詳説世界史 準拠ノート(最新版)
第7章 アジア諸地域の繁栄
4節 ムガル帝国の興隆と東南アジア交易の発展
■ポイント イスラーム王朝であるムガル帝国によるインド統治の特徴と、その変遷の大筋を抑える。
Aムガル帝国 の成立。ティムールの子孫a バーブル (母方がモンゴル系)が自立。解説
バーブル(1483~1530)自身はティムール5代の後裔でトルコ系であるが、母方の先祖はチンギス=ハンと称した。ティムール朝の地方領主であったが、ウズベク人のシャイバニ朝が成立したため、アフガニスタンのカーブルに移った。ティムール帝国の再興をめざし、サマルカンドを占領したが、シャイバニに敗れ、北インドに方向転換し、1526年、パーニーパットの戦いでロディ朝を破った。その日記風の自伝『バーブル=ナーマ』はトルコ語で書かれたが、彼自身はペルシア語・アラビア語に通じるイスラーム教徒であった。
- アフガニスタンのカーブルを拠点にサマルカンド奪還を図るも失敗し、反転して北インドに進出。
- 1526年 b パーニーパットの戦い でc ロディー朝 を破る。
ガンジス川を渡るB アクバル - スンナ派イスラーム教を信奉。支配は北インドの一部にとどまる。
- ▲第2代 フマーユーン アフガン人勢力にデリーを奪われる。
→ 一時、スール朝が成立。サファヴィー朝の支援でデリーを奪回する。
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Bアクバル 第3代 1556年 即位。
帝国の実質的な基礎を築く。
- 官僚制の整備 a マンサブダール制 :
すべての官吏の位階ごとに維持すべき騎兵・騎馬数(禄位=マンサブ)を定め、それに応じた給与を与える制度。 - 給与は土地からの徴税権(封土=ジャーギール)として与えられた。
= b イスラーム諸王朝のイクター制を継承した制度。 - 中央集権の整備 全国を州-県-郡に分け、全国土を測量し、徴税する制度を導入。首都をc アグラ に移す。
- ▲さらに1569年に新都ファテープル=シークリーを造営。後、さらにラホールに移る。
- インド西部のヒンドゥー教勢力d ラージプート 諸侯を1576年までに従え、北インドの大半を支配。
解説
文武の官僚の功績に応じて禄位(マンサブ)が与えられる制度。マンサブは位階ごとに10騎から5000騎に及び、それをあたえらる官僚をマンサブダールと言った。また、給与は土地そのものではなく、徴税権(ジャーギール)として与えられた。その点で、セルジューク朝などイスラーム教国に共通するイクター制と類似している。
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地図 ムガル帝国とその拡大
1 バーブル の時の領土
2 アクバル の時の領土
3 アウラングゼーブ の時の領土
重要地名
a カーブル b デリー
c アグラ d ボンベイ(ムンバイ)
e ゴア f カリカット
g ポンディシェリ h マドラス(チェンナイ)
i カルカッタ(コルカタ) j シャンデルナゴル
主な反ムガル勢力
A シク教徒
B ラージプート諸侯
C マラーター同盟
※ヨーロッパ各国の進出については9章2節で詳述。
1 バーブル の時の領土
2 アクバル の時の領土
3 アウラングゼーブ の時の領土
重要地名
a カーブル b デリー
c アグラ d ボンベイ(ムンバイ)
e ゴア f カリカット
g ポンディシェリ h マドラス(チェンナイ)
i カルカッタ(コルカタ) j シャンデルナゴル
主な反ムガル勢力
A シク教徒
B ラージプート諸侯
C マラーター同盟
※ヨーロッパ各国の進出については9章2節で詳述。
Cイスラーム教とヒンドゥー教の融合 15~16世紀
Text p.198
- a カビール ヒンドゥー教のバクティ信仰とイスラーム教のスーフィズムの融合を説く。
→ 人類は平等であると主張して、不可触民への差別を否定した。 - b ナーナク aの影響を受け、愛と献身によりカーストの区別無く解脱できると説く。c シク教 の成立。
= イスラームの影響を受けたヒンドゥー教の改革派。パンジャーブ地方にひろがる。 - d アクバル 帝の基本政策 e ヒンドゥー教徒との融和をはかり、ムガル帝国の安定を図った。
自らもヒンドゥー教徒(f ラージプート )の女性と結婚、官吏にヒンドゥー教徒を登用。 - 1564年 非イスラーム教徒に対するg 人頭税(ジズヤ)の廃止 。
