バルカン半島のイスラーム化、決定的となる。
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Cバヤジット1世 第4代スルタン- 1396年 a ニコポリスの戦い b ハンガリー 王ジギスムントの率いるキリスト教国軍と戦う。
= バルカン諸国とフランス・ドイツ・イギリスの連合軍を撃破。 - 1402年 c アンカラの戦い d ティムール がアナトリアに進出。
→ オスマン帝国軍敗れ、東方領土を失い、一時衰退。
D メフメト2世
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Dメフメト2世 第7代スルタン 国力を回復。(右図)- 1453年 a コンスタンティノープル を占領。b ビザンツ帝国 を滅ぼす
→ 古代ローマの伝統が途絶える。同年、西欧ではc 百年戦争 の終結。 - d イスタンブル といわれ首都となる。▲e トプカプ宮殿 などを造営。
- バルカン半島を北上、セルビア、アルバニア、黒海北岸に進出。領土を拡大。
- アジアとヨーロッパにまたがる大帝国が成立。東地中海世界を制圧。
- 影響 f 北イタリアの商人などが西回り新ルート開発を始める。
g ギリシア人がイタリアに亡命しルネサンスに影響を与える。
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Eセリム1世 第9代スルタン- 1514年 ▲チャルディランの戦い イランのa サファヴィー朝 を破る。1516年にシリアに進出。
= オスマン帝国のb 鉄砲で武装したイェニチェリ部隊 が、サファヴィー朝の騎兵部隊を破る。(後出) - 1517年 c マムルーク朝 を滅ぼし、d エジプト を併合。
→ イスラーム教の両聖都e メッカ とf メディナ の保護権を獲得。
宗教的にもg スンナ派イスラーム教 の擁護者となる。 - 意義:h オスマン帝国のスルタンが、カリフ政治の後継者と認められ、スンナ派の最高権威となった。
- これによってオスマン帝国のi スルタン=カリフ制 が始まるとされる。
解説
オスマン帝国のスルタンはマムルーク朝の庇護を受けていたアッバース朝のカリフから、カリフの地位も受け継いだ(禅譲された)と説明されている。しかし、16世紀のオスマン帝国の史料にはカリフ位を継承したことの言及はない。それが言われるのは18世紀のことである。そこでスルタン=カリフ制は伝説であり、18世紀にオスマン帝国がロシアによってクリミアを奪われた頃、ムスリムの中心にオスマン帝国が存在することを訴えるために強調されるようになったことであるとの見解もある。。
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▲・公用語として、j アラビア語で表記されたトルコ語 が用いられる。
→ トルコ=イスラーム文明の継承。
Fスレイマン1世 (大帝) 第10代スルタン 在位 1520~1566 オスマン帝国の全盛期。
→ トルコ=イスラーム文明の継承。
- 16世紀前半 南イラク、北アフリカ、バルカン北部に領土を拡大。
- 1526年 a モハーチの戦い :b ハンガリー 軍を破り、同国を支配下に置く。
- 1529年 c 神聖ローマ帝国 の首都d ウィーン包囲(第1次) 。
= e カール5世 に圧力をかける。f 宗教改革 期のヨーロッパ国際政治に大きな影響を与える。
→ 1カ月包囲した後、冬期の攻撃が困難になり撤退。 - 1538年 g プレヴェザの海戦 :スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍を破る。
→ チュニジアに進出。インド洋方面ではh ポルトガル 勢力の紅海・ペルシア湾への進出を抑える。 - 1536年 フランスと同盟、i カピチュレーション を認める。
内容:j フランス商人のオスマン帝国内での居住と通商の自由を認めた通商特権。
解説
カピチュレーションは、オスマン帝国が外国に与えた通商の自由、航海の安全を保障するなどの特権であり、治外法権も認めた。従来、スレイマン1世の時の1536年、フランソワ1世のフランスに与えられたのがその最初とされていたが、最近ではその事実は疑わしいとされており、実際にはセリム2世の1569年とする説が有力である。背景:フランスのk フランソワ1世 はe カール5世 と対立していた。
→ 後にイギリス・オランダにも認められ、西欧諸国の西アジア進出の足がかりとなる。 - 1557年 l スレイマン=モスク を建設。
▲建築家ミマーリ=シナンに命じる。(右図)
オスマン時代の代表的ドーム建築。
- 法律、諸制度を整備し▲立法者(カヌーニー)と言われた。
D スレイマン=モスク
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G 帝国の停滞- 16世紀後半 西欧の宗教改革、大航海などの展開。
→ 西欧主権国家の勢力圏拡大競争が激化。 - 1571年 a レパントの海戦 (後出)
= スペイン・ヴェネツィアなどに連合海軍に敗れる。 → ただし、東地中海の制海権は維持。
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・▲17世紀 スルタンの権威の低下 → 大宰相( ヴェジラーザム )が実権握る。
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2.スルタンの専制政治
Aイスラーム法 に基づく専制政治(祭政一致)。
- a スルタン は専制権力を持つが、イスラーム法体系▲b シャリーア には従わなければならなかった。
→ ▲スルタンの勅令や慣習法はカーヌーンと言われ、それを補った。 - 直轄地は州・県・郡に分け、中央から行政官・軍政官を派遣して統治した。
エジプト、メソポタミアなどの征服地には総督を置いて間接統治した。
