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現在、存在が明らかにされている中国最古の王朝。本来は商といった。

前1550年、殷の湯王が、の暴君桀を滅ぼし、王朝を建てた(このような武力による政権交代を、放伐という)。都は河南省の二里崗遺跡の城郭がそれに当たると考えられている。以後、何度か遷都を繰り返し、次第に黄河中流中原に支配権を拡大していった。前13世紀に19代の王盤庚のとき、河南省安陽県の殷墟の地に遷都し、以後最後の紂王が前11世紀に周に倒されるまで続く。甲骨文字によるとこの都は大邑商と言われ、殷も当時はといった。殷は高度な青銅器製造技術を持ち、甲骨文字を使用した。

邑制国家

 殷王朝は、殷王の支配する殷(当時は商と言われた)は一つの都市であり、周辺のと言われる都市国家との連合体を形成しており、その中で最有力であったので大邑と言われた。このような邑の連合体からなる殷王朝の国家形態を邑制国家と定義されている。殷王の権威は多分に宗教的な権威であり、神権政治が行われており、王が占いを行うときに使われたのが甲骨文字であった。また殷は青銅器製造技術を独占し、他の都市国家の首長に対して青銅器の祭器を分与することで権威を保っていたと考えられている。ただし、殷王と連合体を組む邑の範囲、つまり殷の勢力範囲をどもまでと見るかについては、華北の相当広い範囲と見る見方と、黄河中流域の狭い範囲とする見解とが対立している。

本来の国名は商

 用語集では、「殷は商とも称した」、あるいは「商は殷の別名」とも説明されているが、現代中国の歴史教科書では、商を正式な国号として次のように説明している。
(引用)「商の湯は毫(はく)に都を定めた。政治の混乱と水害により、商の前期にはしばしば遷都した。紀元前14世紀になって、商王の盤庚が殷に遷都すると、国は安定し始めた。後世の人は商を殷または殷商と呼んでいる。盤庚による殷への遷都ののち、商の統治範囲は拡大しつづけ、当時の世界の大国となった。」<中国中学校歴史教科書『入門中国の歴史』p.79 明石書店>
このように中国では殷ではなく「商」をこの王朝名として使われていているが、日本では「殷」という呼称で一貫して説明されることが定着している。
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ノートの参照
第2章3節 ウ.殷と周