- みずから▲新宗教 スーフィー信仰による一神教(ディーネ=イラーヒー)を創始。しかし宮廷外には普及せず。
- ▲第4代 ジャハンギール (在位1605~27年) ヒンドゥー教徒との融和政策を継承。
g タージ=マハル
解説
アクバルはヒンドゥー教徒との融和を図ることで支配を安定させた。その治世(1556年~1605年)はイギリスのエリザベス1世の治世(1558年~1606年)とほぼ重なっている。またポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達したのはムガル帝国の成立より前の1498年であったことに注意。アクバル帝の死後、イギリス、フランスのインド進出が始まることとなる。
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Dインド=イスラーム文化 の成熟- a シャー=ジャハーン 第5代 在位1628~58年
宮廷中心にイラン文化とインド文化の融和が進む。 - 絵画:b ミニアチュール(細密画) の発達。
→ ▲c ムガル絵画 とd ラージプート絵画 に発展。 - e ウルドゥー語 :公用語のペルシア語とインドの地方語が融合。
→ 現在のパキスタンの国語。
インド人の言葉はf ヒンディー語 という。 - 文学:『バーブル=ナーマ』、『 アクバル=ナーマ 』などの編纂。
- 建築:g タージ=マハル :a シャー=ジャハーン が王妃の廟としてアグラの郊外に建設。(右上)
= インド様式とイスラーム様式の融合したムガル時代の代表的建築。
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★ムガル帝国時代の南インド- 14世紀 デカン高原にa ヴィジャヤナガル (ヒンドゥー教国)が成立。綿花・サトウキビなどの交易で栄える。
b インド洋交易 を通じ、西アジアから馬を大量に購入、軍事力を高める。16世紀初め、全盛期となる。 - 1498年 c ヴァスコ=ダ=ガマ の来航。ポルトガル、1510年、d ゴア を占領。拠点を築く。
- 17世紀以降、ムガル帝国などイスラーム勢力との抗争で衰える。 → 南インド各地でも地方勢力が自立。
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イ.インド地方勢力の台頭
■ポイント ムガル帝国の全盛期のインド統治のあり方と、その衰退過程を知る。
Text p.199
A アウラングゼーブ帝 第6代 在位1658~1707年 ムガル帝国の全盛期
- 外征を繰り返しa デカン高原 を征服し、ムガル帝国の領土最大となる。
- ムガル支配層、地租の徴収の強化だけに努め、農村と都市の商品生産の展開にはかかわらず。
- 宗教政策の転換 b イスラーム教(スンナ派) に深く帰依し、ヒンドゥー教寺院を破壊。
- 1677年 c 人頭税(ジズヤ)の復活 。→ d ヒンドゥー教徒 が強く反発。 → e ヒンドゥー教徒との融和政策を放棄したため、各地の非イスラーム勢力に自立の動きが強まった。
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B 地方勢力の台頭- a マラーター王国 。デカンのヒンドゥー教徒を率いた▲シヴァージーが王国を建国。
ムガル帝国に反抗。後にマラーター同盟となる(イギリスのインド支配に抵抗)。 - b シク教徒 の反乱。西北インド(パンジャブ地方)で反乱を起こす。
- 1707年 c アウラングゼーブ帝 の死後、帝位継承をめぐる争いが続く。
- ベンガル、デカンに独立政権ができ、ムガル帝国は、デリー周辺のみを支配する地方政権にすぎない存在となる。
解説
シク教はナーナクが創始し、イスラームの影響を受け厳しく多神教信仰や偶像崇拝を禁止、さらにカーストを否定し平和を重んじたが、ムガル帝国の弾圧に抵抗するため武装するようになった。パンジャブ地方に大きな勢力を持ち、後にはイギリスとも戦った。
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・17世紀 イギリス・フランスのインド進出。18~19世紀 イギリスのインド植民地化。(12章2節へ)
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ウ.東南アジア交易の発展
■ポイント ポルトガルのマラッカ占領後の東南アジア世界の状況を考える。
