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バクティ運動

南インドで盛んになったヒンドゥー教を純化しようという宗教運動。13~16世紀にインド各地の民衆的な一種の宗教改革運動として広がり、カースト制の否定など近代的思考の源流ともなった。

 6世紀に南インドに始まり、16世紀までに全インドに広がった、ヒンドゥー教による、ジャイナ教と仏教を排除し、インド古来の神々(シヴァ神ヴィシュヌ神など)への信仰を復興させようという民衆の宗教運動。バクティとは最高神への帰依をさす言葉で「信愛」ないし「誠信」と訳される。ウパニシャッド哲学のブラフマンとアートマンの理解や、ヴェーダの祭祀によらなくとも、熱心な帰依の心をもって、あたかも恋人にたいするように神を愛し念じれば、救済がもたらされるとする教えである。バクティ運動で聖典とされたのは、『マハーバーラータ』の中の一章である「バガヴァッド=ギーター」であり、そこでは神に対する献身を信仰の中心とする教えが、典雅な文章で語られており、それにもとづいた吟唱しながらバクティの教えを広めたのが吟遊詩人である。バクティ運動は6世紀中頃、南インドのタミル人に起こり、この吟遊詩人の活動によって、16世紀までに全インドの大衆に広がっていく。知識や理論よりも感覚や情緒によって一心に神を愛することによって恩寵を得ようとするバクティ信仰は、イスラーム教におけるスーフィズムと似ており、事実15世紀にはバクティ運動とスーフィズムを融合させたカビールの思想や、ナーナクのはじめたシク教が現れてくる。そのような宗教運動に対応したのが、ムガル帝国のアクバル帝のヒンドゥー教徒との宥和策である。

バクティ運動と日本の新仏教の類似

(引用)(バガヴァッド=ギーターに説かれている)バクティ・ヨーガは、大衆信仰の台頭という時代の要請に応えた新しい実践法(ヨーガ)であった。この教義は、ヒンドゥー教の歴史上カルマ・ヨーガ以上に画期的な、というより革命的な福音であった。その説くところの要諦は、法然、親鸞、日蓮など、わが鎌倉新仏教の祖師たちの教えに類似しており、われわれ日本人には、知識や行為による道よりもはるかにしたしみやすく、理解も容易であろう。・・・たしかに、自己の能力の精進努力によって解脱を得ようとする知識や行為のヨーガは、日本仏教史にいう難行道、すなわち「自力」に似ている。これにたいして、自己のいっさいを放擲して神に帰依し、その恩寵にあずかって解脱を得ようとするバクティ・ヨーガは、わが国の民衆仏教に説かれた易行道、すなわち「他力」に匹敵できよう。・・・また『バガヴァット=ギーター』の“たとい極悪人であっても、ひたすら私を信愛するならば、彼はまさしく善人であるとみなされるべきである。彼は正しく決意した人であるから。(9・30)”はまさに、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という『歎異抄』(第三章)の有名な親鸞の教え(悪人正機説)と軌を一にする。<森本達雄『ヒンドゥー教 -インドの聖と俗』2003 中公新書 p.350-352>

バクタの思想と行動

 13~16世紀に隆盛したバクティ運動とスーフィー運動の実践者は「バクタ」と言われた。「両運動は、インド史における人間の平等や自由をめざす近代への黎明の鐘を打ち鳴らすものであった。」  バクティ思想はまず南インドで成長、7世紀頃からヴィシュヌ派のアルハールと呼ばれた神秘主義詩人たちが寺から寺へと宗教詩を吟唱しながら巡行した。やがてチョーラ朝時代のタミルナードゥ地方にラーマーヌジャ(1017~1131)が現れ、バクティ信仰の先駆者となった。この運動は西部へ、東部へと広がりをみせ、西部インドのマハーラーシトラではナームデーウ(1270~1350)がマラーティー語での吟唱運動の先頭を切り、農業カーストに属するトゥカーラーム(1608~49)、マラーター王国シヴァージーにも影響を与えたラームダース(1608~81)が現れた。東インドではバラモン出身のチャイタニヤ(1485~1533)が吟唱行進を行いバクティ運動の中心的な指導者となり、そのベンガル語による説教はカーストの高低や性別を問わず、またヒンドゥーとムスリムという宗教の差を超え、人間の尊厳と愛情の尊さを教えた。
カビール 北部・北西部インドではカビール(1398~1448)の役割がずば抜けて大きい。彼はバナーラス(ベナレス)を拠点に、カーストの否定と人間の平等、ヒンドゥーとムスリムの団結を説いた。同時に人びとにヒンドゥー教やイスラームにまつわる儀式や虚飾の廃止をよびかけた。彼の立場からすれば、神はアッラーにも、ラーマにもあらず、平等な人間のなかにこそ求められた。その祈りの形式はバジャンとよばれ、北インド一帯で熱烈な歓迎を受けた。彼の思想はシク教の開祖ナーナクによって継承され、20世紀にはガンディーの思想にも影響を落としている。
 いずれのバクタにも共通している点として、彼らは揃ってブッダの思想や説教方法を継承していた。人間の尊重や平等の思想はブッダと軌を一にする。またブッダの説教がバラモンの言語であるサンスクリットではなく、民衆語のパーリー語でなされたように、バクタの説教も宮廷語であるペルシア語ではなく、マラーティーやベンガーリーなどの地域言語で試みた。
バクティ運動の歴史的意義 バクティ運動はヨーロッパのプロテスタント運動がキリスト教内のカソリックに与えた影響と同じように、ヒンドゥー教の正統派的思考に打撃をあたえた。歴史的見地からすると、バクティ運動は二つの重要な結果をもたらした。
・カースト制度が不可侵のものではないという思考が、カースト制度の硬い枠に亀裂を生じさせた。
・労働の尊さを説くその教えが、労働を下船なものとするカースト的人間観を否定し、生産と商業活動の進歩への刺激となった。
これらの意味において、バクティ運動はムガル封建制内部での変革への要素を示唆するものであった。<中村平治『インド史への招待』1997 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.72-78>
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第2章1節 キ.インド古典文化の黄金期
書籍案内

森本達雄
『ヒンドゥー教 -インドの聖と俗』中公新書

中村平治
『インド史への招待』
歴史文化ライブラリー
1997 吉川弘文館