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漢(前漢)

秦に続く統一王朝で、中国で最初の長期安定した王朝。前202年、劉邦が初代高祖となり、郡県制と郡国制を併用し、呉楚七国の乱を鎮圧して基盤を整え、前1世紀の後半の武帝の時に中央集権的な支配権を確立した。武帝は盛んに征服活動を行い、周辺に帝国支配を及ぼした。しかし次第に宦官と外戚が実権をふるうようになり、8年に外戚王莽に帝位を奪われ滅亡した。25年、劉秀が復興させたのを後漢というのに対し、こちらを前漢という。

 農民出身の劉邦が、前202年、に代わって樹立した中国の統一王朝。都は渭水盆地の長安。劉邦は皇帝となり漢帝国を創始(廟号を高祖という)、直轄領には郡県をおくとともに功臣を諸侯として各国に封じて封建制を併用する、いわゆる郡国制をとり支配権を安定させた。その後、漢は一族や諸侯の反乱である呉楚七国の乱を平定したことによって諸侯の力をおさえることに成功して郡県制の全国的施行を実現し、安定した支配を長期にわたり維持する体制をつくりあげた。

漢帝国の機構

 漢の中央政府の機構は、皇帝の下で行政全般を統括するのが丞相(じょうしょう)、それを補佐し、管理の監督に当たるのが御史大夫(ぎょしたいふ)、軍事面の統括者が太尉(たいい)であった。地方制度では武帝以降は郡県制が全土に及ぼされ、地方官として郡には郡守、県には県令が派遣されて中央集権体制がとられた。官吏任用は地方から有能な人物を推薦させる郷挙里選が制度化された。

全盛期、武帝の時代

 第7代武帝の時代(前2世紀後半~前1世紀初め)には、実質的に郡県制を全土に施行して中央集権的な支配を実現させ、全盛期を出現させた。
積極的な外征 さらにその支配領域を拡大し、大帝国を出現させ、周辺諸民族を支配した。特に西方の中央アジア方面に進出して匈奴を圧迫、張騫大月氏国に派遣し、シルク=ロードを制圧して東西貿易を行った。朝鮮では衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡を置き、それが日本における国家形成を促した。直轄領のさらに外部にある諸国に対しては、国王として封じてその支配を認めることで間接的に統治する冊封体制が採られた。
財政安定策 積極的な外征は次第に財政を圧迫したため、一方で五銖銭の発行や均輸法平準法の施行などの経済政策に取り組んだ。財政を補うため、塩・鉄・酒の専売制を導入した。しかし、専売制と重税は次第に農民の生活を圧迫し、農民の反発も強まって社会不安が増大した。

漢の動揺

 漢帝国は強大な皇帝権力のもと、すべての人民を直接支配するという専制国家であり、それを支えたのは、春秋・戦国時代に鉄製農耕具と牛耕の普及とともに氏族制度が崩壊し、かわりに形成された家族労働によって耕地を経営する農民層であった。しかし、前1世紀になると、このような農民層も重税・徭役・軍役などによって次第に疲弊し、貨幣経済の活発化はそのような弱小農民を没落させた。一方で、土地を集積し、奴隷を所有した豊かな層は「豪族」として力を伸ばすようになった。そのような社会の変化に加え、中央では宮廷で皇帝に近侍する宦官と、儒教理念を掲げる官吏との対立が激しくなり、また皇帝政治も宦官外戚に左右されるようになって動揺し、後8年、外戚の王莽によって帝位を奪われ、漢は滅亡する。

新と後漢の成立

 宦官と外戚が皇帝の政治を左右するようになり、また外征が財政を脅かし、紀元後8年に外戚の王莽に帝位を奪われた。これまでを前漢と言い、王莽の新を倒した劉秀が漢王朝を再建するが、そちらは後漢として区別する。後漢は3世紀に滅亡するが、前漢と合わせて約4世紀にわたって中国を支配し、周辺の諸民族に大きな影響を与えたので、「漢」の名称は現在まで中国を意味する語句として定着している。

漢帝国とローマ帝国

 ユーラシアの東、中国大陸に漢帝国が登場した頃、その西端の地中海世界は、都市国家から発展した共和政ローマが台頭し、前1世紀末にはローマ帝国が成立する。東西の異なった文明圏に、二つの世界帝国がほぼ同時に展開したことは注目すべき現象である。この両者が直接交渉した記録はないが、後漢の時代の班超の部下の甘英が地中海域まで行ったらしいこと、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の使者が日南郡に来たことなど、何らかの交渉があったとも考えられて興味深い。

補足 「漢」の意味とその使われ方。

「漢」は、漢文、漢語、漢字などのように「中国」を意味する文字として用いられるが、本来は「漢水」という川の名前にちなんだ地域名で、紀元前206年に劉邦が項羽から「漢王」という称号を与えられてから、一つの王室のシンボルとなった。そして漢王朝の樹立にともない、「漢」は中国王朝を象徴する用語となった。「漢」は王朝としては消滅したが、周辺の異民族集団との交流のなかで、中国の王朝、その領域および文化を複合的に象徴する用語として生き残った。中国王朝が「漢」地の文化をもつ人びとによって創られた時代は、中国王朝=漢、中国王朝の民=漢人とされたが、征服王朝では中国王朝=漢という前提が崩れ、「漢人」の意味は「漢地の文化をもつ人」に限定されるようになり、元代の漢人にはその前の金の支配領域にいた漢民族や女真族を意味していた。<王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005 p.26-28> → 漢民族  中国の少数民族
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第2章3節 キ.漢代の政治
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王柯『多民族国家 中国』岩波新書 2005