Aポルトガル の進出 ヨーロッパの大航海時代始まる → 16世紀 東南アジアに進出。(後出)
- 1511年 a マラッカ王国 を占領。 → 国王(スルタン)は移動しb ジョホール王国 と称する。
- ポルトガルのマラッカ海峡支配 → ムスリム商人はスマトラの西をまわり、スンダ海峡を通ってジャワ海、
さらにセレベス海に向かう。 → 東南アジア島嶼部でのイスラーム諸国の成立。
解説
1511年にマラッカ王国がポルトガル勢力に滅ぼされたことによってイスラーム勢力が排除されたのではないことに注意。イスラーム商人はマラッカ海峡が通れなくなったため、インド洋からスンダ海峡を通り東南アジアに進出するルートを開発、その過程でこの地域のイスラーム化が進み、アチェ王国、マタラム王国、バンテン王国などイスラーム教国が成立し、イスラーム商人のネットワークが成立した。マラッカ王国の王(スルタン)もマレー半島先端に移動し、ジョホール王国を再建している。この時代、ポルトガルはむしろ孤立し、東アジアに活路を見いだしていった。
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B 東南アジア諸国の活動- 島嶼部(スマトラ島、ジャワ島)のイスラーム教国。交易ネットワークを形成し、ポルトガルに対抗した。
a アチェ王国 : スマトラ島の北端。マラッカのポルトガル勢力と対抗し胡椒貿易で栄える。
b マタラム王国 : マジャパヒト王国に代わり、ジャワ島東部に成立。
▲c バンテン王国 : ジャワ島西部に成立。 → いずれも18~20世紀初頭にオランダに征服される。 - 大陸部の非イスラーム国家
タイ d アユタヤ朝 :アユタヤを都とし、17世紀にタイの最大領域を実現。タウングー朝の侵入により衰退。
ビルマ e タウングー朝 :1531年 ペグーを占領し建国。アユタヤ朝との抗争が続く。
▲ベトナム f 大越国 が武人政権の抗争で衰退。フエを拠点とした阮氏がg 広南国 として自立。
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Text p.200
Cスペイン の進出 16世紀 ポルトガルの東廻りに対抗し西回りでアジアに進出。- 1521年 マゼランがa フィリピン に到達。侵略を開始 。1571年、拠点としてb マニラ を建設。
- 1565年 c ガレオン船 で太平洋の横断に成功。
→ 中国のd 絹・陶磁器 ・インド産のe 綿布 などをb マニラ に集め、太平洋を横断し、
メキシコのf アカプルコ に運ぶ。そこからヨーロッパ各地にもたらされた。 = g ガレオン貿易
解説
ガレオン船は遠洋航海術が発達した大航海時代のスペインで開発された3または4本マストの大型帆船。1565年のレガスピが太平洋を東から西に横断してフィリピンに到着してから、1815年までの250年間、航海は困難で1年に1回の往復だけだったが、中国産の絹織物や陶磁器をヨーロッパにもたらし、メキシコ産の銀を中国に運び、双方の経済を支えた。
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D 東南アジア交易の展開- a 銀 の中国への流入。中国の基本通貨となり、明の一条鞭法、清の地丁銀など税制が変化。(前出)
→ b メキシコ銀 ・c 日本銀 がポルトガルの拠点 d マカオ を通じ中国にもたらされた。 - 日本のe 朱印船貿易 → フィリピン、ベトナム、タイなどに進出。 → 各地にf 日本町 ができる。
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Eオランダ・イギリス の進出と抗争 ヨーロッパのa 香辛料 の需要の高まり。- 17世紀初頭 両国はb 東インド会社 を設立。(後出)
- 1623年 アンボイナ事件 モルッカ諸島で両国が衝突。インド・東南アジアの勢力圏を分割。(後出)。
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16~18世紀 東南アジア地図
A タウングー朝
B アユタヤ朝
C 大越国
D 広南国
E アチェ王国
F バンテン王国
G マタラム王国
a マカオ b マニラ
c ハノイ d フエ
e タウングー f アユタヤ
g プノンペン h マラッカ
i ジョホール j パレンバン
k バタヴィア l マタラム
▲主な 日本町