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敦煌郡/敦煌

漢の武帝が西域に置いた四郡のひとつ。唐代を中心に石窟寺院が造営される。

武帝の敦煌郡設置

武帝がおいた西域の四郡の一つ。他は、武威、張掖、酒泉。現在の甘粛省の西端で、いわゆる河西回廊の終点にも当たる。ここから先がいわゆる西域に属し、漢の西域進出の基点となった。また西域への出入口であった敦煌には仏教が早くから伝来し、多数の石窟寺院が現存している。またその石室の一つから、唐時代の古文書(敦煌文書)が多数発見されたことでも有名である。

敦煌の石窟寺院

 敦煌には4~14世紀にわたり多数の石窟寺院の建造され、多数の壁画の仏画、塑像の仏像が残されている。特に魏晋南北朝から唐代にかけての仏像や壁画などの仏教絵画は貴重な文化遺産となっている。現在の中国甘粛省のオアシス都市で西域のシルクロードへの入り口にあたり、漢の武帝の時に西域経営の基地として置かれた四郡のひとつであった。この地には早く仏教が伝わり、多数の石窟寺院が造営された。

敦煌の仏像は塑像

 その中で最大のものが莫高窟(ばっこうくつ)で、4世紀の中頃から開削が始まり、五胡十六国時代の北涼や西涼の時代を経て、北魏で盛んに造営され、隋唐時代にも続いた。新しいものでは元代のものある。千仏洞ともいわれ、多数の窟内には仏教絵画、仏像(塑像)が造られ、仏教美術の宝庫である。なお敦煌の仏像は石仏ではなく、塑像である。塑像とは粘土を固めて造る像であり、敦煌は砂漠の中にあって、雲崗竜門のような石仏は作れなかったからである。

Episode 敦煌文書の発見

 1900年のある日、莫高窟に住み着いていた王という道士が、偶然に泥壁で隠されていた一窟(蔵経洞)から、膨大な数の文書類を発見した。1907年、敦煌を訪れたイギリスの探検家スタインは王道士から文書類の多数を買い付け持ち帰った。その後も、フランスの東洋学者ペリオや日本の大谷瑞を団長とする探検隊がこれらの文書を持ち帰り、研究した。これらの文書は経典類や唐代の戸籍などを含む貴重なものであることが判明した。しかし後になって、それらの文書の中には、王道士らが金に換えようとして偽造したものが含まれていることがわかった。<金子民雄『西域 探検の世紀』岩波新書 2002>

Episode 敦煌のロマン

 井上靖の『敦煌』<1959 新潮文庫など>は映画化もされて有名である。物語は宋の時代、科挙に落第した趙行徳という主人公が、開封の町で偶然西夏の女奴隷を助けたことから、西夏軍の敦煌攻撃に加わることとなる。仏教を信仰するようになった趙行徳とは、敦煌が焼け落ちるとき、万巻の仏典を守ろうと石窟の一つに隠した。それが八百数十年後に王道士によって発見された仏典であったというもの。敦煌が西夏に占領されたのは1035年である。井上靖の得意なスケールの大きな西域もので、そのロマンが人気を博し、いまでも敦煌を訪れる日本人観光客が多い。

Episode 切り取られた敦煌壁画

 もう一つ、敦煌の話。莫高窟の壁画が切り取られ外国に持ち去れるという事件があった。1924年アメリカ人でハーヴァード大学博物館のウォーナーという人物が敦煌を訪れ、莫高窟の壁画を特殊な糊をつかい、無惨にもはぎ取っていった。その後、1930年頃、今度は有名な探検家スタインを担ぎ出し、再び敦煌に入ろうとしたが、時代は変わり中国側の意識も高まっていたのでその計画は拒否された。へディンやスタインが、従者を連れて自由に中央アジアを探検する時代は終わっていたのである。<金子民雄『西域 探検の世紀』岩波新書 2002>
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ノートの参照
第2章3節 キ.漢代の政治
第3章1節 エ.魏晋南北朝の文化
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金子民雄
『西域 探検の世紀』
岩波新書 2002

井上靖
『敦煌』
新潮文庫