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B異教徒との共存- a ギリシア正教会 、b アルメニア教会 、c ユダヤ教徒 などの
宗教共同体(d ミッレト )には法の下での自治を認める。
解説
ミッレト制はメフメト2世の時に始まるとされてきたが、不思議なことに同時代の史料には全く現れてこない。元来ミッレト(またはミレット)とはアラビア語で「宗教」を意味する「ミッラ」を語源としており、現在のようなミッレト制という使い方はされなかった。どうやら近代に入って西欧人がオスマン帝国でのムスリムと非ムスリムの共存するシステムを解りやすく説明するために用いたため、広く流布するようになったらしい。
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C オスマン帝国の軍事力- a シパーヒー と言われる騎士 = スルタンから軍事奉仕の代償として
封土からの徴税権(▲b ティマール )を与えられた有力者。
= ブワイフ朝以来のc イクター制 (前出)を継承したもの。 - d イェニチェリ 軍団といわれる歩兵。(右図)
= 帝国が征服したe バルカン半島のキリスト教徒の子弟 を強制的に編成。
強制徴兵を▲f デウシルメ という。
解説
イェニチェリは「新しい兵士」の意味で、バルカン半島のキリスト教徒の子弟の容姿端麗な者を強制的に徴発して、イスラーム教に改宗させ、スルタンの親衛隊とした。歩兵に鉄砲を持たせる新しい戦術で、オスマン帝国の征服戦争の主力となった。その強制徴用をデウシルメといった。イェニチェリ軍団はオスマン帝国の宮廷の一大政治勢力となっていった。なお、18世紀にイェニチェリに対抗させるために新たに組織された西洋式軍隊をニザーム=ジェディットという。→ f 鉄砲で武装したスルタン直属の親衛軍 として各地の征服で活躍。
後には政治的な発言力も強め、宮廷内の一大勢力となった。
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・オスマン帝国の特質
f スルタンがカリフの権威も有しイスラーム法によって統治する完成されたイスラーム国家
f スルタンがカリフの権威も有しイスラーム法によって統治する完成されたイスラーム国家
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ウ.サファヴィー朝の興隆
■ポイント イランのシーア派国家であったサファヴィー朝はどのような経緯で国家を形成したか。
Aサファヴィー朝 の建国 ティムール朝の衰退後、イランでa 神秘主義教団 の勢力が強まる。
- 1501年 b サファヴィー教団 の長c イスマーイール1世 が遊牧民を率い王朝を開く。
- アゼルバイジャンの▲d タブリーズ に入城して都とし、イラン高原を支配。
→ ▲e キジルバシュ (トルコ系遊牧民の部隊)を軍事力として支配域をひろげる。
= 統一性は弱く、主要な地域の遊牧部族長が連合した遊牧国家として成立。 - 国内統一のため、f シーア派 (とくにg 十二イマーム派 )を国教とする。
解説
イスラーム教では少数派であるシーア派の中の主流派が十二イマーム派。イマームとはシーア派では最高の宗教指導者を意味するが、スンナ派のカリフと異なり、ムハンマドの娘婿アリーの子孫のみにその資格があるとしている。アリーの後、十二代目のイマームがイラクのサーマッラーで「神隠れ」し、やがて再臨すると信じているのが十二イマーム派である。なお、イマームの語は宗派によっては単なる教団指導者を意味することもある。国王はイラン古来のh シャー を称し、イラン人の民族意識を高める。
→ i イランのシーア派化 のはじまりとなる。 - 1514年 ▲チャルディランの戦いでj オスマン帝国 と戦い、敗れる。アゼルバイジャンと都を奪われる。
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Bアッバース1世 (大帝) 在位1587~1629 中央集権体制を整え、全盛期となる。- 常備軍と火砲を導入し、a オスマン帝国 からアゼルバイジャンとバグダードを奪回する。
- 1622年 b ホルムズ島 を占領していたc ポルトガル 人を追い払う。
- 新首都 d イスファハーン の建設 e 王の広場 を中心に、モスク・学院・庭園を配置。
解説
「王の広場」は、アッバース1世が1597年に首都イスファハーンの中心に設けた、縦約500m、横約160mの広場。周囲には宮殿や神学校、バザールなどが建造された。その中でひときわ目立つのが「イマームのモスク」。イラン芸術を代表するアラベスク模様で彩られたタイルが美しい。なお、かつては「シャーのモスク」といわれていたが、イラン革命後でシャーはいなくなったので、「イマームのモスク」といわれるようになった。「王の広場」も現在は「イマームの広場」といわれている。f イマームのモスク などg アラベスク模様 のタイルを使ったペルシア風建築。
= 「h イスファハーンは世界の半分 」と言われた。 - ヨーロッパ諸国との外交・通商関係が結ばれる。絹織物(ペルシア絨毯)などがヨーロッパ市場にもたらされる。
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・17世紀中期、イラクをオスマン帝国に奪われ衰える。
建築、美術、工芸などのi イラン芸術 は最高潮に達する。
建築、美術、工芸などのi イラン芸術 は最高潮に達する。
オスマン帝国とサファヴィー朝
A オスマン帝国 B サファヴィー朝 1 ブルサ 2 アドリアノープル 3 イスタンブル
4 ウィーン 5 ヴェネツィア 6 ローマ 7 ダマスクス 8 カイロ 9 メディナ 10 メッカ
11 アデン 12 バグダード 13 タブリーズ 14 イスファハーン 15 ホルムズ島
a コソヴォの戦い b ニコポリスの戦い c アンカラの戦い d チャルディランの戦い e モハーチの戦い
f プレヴェザの海戦 g レパントの海戦 (後出)